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「死ぬばかりに悲しまれる主の祈り」

「死ぬばかりに悲しまれる主の祈り -ゲツセマネの祈り-」
                2013年1月27日
            マタイによる福音書第26章36~46節①
【それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」】

本日は、定期会員総会を開催する主の日です。開拓伝道によって出発した私どもの群れも、この4月第一主日において伝道開始19年目に入ろうとしています。19年のすべての歩みにおいて、教会の頭なる主イエス・キリストが、常に頭として私どもを恵みと愛と平和の内にご支配くださいました。主の憐れみの導きによって、私どもは祝福された教会の歩みを重ねてまいることができました。心から神に感謝を捧げます。そして、私どもが教会員とされていること、名古屋岩の上伝道所の会員として導かれたことに、お互いにあらためて感謝を捧げたいと願います。ただし、私どもに与えられた使命の前に立ち止まって、気を緩めることはできません。いよいよ、もうあっという間に近づいてくる教会設立式、小会組織、執事会組織を目指してまいりましょう。そして、何よりも教会設立後の私どもの歩みが伝道する教会、奉仕する教会としての歩みをさらに力強いものとし、福音の喜びに明るく輝く姿をもって軽やかな歩みを重ねてまいりたいと願います。

さて、そのような主日に与えられたのは、有名な主イエスのゲツセマネの祈りのお姿であります。おそらく既に皆さまも、この場面を描いた絵画をご覧になったことがおありだと思います。どれほど多くのすぐれた絵画が残っているかと思います。主イエスの祈るお姿を美しく描いたものが多いように思います。確かに、人間にとって最も美しい姿とは、神の御前に心から祈る姿であると思います。子どもたちがお祈りしている姿などは、教会の宝物だと思います。しかし、ここでマタイによる福音書が描き出す主イエスの祈りのお姿は、まことに痛ましいまでのものです。むしろ、目をそむけたくなるようなものだと思います。しかしまさに、だからこそ私どもは今朝、まっすぐに、この主を仰ぎ見たいのです。そこから、主イエスご自身をさらに深く知りたいと願います。この個所から、二回の説教を考えています。本日は、特に、主イエスがここで祈られたそのお姿から学びたいと思います。

主イエスは、過ぎ越しの夕食、最後の晩餐をとられた後、おそらくはいつも祈りをする特別の場所に弟子たちを伴って登って行かれました。それはオリーブ山です。そのふもとにあるゲツセマネという場所です。ゲツセマネという名称はオリーブオイルを搾るという意味があると言われます。オリーブの木が茂る園だったと思われます。
今、主イエスは、すでに明日、十字架につけられ殺されることを悟っておられます。つまり、地上での最後の夜、わずかですが、最後の落ち着いた時間を迎えておられます。夜のとばりはすっかり下りて、しじまは深まっています。主は、そのひと時を祈りのために用いようとなさいます。何故でしょうか。今、主イエスさまは、どうしても一人きりになって、父なる神に祈らないではおれないのです。それは私どもが夜寝る前に、感謝のお祈りをすることとはまったく違った様相です。ここでの主イエスの祈りのお姿は、美しい祈りの姿とは、相容れない、すさまじい、壮絶なまでのお姿だと言ってよいと思います。

一般に、イエスさまに仏陀やソクラテースを加えて世界三大聖人という言い方があります。人々が、いわゆる聖人と呼ぶ人々に対して持つイメージ、その理由とは何でしょうか。そこに共通するのは、一つは、彼らが人類最大の課題、最大の敵である死に向かって、まさに勝利したという印象によってだと思います。仏陀は、死に際で、悲しむ弟子たちを見て、悲しまなくてもよい、悲しむことは間違っていると諭したと言われています。ソクラテースは、回避できたはずの死刑を自ら率先して選び取り、従容として死を受け入れたと言われています。教会の歴史を振り返れば、数え切れないほどの殉教者たちがいて、聖人と呼ばれたりします。

