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「人生の中心、クリスマス」 

「人生の中心、クリスマス 
-この人と出会うために、生まれてきた!-」
2012年12月16日 ファミリー礼拝式
聖書朗読 テモテへの手紙Ⅰ第1章12~17節
【わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。】

今朝は、ファミリー礼拝式として、クリスマスのお祝いをしています。今朝、天のお父さまが、ここにいるひとり一人の名前を呼んで、集めて下さいました。そして、今、皆さんとここで出会えたことを、心から神さまに感謝しています。クリスマスの祝福がおひとりお一人の上にありますように。

今は、教会以外でもクリスマス、クリスマスと言われます。けれどもそれは、サンタクロースの日だったり、プレゼントをもらえる日だったり、本当のクリスマスとはまったく違ったものとなってしまっているものが多いと思います。ほんとうのクリスマスとは、天のお父さまの御子でいらっしゃるイエスさまが人となってこの地上にお生まれになられた日です。イエスさまのお誕生日を特別な思いを込めて感謝して、イエスさまを礼拝する日、イエスさまを信じて、イエスさまと深く結ばれる日、出会う日がクリスマスなのです。

いったい、人間が人間となるために、絶対に必要なのは何でしょうか。その決定的な一つの事実は、自分以外の誰かと出会うということ、これです。わたしそしてあなたという人間は、自分以外の誰かとの出会いによってわたしとなることができたのですし、あなたとなることができたわけです。人間は、自分ひとりでは、生きることはできません。自分となることができません。そもそも、もしも、お父さんとお母さんとが出会っていなければ、今日、わたしたちはここにおりません。生まれて来れませんでした。生まれた瞬間に、お母さんと出会い、もちろんお父さんと出会ったから、今日まで育つこともできなかったはずです。まさに、人は、出会いによって決まる。人生は、誰と出会うかによって決まる、こう言っても決して言い過ぎではないと思います。友達や恋人との出会いということも、振り返ってみると、本当に、すばらしいことだと思います。あのとき、あの場所にいなければ、絶対に会っていなかっただろう二人が、今、いっしょにいる。親友となっている。家族になっている。すごいことです。すばらしいことだと思います。わたしという人間は、あなたと出会って初めて、わたしという人間になれたわけです。今日も、その意味で、先生は、皆さんとここで、教会で出会えていることを心から感謝しています。皆さんがいなければ、先生もここにいません。先生になれません。自分になれません。

そもそも、神さまは、人間を最初からひとりとしてお造りになられませんでしたよね。アダムさんにはエバというすてきな女性が与えられました。アダムさんは、エバさんの助けを受けて、はじめてアダムさんになれたのです。エバさんも同じでことです。アダムさんの助けを受けて、はじめてエバになれたのです。

さて、けれどもその一方で、こんな人と出会いたくなかった、とか、こんな人と出会ってしまったから、わたしの人生は、こんなに悲しいものになってしまったのだ、つらくなってしまったのだとか、そんな悲しい気持ちを持つ人も、少なくありません。どちらにしても、人にとって誰と出会うのか、それがどんなに大切なことであるのかを、思います。

さてそこで、あなたは、すでにもう、大切な多くの人と出会っています。けれども、世界で一番大切な人、あなたにとって一番大切な人とは、出会っているでしょうか。既に出会っているお父さんやお母さん、お友達、そのすばらしい出会いを本当にすばらしいものとしてくださる決定的に大切な人。嫌な人、会わなければよかったのにと思って、心が痛んでしかたのない人にとっては、それに負けないで、すべてを受けとめて前を向いて元気に進んで生きて行けるようになるために決定的に必要な人。その人と出会っていますか。その人と絶対に出会って欲しいのです。出会う必要があります。それは誰でしょうか。それが、イエスさまです。

さて、もともとイエスさまは、この地上にお生まれになる前にはどこにいらっしゃったのでしょうか。天のお父さまがいらっしゃるところ、天国です。イエスさまは、天国の主でいらっしゃるのです。けれども、今から2000年前に、ユダヤのベツレヘムで、お母さんのマリアさんのお腹に聖霊によって宿ってくださいました。こうして、僕たち私たちの住む地球に来て下さったのです。生まれて来て下さったのです。それには、はっきりとして理由があります。生まれてきて下さったのには、大切な、特別の目的があります。それは、イエスさまだけしかできないことなのです。それは、何でしょうか。そのことを、今朝、先ず、考えてみましょう。

それを、使徒パウロの言葉から学びたいと思います。パウロという人は、実は、もともとはイエスさまのお弟子さんではありません。そればかりか、パウロは、昔、イエスさまとイエスさまを信じる人々のことを憎んでいました。大人だけでなく子どもたちまで迫害して、牢屋に入れてしまったり、殺してしまったりしていました。パウロさんは、そんなことをすることが、神さまに喜ばれる、正しいことなのだと間違って信じていたのです。ある日、いつものように、イエスさまの弟子たち、キリスト者を見つけて、迫害していたパウロさんに、復活されたイエスさまは近づいてくださいました。パウロと出会って下さったのです。そして、このパウロを赦して、弟子にされたのです。これまでとは正反対に、神さまの栄光のために、イエスさまのすばらしい教えを世界中の人たちに伝える仕事を任されたのです。

