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「つまずきの岩 -キリスト教に躓くとはー」

「つまずきの岩 -【キリスト教】に躓くとは-」
                2013年1月20日
            マタイによる福音書第26章30~35節
【一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。】

もう15年以上も前のことになりますが、伝道新聞の巻頭言に、「聖書は自虐史観なのか」という題で文章を記したことがあります。安倍政権は、発足早々、教育再生実行会議を設置しました。先週は、新聞の投書欄に、民主党政権時代に事業仕訳された「心のノート」が既に小中学校に配布されているということを知り、暗然たる思いを持ちました。教育再生実行会議のメンバーには、かつて「新しい歴史教科書」をつくろうとした活動家、自虐史観という言葉をもって、自分たちの国の過ちをことさら書きたてるような歴史書を、教科書にするなど許しがたいという強い主張を繰り返す人々が入っています。

そのような主義でつくられる歴史教科書と聖書との間には、なんという違いがあるのかと思います。聖書は、歴史書です。神の民の歴史を編んだものです。神がご自身の民にどのようにかかわられたのか、神の民はそれにどう応答したのか、神と神の民によって織りなされる歴史が聖書の内容です。その聖書の中に、神の民の弱さ、失敗、つまづきがこれでもかと言わんがばかり、正直に記されています。自分たちの過去の過ちを赤裸々に、率直に残したのです。宗教団体の歴史を書く時、そのようなことは、およそ考えられない事だと思います。

ここに、記されたこともその典型です。主は、ここで、弟子たち全員が「決してそんなことにはなりません」と反発し否定するような事態を予告されました。主は、過ぎ越しの祭りを祝った直後に、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と語られました。さらに、ペトロには、こう断言されました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」これに対し、筆頭弟子であったペトロは、責任感も加わってのことだと思いますが、こう言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」さらに、言いました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」ペトロは、嘘偽りなく、心の底から真実に言ったのだと思います。そして、「弟子たちも皆、同じように言った」わけです。

しかし、既に私どもは知っています。69節以下、ペトロは、「三度わたしのことを知らない」と言ってしまったのです。もしかすると「知らない」という言葉に、どこか弱い印象を持たれるかもしれません。「ああ、そのことなら知っているよ。」「ええ、そんなこと知らなかったな」ここでは、そう言う次元の事ではありません。「否定する」ということです。実は、「捨てる」とも訳せる言葉が用いられています。主を捨てるのです。主イエスは、ペトロをはじめ弟子たち全員が、ご自身を捨てると言うことを、ここではっきりと予告されたわけです。しかも、それは、わずか数時間後のことなのです。

いったいもしも、キリスト教をひとつの宗教として考え、キリスト教会を宗教団体として考えるなら、こんなにおかしなことはないのではないでしょうか。自分たちの言わば指導者のスキャンダルを、しかも本人の存命中に記録に残しているのです。自分たちの最大の指導者のひとり、いへ、使徒たち全員が、主イエスを否定する、捨ててしまった事実を赤裸々に記すのです。ペトロ自身のことばを用いれば「躓いた」のです。この躓き・スカンダロンという言葉からスキャンダルという言葉が生じました。教会は、このスキャンダル、つまづきを隠そうとしないのです。そこに聖書の深さ、真理があります。神の真理があり、人間の真実があります。つまり、人間の真実をまるごと受けとめて救いあげ、赦してくださる神の真実があるのです。

さて、今、わたしは人間の真実と申しました。いったい人間の真実、本質、あるいは本性と言ってもよいかもしれませんが、それは何でしょうか。聖書は、それを一言で罪と申します。つまり、人間の真実、本質とは罪人であるということなのです。うっかりするとキリスト者自身が時に、自分の真実、本性を忘れてしまったかのような言動が見られることがあるだろうと思います。人間とは、そしてキリスト者とは、ここで筆頭弟子のペトロ、後の大使徒と呼ばれるペトロの姿そのものの中に見事にあらわされているのです。

