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「主イエスのいのちのもてなし」

「主イエスのいのちのもてなし」
                2012年12月9日
            マタイによる福音書第26章26~30節
【一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。】

今朝は、聖餐の礼典を祝いませんが、与えられた聖書のテキストは、まさに聖餐の礼典の意味を説き明かす一つの決定的に重要な個所です。もとより、聖餐の恵みについてわずか一回の説教で語ることなどできるはずもありません。説教と聖餐の礼典、これこそ、私どもの礼拝式の中心、生命なのです。このことも、一回で語ることはできません。私どもは、毎週日曜日ごとに、その恵みの重さをかみしめてまいりたいと願っています。もっともっと、深く知って行きたいと心の底から願ってやみません。

先週は、イスカリオテのユダの裏切りの物語を学びました。それは、「除酵祭」つまり、「過越の祭り」の時に起こりました。主イエスは、ご自身が十字架に赴かれるのを、旧約における最大の祭りである過越しの祭りに重ね合わせるご決意を持っておられました。何故なら、あの過越しの出来事とは、まさに、イエスさまの十字架の御業を指し示すモデル、予告の出来事に他ならないからです。過越しの出来事、その祭りの言わば本体とは、イエスさまであり、イエスさまの十字架の御業にほかならないからです。

その意味でも、あらためてマタイによる福音書が、繰り返し、このことが起こったのは聖書が成就するため、このことが起こったのは、聖書に予告されていることが実現したのだと書いていることの意味が迫ってまいります。まさに、旧約がなければ、新約はありません。新約とは旧約の上に成り立ち、旧約の成就を高らかに告げる文書なのです。

私どもの聖餐の礼典もまた、新しい神の民が独自につくりだした祭りなのではないのです。むしろ、古の神の民、イスラエルが祝い続けた過越しの祭りを受け継いでいるのです。しかも、単に受け継いではいません。そして、単に受け継ぐことは、もはや許されません。イエスさまの十字架の過越しを無視することになるからです。そこで、ユダヤ教とキリスト教との決定的な違いもまた明瞭になるわけです。しかし、今朝、私どもはあらためて、旧約の約束、契約が成就したから、私どもの救いは完成されたのだということを、心に刻みつけたいと思います。

この過ぎ越しの祭りとは、今朝も唱えました十戒の序文にありますように、昔、神の民イスラエルがエジプトの奴隷とされて苦しめられていたとき、神が指導者モーセを通して、彼らをその地から脱出させ、救い出してくださったことを記念する祭りです。過越しの祭りで行わる儀式の中心は、夜に種を入れない粗末なパンを食べることでした。大急ぎで、エジプトから脱出したことを忘れないためです。

さて、イスカリオテのユダは、過ぎ越しの食卓からそっと抜け出して行きました。主イエスを売り渡す手はずを整えるためです。そしてその後、主イエスは、実に、驚くべきことを宣言されました。何故なら、この言葉は、過越祭の儀式における式文にはないことばだからです。ありえない言葉だからです。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

これまでも主イエスは、弟子たちと少なくとも複数回、過越の夕食を取られたはずです。弟子たちは、「今年はどこでそれを守るのか」と尋ねています。そして、今年も過越の儀式を祝っています。しかし、食事をしながら、突然、このように語られたのです。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」つまり、この瞬間、過越祭は中止されたということです。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」この主イエスの御言葉の宣言によって、もはや、過越祭はその役目を終えてしまいます。確かに、それまでは、過越の祭りは、神の民であれば、絶対に祝わなければならない神との契約でした。しかし、もはや、過越を祝う必要はありませんし、本来、祝ってはならないのです。

ここで、出エジプト記第24章を、丁寧に読みたいと思います。この個所は、神とイスラエルとが契約を結ぶ場面です。3節以下にこのようにあります。「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。」信仰の指導者モーセは、主から受けた御言葉、律法を民に読み聞かせます。

すると、神の民は全員、声をそろえて、応答しました。「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」これが神との契約の締結です。神の民は、神の御言葉に聴き、従い、行うところで、神の民としての実質を得ることができるわけです。するとモーセは、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言う民の言葉だけではすませず、神の御言葉を守る約束を確かなものとするため、雄牛を犠牲に捧げてその約束の言葉の真実を神に誓うのです。和解の捧げ物です。

第24章6節以下にこうあります。「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

契約の締結の徴として、モーセは、いけにえとして屠った雄牛の血の半分を、民に振りかけます。動物のいのちを犠牲にして、神の民の真実を証明しているわけです。そして、モーセは、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」と宣言しました。

