過去の投稿2012年12月16日

12月16日

☆  伝道新聞が刷り上がりました。先回に引き続き、大変、すばらしいものとなりました。これまで、伝道新聞は、B4用紙両面に、メッセージを満載していました。今回のものは、表紙を一瞬見れば、どこのレストランのクリスマスディナー広告か・・・と見間違う方もいらっしゃるかもわかりません。集会案内の「チラシ」となり、しかも現代的、若者の感覚です。問題は、これをどのように友人、知人に「手渡す」のかです。もとより、新聞折り込みや地域の皆さまに戸別配布を行います。しかし、私どもの祈りと責任は、むしろ、顔と顔とを向けて「手渡し」することです。あるいは、自分のことばを添えて郵送することです。どうぞ、勇気を出し、自分の身の周りの方に、手渡しましょう。こんなに、素敵なチラシなのですから。

★  表紙は、昨年の燭火礼拝式の写真が採用されています。今年もまた、キャンドルが美しく灯されることで 
しょう。伝道の善き時として用いて下さい。燭火礼拝式の楽しみは、やはり、入会者の「証」だと思います。 復活祭で洗礼入会された○○兄、先日の○○兄妹方、そして次主日の○○兄が予定されています。どうぞ、ご準備のためにお祈り下さい。そして、兄妹の上になされた神の御業を共に感謝し、賛美いたしましょう。

☆  朝夕の祈祷会で、コーヒーブレイク(帰納法的聖書研究)を実際に行ってみました。先ず、この伝道的聖書研究とは、生けるイエス・キリストを紹介すること、主イエスを鮮明にすること、すべての関心をこのお方へと集中させることが、要になることを確認いたしました。そのために、使徒言行録第8章34-35節を読みました。「宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」

テキストは、ヨハネによる福音書が用いられ、第一課は、第1章における弟子たちと主イエスとの出会いの物語でした。洗礼者ヨハネと4人の弟子たちが登場します。朝の祈祷会では、未信者の方のための集会であることを想定しながら、行ってみました。それだけに、どこかぎこちなく・・・、そんな印象をわたし自身もってしまいました。何よりも、このテキストは、未信者のため、新しい方のためには、あまりピンとこないのではないか・・・と。ところが、夜の祈祷会で、(夜の司会(リーダー)は、急きょ、家内に、してもらいました。)○○委員が、ごじしんが大学生のとき、初めての聖書を読んだ個所がまさに、この個所であったとのこと。しかも、この個所から、求道への思いが起こされたとのことを伺いました。粛然としました。選びの民にとって、基本的には、どの聖書の個所からでも、主なる神からの招きを受けることができるのだと思わされました。しかも、主イエスと弟子たちの出会いの物語なのですから、初心者のためにも有益であるということです。なるほど、主の選びを信じて、このような集会を行うことの有益さ、有効性を改めて悟らされました。

今週は、テキストは第2章です。前半のカナの婚礼だけを取り扱って、もう一度、祈祷会で行ってみたいと思います。そして、今回は、未信者の方のことを想定せず、キリスト者でしているわけですから、自分たちの信仰と聖書理解を含んで、自由に御言葉の恵みを分かち合えれば・・・と願っています。

★  本日は、衆議院の総選挙投票日です。8時までに、投票したいと思います。9条を中心に、「改憲」を豪語する力が圧倒的なまでに勢力を拡大しています。原発問題も大きな争点となっています。同時に、最高裁判所の裁判官の審査を行われます。日の丸君が代の強制を憲法違反ではないとする判決を下した方々も少なくありません。立法府、行政府、司法の三権が、まさに総右傾化傾向の様相を帯びています。12月8日、先の大戦の開戦記念日でした。あの出来事の「反省」(教会では、「悔い改め」)からの出発以外に、本来のあるべき日本の姿を描くことはできないはずです。しかし、戦争体験世代は、わずかになりました。テモテへの手紙Ⅰ第2章冒頭で、パウロは、いの一番に祈るべきこととして、「王たちやすべての高官のために」と言いました。それは、「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」だと言いました。「落ち着いた生活」は、すでに瀬戸際を越えています・・・。本日深夜、日本キリスト改革派教会として、あるいは中部中会としても、今後の政治状況にどのように立ち向かうべきなのか、深い憂慮の思いと同時に、「覚悟」と「決意」を深めることとなることを、わたし自身は予想しています。「悔い改めのない民は、滅びる。」神との関わりのなかで国は立ちもすれば、倒れもすることは、聖書にあるとおりです。民主主義は、数の力・・・、と言われます。しかしもし、それだけが貫かれるとするなら、教会の力は、どれほど弱いかと思います。そして、危険極まりない事態になります。最後まで、「主権者」であるはずの、彼らの投票行為のために祈りましょう。