それなら、何故、主イエスに躓くのでしょうか。問題はまさにそこです。教会では、時々、非常に悲しいことですが、「躓く」と言う言葉が出ます。大抵、躓かされたという表現です。つまり、被害者の発言として使われます。さてしかし、今朝与えられた御言葉は、私どもの課題としての躓きのことが語られているのではありません。言わば、本物の躓きについて示されたのです。今朝、そのことを、しっかり学びましょう。いったい、本物の躓き、真の躓きとは、何なのでしょうか。それは、イエスさまご自身です。

私どもの教会名は、「岩の上」です。聖書の中に「岩」は何か所も出てまいります。その中で、今朝の真理に関わるのは、イザヤ書第8章13節以下です。「あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」つまり、神ご自身が神の民のつまずきの岩なのです。エレミヤ第6章では、神ご自身が自ら民に、躓きの岩を置くと宣言されています。つまり、このつまづきとは、私どもが、どうすることもできないことなのだということが分かります。

私どもは、主イエス・キリストの父でいらっしゃる故に、私どもは心から天のお父さまと大胆にもそのようにお呼びします。それだけに、私どもは、父なる神を、時に、人間の親、父親になぞらえて表現することがあります。しかしもし、それを正しい聖書の理解に基づかないで人間の勝手な宗教心で考えるなら、まさに、そこで躓いてしまうはずです。いったい、子どもを愛する親がわざわざ躓きの石、いへ、岩などを置くでしょうか。もとより、父なる神は、人間の親でもしますが、愛する子らを試練によって鍛えて下さいます。試練は、私どもへの神の訓練であり、深い親心です。しかし、それでもその訓練は耐えがたいものをお与えになることはないと約束されています。しかし、今朝、私どもは、この究極の躓きについて考えさせられるのです。もし、ここで躓くなら、まさに私どもと主イエスとが、関わりのない者、絆が切られた者、結ばれていない者となってしまうのです。それなら、いったい何故、父なる神は、わざわざそのような躓きの岩、妨げの石を私どもの前に置かれるのでしょうか。

私は、主イエスは、洗礼者ヨハネにこのように仰せになられた御言葉を思い起こします。マタイによる福音書第11章です。「わたしにつまずかない人は幸いである。」つまり、主イエスは、ここで、ご自身がつまずきの岩そのものなのだとはっきりと宣言なさったということです。

そこで、人間的に考えれば、だったらわざわざ何故、よりによって最愛の弟子たちをつまずかせるのだろうか、まったく意味が分からない、ありえない、むしろ、愚かなことではないかと思うはずです。そうです。そこに福音の愚かさがあります。神の愚かさがあります。そして、聖書のまことの躓きがあるのです。パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰの冒頭で高らかに宣言した真理です。「しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」十字架につけられたキリストは、特にユダヤ人に躓かせるものなのです。何故でしょうか。今朝の個所から読めば、それは、神の御子、キリストでいらっしゃるはずのイエスさまが、父なる神に見捨てられてしまうということが起こったからです。

主は、ゼカリヤ書第13章9節の御言葉を引用して、予告されました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。」わたしとは、父なる神です。羊飼いとは、イエスさまです。実に、イエスさまを罰する、打ちたたかれたのは、わたし、つまり父なる神ご自身なのです。そのとき、羊の群れ、つまり、私どもです。教会です。教会は、散ってしまうのです。後で、読んで頂ければ幸いですが、こうあります。「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。」私どもの理性では、追いつかないような真理です。ゼカリヤは、神は、私ども神の民を、金や銀を精錬するかのように試されるためなのだといのです。そして、神は、三分の一の民を残されると仰ったのです。そのようにして鍛えられた民が、「主こそわたしの神」と告白し、神を賛美すると予告するのです。