さて、ここでこそ、私どもがしっかりとわきまえたいことがあります。この過越の祭りはもとより、すべて神さまを礼拝するとき、そこには、真実が求められているということです。人間と人間が本当に出会いためには、本物の出会いとなるために、絶対に必要なのは何でしょうか。それは、お互いの真実ということです。真心がないところで、人が人に人格的に出会うことはできません。確かに、真心がなくても仕事の付き合いや、さまざま付き合いはできるでしょう。生活のなかで、お金で解決する場面は、沢山あります。けれども、人が人として向かい合って、その人と出会うためには、その人の心が素直になって、心をお互いに開くことがなければかないません。そうであれば、礼拝こそ、それが求められるのは、言うまでもないことです。しかも、何よりも大前提としてあるのは、実に、私どもの神は、徹底的に真実に私どもに向き合っていて下さるということです。本気で、その全存在を傾けて、神の子どもたちに心を開いて、まっすぐに向かって下さいます。問われているのは、私どもの方です。私どもが、もしも、形ばかりの礼拝をしているのなら、それは、正しい意味での神礼拝とは言えないのであります。動物のいのちが犠牲になるということは、それほど真剣なことなのだということが示されています。

さて、すでにお気づきになられた方もいらっしゃるかもしれません。主イエスが最後の晩餐の折、つまり主イエスの晩餐において、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と宣言された「契約の血」のルーツが、ここに出ているわけです。これだけでも、聖餐の礼典は、過越しの祭りがルーツにあると言うことが分かるだろうと思います。私どももまた、聖餐を執行する際に、司式者は、これは必ず、キリストご自身がこの礼典を制定された言葉を読まなければなりません。わたしは、一貫してコリントの信徒への手紙一第11章を用いてまいりました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」すでに、覚えておられる方もいらっしゃるかもしれません。いずれにしろ、ぶどうジュースを飲む前に、私どもは、血によって契約が締結されたことを、ここで繰り返し確認するわけです。

主イエスがこの最後の晩餐において「契約の血」と語られた時、それは、決して、過越の祭りの契約の血を意味しているわけではありません。その最も確かな証拠は、これです。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」このような言葉は、当然、過越祭にはありません。そのような式文を勝手に付け加えてはなりません。しかし今、救い主でいらっしゃるイエスさまが、高らかに宣言なさったのです。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」つまり、この瞬間、過越祭は中止されたということです。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」この宣言によって、もはや、過越祭は、その役目を終えるのです。こう仰ったのは、イエスさまが十字架の上で、ご自身のお体を裂かれることを予告しておられるのです。そしてご自身が十字架の上で流される御血潮は、雄牛の血とはまったくわけが違います。神の独り子でいらっしゃり、人間となってくださったイエスさまの血が流されたのです。つまり、死んで下さったのです。あの十字架の上で起った出来事とは、神の御子の私どもの救いの為の死、贖いの死だったのです。

わたしは昔、福音書を読んでいて、不思議に思ったことが何度もあります。それは、何故、新約の手紙には、主イエスの十字架と復活の意味について、集中的に議論しているのに、肝心かなめの福音書の中で、イエスさまが、ちっとも、十字架の意味、そのメッセージを語らないのかということでした。確かに、マタイによる福音書を読んでも、十字架と復活の予告はありますが、何故、十字架と復活なのかということについては、驚くほど、記されていません。しかし、それだからこそ、この主の晩餐、最後の夕食のときの主イエスの御言葉が圧倒的な重さ、重みで私どもに迫ってまいります。主イエスは、ご自身が十字架につけられることの意味、その目的について、まさにここでこそ語られたのです。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」あの流された御血は、契約の血であるという宣言です。新しい契約の血です。罪が赦される為の、身代わりの死だと宣言されたのです。しかも、この契約、この救いの約束を、イスラエルが過越しで更新するのではないのです。神の御子イエスさまご自身が、雄牛の血ではありません、主イエスさまご自身の御血を流すことによって、契約を締結されたのです。そして、これを、教会に聖餐の礼典として定め、これを守るように招いて下さったのです。私どもは、一方的に、イエスさまの十字架の救いの御業、約束によって救われてしまったのです。罪が赦されて、神の子とされてしまったのです。

旧約時代、イスラエルは、エジプトにおける過酷な奴隷生活から、神の憐れみによって、指導者モーセを通して、救い出されました。そればかりか、あらためて自分たちが神に選ばれた民であり、神の御言葉が与えられ、御言葉に生きる祝福と責任を与えられていることを悟らされました。しかし、彼らは、結局、その祝福を軽んじ、その責任を果たすことができなかったのです。それは、ただ単に、過越しの祭りをはじめ、神殿における礼拝やその他の決まりごとをうわべにおいて守っていることではありません。儀式を忠実に守れていれば、それで神の民としての特権と義務、祝福と責任に生きることにはなりません。その形骸化した宗教、儀式化した信仰、中身がなくなってしまった彼らの信仰を、主イエスがどれほど、嘆かれたことでしょうか。だからこそ、主イエスは、宗教指導者たちに、極めて厳しい態度で接しられたのです。悔い改めを求められたのです。そして、かえって彼らの反感、憎しみを買って、殺されようとしています。

しかし、主イエスは、彼らの殺害の企てをもご自身の栄光に用いて、ご自身のいのちをもって、神の民を贖いとろうとされます。しかもそれは、旧約のイスラエル、ユダヤ人だけではありません。全人類のためです。全人類の中から選びの民をみもとに集めらるためです。そのために、十字架に赴くのです。