こうして、パウロさんはイエスさまの弟子の中の弟子、使徒としていただきました。パウロは、今日、読んだ聖書の中でこのように言っています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」教会の先輩たちは、パウロさんが、自分たちを苦しめていた人だとしっていましたが、神さまに命じられて、パウロさんを赦してあげました。そして、自分たちの仲間のひとり、神さまの家族、兄弟として受け入れたのです。そして、心を込めて、聖書の真理、福音を教えてあげました。「パウロさん、イエスさまがこの地上にお生まれになられたのはですね、この地上に天から降りて来られたということの意味、目的はですね、それは、罪人を救うためなのです。」パウロさんは、心の底の底から、「キリスト・イエスさまは、罪人を救うために世に来られた」この教えは、ウソではなく真実であり、作り話ではなくそのまま信じるに値しますと心の底から信じることができたのです。自分こそ、イエスさまの敵として、イエスさまを信じる人たちを苦しめていたのに、イエスさまは赦してくださり、教会の仲間たちも赦してくれたからです。本当に、パウロさんは、救われたのです。罪を赦されて、イエスさまの愛、神さまの愛を受けて、もう、飛び上がるほどの喜びに満ち溢れているのです。素敵なことですね。すばらしいことです。パウロさんは、もう、これ以上ないほどの喜び、感謝、感激に溢れているのです。どうしてなのでしょうか。こたえは、簡単です。本当に、イエスさまにお会いしたからです。イエスさまに出会っていただいたからです。

クリスマスの日に、この地球に、昔からの神さまのお約束通り、あのユダヤのベツレヘムに来て下った、そのご目的は、パウロひとりではなく、僕たち私たち、ひとりひとりと出会うために、生まれてきて下さったのです。聖書はそう言っています。あなたを本当に救って、人間として生きるため、人間として成長するため、育てるため、何よりも、神さまの子どもとして永遠に生かすために、来て下さったのです。

そのことを信じることができた人は、このことも分かってきます。それは、あなたは、何のために生まれてのかということです。あなたは、なぜ、この地球の上に生まれて来たのでしょうか。それは、このイエスさまに出会うためです。イエスさまにお会いして、あなたが神さまの子どもになること、そのために、イエスさまは来て下さったし、あなたは生まれて来たのです。もし、イエスさまに出会えないと、あなたは本当の自分になれないのです。本当の自分とは、神さまの子どもということです。天国の子どもです。

それなら、いったいどこでこのイエスさまと出会えるのでしょうか。教会の屋根の上に十字架が高く掲げられていることを知っていますか。教会にとって、イエスさまにとって一番、大切なのは、十字架でした。実は、イエスさまが人間となって、この世界に来て下さったのは、十字架につくためでした。十字架とは、僕たち私たちの罪を赦すために、イエスさまが身代わりに罪の刑罰を受けてくださる方法です。罪とは、神さまと正しい関係にないということです。神さまを信じないで、自分を中心に考え、生きることです。神さまから離れてしまっている姿です。神さまから離れていると、自分勝手な悪い考えを持ったり、口にしたり、行ったりします。

天のお父さまがイエスさまをこの地上に送って下さいました。天からこの地上に、上から下にです。天のお父さまとイエスさまとは、いつも正しい関係にありました。神さまのひとり子として、この地上で生きられました。愛と信頼の関係で堅くかたく、ふかく深く結ばれていました。

これは、一つの譬えですが、十字架の縦の木がそれを現わしています。つまり縦の線は、神さまの世界です。父なる神さまとイエスさまのすばらしい関係です。それなら、横の木は何を譬えることができるでしょうか。それは、あなたと私がいる人間の世界です。この世です。縦の線は、上から下に降りて来られたイエスさまは、横の線とぶつかりること、交わるために来られたのです。あなたと出会うためです。この縦の線と横の線が合わさる場所、そこに十字架のかたちがあらわれます。そして、その十字の交差するちょうど真ん中のところ、そこにあなたがいるのです。先生もいるのです。本当の自分がいるのです。神さまに出会って、本当の自分自身、神さまの子どもの自分が生まれるのです。この場所にいるとき、あのアンパンマンのマーチの歌のように、「そうだ、嬉しいんだ。生きる喜び。たとえ、胸の傷が痛んでも」と歌いだしたくなるのです。そして、そのとき、クリスマスは、あなたの為のクリスマスになります。自分を神さまのこどもにするために、神の御子のイエスさまがお生まれになってくださったという本当のクリスマスの意味が実現するのです。

そんなすばらしい十字路、出会いの場所はどこにあるのでしょうか。それが教会です。教会といっても建物のことではありません。滝の水2丁目2012番地という住所のことでもありません。それは、皆で礼拝を捧げているこの場所、時間のことです。これが、人間にとってもっとも大切な時間なのです。人生の中心点です。ここで、人生の座標軸が定まるのです。中心が分からなければ、世界はめちゃくちゃです。どこでどう生きていけばよいのか分かりません。でたらめになります。イエスさまと出会うことが出来た人は本当に幸せです。軸が定まるからです。中心が分かるからです。ああ、こんなことしていてはダメだなとか、大丈夫とか、分かってくるのです。クリスマスは、人生の中心になるのです。

今、僕たち私たちは、礼拝式を捧げています。だから、すばらしいですね。あなたは、イエスさまに出会うため、イエスさまはあなたに出会うために生まれて来たのです。縦の線と横の線が十字に重なります。その真ん中で、イエスさまと僕たち私たちは、結ばれています。もう、こわいものなしです。

祈祷
天のお父さま、今、ここに目には見えませんが、聖霊によってイエスさまがいらっしゃることを信じ、感謝いたします。イエスさまを信じることによって、今、ここでイエスさまと出会うことができました。イエスさまのおかげで、神さまの子どもにしていただけました。心から感謝致します。生まれたときからイエスさまを知り、教会に来ることができることを、心から感謝いたします。毎週の日曜日の子どもの教会の礼拝を祝福してください。地域の子どもたち、学校のお友達にもイエスさまのことを伝えることができますように。イエスさまと出会えるように、僕たち私たちが声をかけて誘うことができますように。