さて、元に戻ります。これは私の想像となりますが、もし、ペトロが主イエスが、祭司たち、長老たち、律法学者、ファリサイ派の人々から捨てられるなら、あるいは百歩譲って群衆に捨てられようとするだけなら、おそらく躓かなかったと思います。逃げなかったと思います。誰も、イエスさまをお守りしないのであれば、その時こそ、自分の出番だと思ったのだと、わたしは思います。ところが、主、キリストと信じているイエスさまが、よりによもよって、父なる神さまに捨てられてしまう現実を見たとき、これまで自分たちが思い描いていたキリスト像、救い主のイメージが完全に崩壊してしまったのです。「もう、でたらめではないか。宗教指導者たちに攻撃されることになるのは、分かっていた。しかし、イエスさまはキリストさまだから、まさに神の力で彼らは、打ち倒されるのだ。しかし、イエスさまは、何の抵抗もなさらず逮捕される。神は、そこに手を出されない。いったい、もはや、何が何だか分からない、すべてがおかしい、すべてがありえない。」おそらくペトロの心は、言葉では、表現できないほどバラバラになってしまったと思います。

ペトロをはじめ、弟子たちは皆、最初は、誰も自分が後で主イエスを裏切ったり、捨てようとして主に従ったとは決して思えません。ペトロなどは、主を捨てる発言をする数時間前まで自分が主を裏切ったり、見捨てたりすることなど百分の一も千分の一も思っていなかったはずです。本当に、真心から主イエスを愛し、主イエスに従いたいとの思いで溢れたいただろうと、わたしは考えます。

さてそれなら、このペトロのどこに、何に、信仰の問題があったのでしょうか。繰り返しますが、わたしは、ペトロという弟子だけが特別、弱かったのだとはまったく思いません。むしろ、ふつうのキリスト者と比べれば、本当に純粋でまっすぐだと思います。主イエスを愛する愛は、誰にも負けない、そう自負していたと思います。その意味で、まっすぐな人です。尊敬すべきキリスト者です。しかし、どれほどまっすぐで、誠実で、真実な人間であっても、そのままでは、神さまの御前では通用しないのです。信仰を全うすることはできないのです。そのことが、もっとも大切な真理だからこそ、四つの福音書のすべてで、弟子たちの主イエスを知らない、捨てる発言、行動を包み隠さずに記載するのです。

彼は、自分の信仰の志に自信を持っていました。主イエスへの愛、神への忠誠、誠実に対して、誰にも負けないとの自負を持っていました。しかし、それはまさに信仰とは違ったものになるのです。むしろ、その思いが強まれば強まるほど、正しい信仰の世界とはかけ離れて行くのです。信仰とは、自分を信じるのではないからです。自分の信仰心を頼りにすることではないからです。むしろ、その正反対です。自分の真実とは、罪人であるということにあるのです。ですから、自分自身の力で道を切り開いて行こう、行ける、時々、出来なくなるときもあるけれども、まさにそこは、イエスさまに助けてもらって、そのようにして、より上を目指す、より精神的な世界の豊かさ、安心を求め、努力によってこの世においても上を目指す、そのようなものではないのです。それなら、早晩、破たんします。たとい、形として破たんしなくても、実は、最初から破たんしているのです。信仰は、罪人である自分、つまり自己中心で、自己本位で、自分よがりなものでしかない自分を認めることです。その上で、そのあるがままの自分を主にゆだねることです。捧げてしまうことです。神に喜ばれる霊的な礼拝とは、まさにそれです。自分のぼろぼろの姿、心、悔いくず折れている自分の心と魂とを包み隠さず、主に捧げ、主に赦しを乞い求めることです。
そして主イエスと父なる神は、まさに、そのような罪人を救って下さるのです。ボロボロのふがいない、自己中心でわがままで、我の強い自分をあるがままの自分を認め、悔いて主に差し出せばよいのです。