そして、その後、復活して父なる神の右に昇って行かれた主イエスは、聖霊によって今、神の民と共にいてくださいます。私どもと共にいて下さっています。そのことが、教会のまさにいのちなのです。主イエス・キリストが共にいて下さること、それこそが、教会の生命です。それは、聖霊が臨在されるということです。そして、その中心的な時と場所こそ、主の日に他なりません。日曜日の礼拝式を捧げている時と場所です。ここには、主イエス・キリストが臨在されています。確かに今朝は、聖餐の礼典はありません。しかし、主は、御言葉の朗読と説教とによって変わらずにここに共におられます。

私どもは今朝もこの礼拝式のあるじでいらっしゃるイエスさまからのおもてなしを受けています。私どもは、先週、朝昼夜と三度三度のご飯を基本的にいただいたと思います。ご飯をつくってもらった人、作った人もいます。自分でつくって食べる人も少なくありません。ありがたいことです。これも、神さまの恵みと言わざるを得ません。神からの祝福です。憐れみです。しかし、人間は、ただそれだけでは、生きて行くことはできません。人間は、神のいのちを受けなければ、魂の食べ物を食べ、飲み物を飲まなければ生きて行けません。つまり、イエス・キリストを食べること、イエス・キリストとの交わり、主イエス・キリストと向き合って、心行くまで満たされる必要があるのです。主イエスは、今朝も聖餐の食卓のふるまいはありませんが、神の言葉によって私どもにいのちを注ぎ、私どものいのちを新しく満たして下さいます。

ここであらためて先週の説教を思い起こしましょう。イスカリオテのユダ、彼は、主イエスに愛されていました。最後の最後まで主イエスは、彼を愛し抜かれました。しかし、彼は、主イエスを裏切りました。彼は、主イエスのいのちの値段として、銀貨30枚が妥当だと判断しました。つまり、今で言えば、およそ30万円です。たった30万円で、イエスさまのいのちを売り渡したのです。しかし、今朝、私どもはここではっきりと告げられています。主イエスは、私どもが神を神としないその罪によって、神との正しい関係を破っているその罪の故に、永遠の滅び、永遠の死に定められている私どもを買い戻して下さいます。どのように買い戻されるのでしょうか。買い戻すことを贖うと言いますが、どのように贖われるのでしょうか。それが十字架です。つまり、神の御子のいのちそのものを贖いの代価として支払って下さったのです。私どもの値打ち、私どものいのちの値打ちは、ここで、真実に明らかにされたのです。天のお父さまは、私自身のいのちの価値を、イエスさまのいのちと同じとしてくださったということです。驚くべきことです。自分自身について、これほどまでに高い評価を下されたのです。まさに、驚天動地ではないでしょうか。これが、福音です。ここに、神の恵みがあります。

実に、礼拝式とは神のおもてなしを受ける聖なる時です。場所です。ありえないほどの祝福と幸いに私どもは招かれています。この現実が、ある人には、まったく分かりません。つまり、信仰なき人には、分かりません。しかし、私どもは、信仰を与えられ、この現実にあずかっています。もっともっと、あずかりたいのです。そのために、私どもは、もっと真実に、もっと真剣に、もっと激しい思いで主イエスを求めたいのです。私は、詩編第42編を思い起こします。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」この魂の渇きを本当に知っているのは、誰でしょうか。それは、魂が神の霊によって満たされたことのある人です。天のお父さまの愛と恵みの交わりを知らない人々は、そのように求めることができません。しかし、私どもは渇いています。この渇きは、聖餐のぶどうジュースでしかうるおされません。もとより、それは、単なるぶどうジュースではありません。主イエスごじしんを指し示すものです。つまり、私どもの魂の渇きとは、あの十字架で死んで下さったイエスさまとそのご愛、その真実、そのいのちでしか満たされないということです。そして今朝、目には見えませんが臨在しておられる主イエスは、私どもをそのいのちをかけて救って下さったご愛と真実とをもって、いのちの御言葉をもって、もてなしてくださいます。このもてなしを、心行くまで受けましょう。そのとき、私どもは、そこで立ち止まることは、できなくなります。つまり、私どももまた、もてなす側に立つのです。もてなす者、奉仕する者とされて行くのです。今朝、主イエスのいのちのもてなしを受けた者として、ここから立ち上がってまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、それ故に私どもの天の父よ、あなたは、あなたを畏れ敬い従わなければならない者でありながら、むしろ、反抗し、罪を重ねる者でしかない私どもを、今朝も、いのちの食卓にお招き下さいました。何と言う恵み、何と言う幸いでしょうか。心から御名を崇めます。どうぞ、礼拝することのできる特権、救いの恵みにあずかった私どもが、いよいよ、真実に礼拝する者となることができますように。あなたを礼拝すること以上に、この地上に大切なことはありません。どうぞ、その重み、その特権を先ず、私どもの教会が、さらに真剣に受け止めることができますように。この町に住みながら、あなたのいのちのもてなしに招かれていながら、ここに来ることができない方々のために、どうぞ、私どもを用いて下さい。アーメン。