何故なら、そこでこそ、主イエスが常に先立って下さるからです。主は、はっきりとお約束くださいました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」あなた方より先とは、先頭に立つという意味です。つまり主イエスは、ちゃんとペトロがここで躓いてしまうことを、理解しておられるのです。その意味で、決してそのこと自体を裁いておられません。むしろ、イエスさまは、弟子たちが躓くのは、当たり前だといわんがばかりです。わたしはそう思います。ちゃんと、理解しておられるのです。彼らの裏切りや捨て去る不信仰と無理解を先回りして、復活の後、主イエスは、ペトロを、そして彼らを立ち上がらせるのです。主イエスが、常に、信仰者の先を進み行かれるのです。そのようにして、引っ張られるのです。手をとって、立ち上がらせてくださるのです。

実に、使徒ペトロは、この決定的な躓きによって、滅びませんでした。ユダは、自らいのちを断ちました。しかし、ペトロも他の弟子たち、もとよりマタイ自身も躓きましたが、滅びませんでした。この経験によって、信仰とは何かを理解したからです。それは、徹頭徹尾、徹底的に自分を信じることではないということです。自分により頼まないということです。主にのみより頼むことです。自分のそのような傲慢な思い、高慢な確信を捨て去ることです。そして、このような罪人でしかない自分のためにこそ、まさに、父なる神が愛する独り子を、十字架の上で打って下さったこと、罰して下さったこと、捨てられたこと、それによって救いの道、赦しが成就したことを、信じることです。

イエスさまは、裏切る弟子たちを承知の上で、これは、わたしの体である。わたし自身である。このわたし自身は十字架で裂かれる、血を流すのだと約束されました。そして、この後、すぐに、ゲツセマネの園で、彼らの救い、ためにも祈られるのです。

私どもは、かつてのペトロのように、強い人間になろうとする必要はありません。自分自身に頼る過ちを繰り返す必要はないのです。ただ御言葉の前に素直になること、従順になること、それだけを目指せばよいのです。自分の弱さ、罪、愚かさを隠さず、認めればよいのです。そして今朝、今を生きる私どもに幸いなことは、既に、キリスト・イエスが父に打たれたのは、私どもの身代わりであったのだと、はっきりと教えられていることです。ですから、もはやこの躓きの岩でいらっしゃるイエスさまに躓かなくてもよいはずです。使徒ペトロの罪と過ちを繰り返す必要はありません。むしろ、主イエスが訓練してくださる時には、その訓練に服すのみです。わたしは、神の御心に決して躓きません。私は、決して、信仰の戦いに負けませんと意気込む必要はありません。ただ、主から受ける試練を、主の愛の御心を信じて、受ければよいのです。そのとき、私どもは、繰り返し、主イエスが、ペトロに「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と語られた通りに、私どももまた、主イエスが教会の頭、唯一の頭として、先頭を行かれ、私どもの信仰をいよいよまっすぐにして頂けるのです。そして、ゼカリヤの預言の通り、「彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。」この御言葉が私どもにいよいよ成就するのです。私どもは、明るく、自分を信じないで主イエスの愛と力を信じればよいのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもがまったくの罪人であることを、しばしば忘れ、あなたの前に罪を犯し、また、隣人に向かって罪を犯し、人を躓かせる、また自分自身をも深く裏切り、傷つくことの多い私どもです。どうぞ、自分の強さ、自分の賢さ、自分の正しさにより頼もうとする傲慢さ、不信仰から守って下さい。御言葉に生きることを、繰り返し破ってしまう私どもであることを真実に認め、毎日、悔い改める者とならせて下さい。そして、自分に絶望し、それだけあなたにのみ希望をおいて、復活された主イエスよ、あなたがいつも先回りしてくださり、力強い御手をもって、倒れた私どもを引き起こし続けて下さい。そのようにして、信仰者の本来の、まことの強さに生きる者とならせて下さい。そして、あなたの訓練によって、いよいよ主こそ私の神と信仰を告白させて下さい。アーメン。