ところが、もし、そのイメージで主イエスを見るといかがでしょうか。主イエスは、ご自身の死を真正面から見つめたとき、「そのとき、悲しみもだえ始められた。」のです。この点、聖人のイメージとは、あまりに異なっているだろうと思います。たとえば、ドラマのシーンで、主人公が悲しみの中で涙をこぼすとき、絵になります。観ている私たちも共感して一緒に涙を流したりします。癒しの効果があります。しかし、ここでの主イエスの悲しみもだえるお姿は、そのようなことは、まったく違います。誰かが、もしもこんなことを言ったらどうでしょうか。「そんなに悲しんでいるなら、自分が、そんなに悲しまなくても大丈夫ですよ。肩に手を置いて慰めて差し上げたい」そのようなことができる人間は誰もいません。そんな次元の悲しみではないからです。悲しみの悲しみの深さの問題ではないのです。それも確かに含まれています。しかし、このときの主イエスの悲しみとは、我々人間が、経験したことのないもの、質が違うと言っても決して言い過ぎではないほどの悲しみなのです。多くの特に男性の日本人であればえば、「悲しみでもだえる姿を弟子たちにも見せるなどというのは、指導者として、先生として恥ずかしいことではないか。それだけで、本物の指導者としては失格ではないか」と思うかもしれません。

さて、そもそも、私どもの主イエスさまは「悲しみの人」でした。イザヤ書で預言された第53章の3節の口語訳に、こうあります。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」新共同訳聖書は、「悲しみの人」を「多くの痛みを負い」と訳しました。この悲しみは、痛みを伴うもの、まさにこのゲツセマネでの主の「悲しみでもだえる」お姿と重なると思います。

改めて考えてみますと、主イエスは、若いとき、もしかすると思春期の頃、父ヨセフとの死別の悲しみをご存知だと思います。父親の愛をいっぱい注がれて育ったであろうイエスさまであるからこそ、死別の厳しさをご存知です。また、母マリアとも、公生涯に入るとき、人間的な思いや感情を克服され、ある意味では離別の経験をなさったはずです。主イエスは、ご自身が悲しみを味わった方でいらっしゃる故に、さまざまな人間的な悲しみに共感なさったのです。そしてその悲しみの深さとは、裏返せば、愛の心が深いからなのです。愛に生きることを知らないとき、悲しみは深まらないのです。愛するから悲しみは深いのです。マタイによる福音書は、これまで主イエスが、はらわたを痛ませ、震わせるほどの感情をもって人々を愛したお姿を描き出しました。スプランクニゾマイです。

わたしは、ここで被災者の方々のことを思うのです。もうすぐ2年を迎えようとしています。今、いよいよ悲しみの中に沈んで行く方、悲しみが癒えず、深まってしまうかのような危機感のなかにいらっしゃる方は、少なくないと思います。人生の悲しみの中には、さまざまな悲しみの原因がありますが、わたしは死別の悲しみに極まるものはないと思います。愛する人との究極の別れです。取り返しのつかない別れです。しかも、突然、家族や肉親を震災で奪われてしまった方々には、私どもは、声のかけようもないと思います。

ただここで、思わされることがあります。死別の悲しみがこれほどつらく、苦しいということは、その方はどれほど愛されて来たのかということだと思います。つまり、そこでこそ裏を返せば、それほどまでに愛されたその人も、悲しんでいるその人も、人間の人生を真実に、正しく評価すれば、幸いな人であったと言えるのではないでしょうか。確かに、癒されるための時間は、たくさんかかるでしょう。しかし、おそらく隣に誰かがいてくれたら、共に過ごし、悲しみの心に寄り添う人がいてくれたら、きちんと前を向いて生きて行くことができるだろうと、わたしは思っています。そこに、私どもの震災ディアコニアの使命があるのだと、わたしは考えています。私どもが隣人となる。そのことによって真実にその方の隣に主イエスがおられることを証したいのです。

しかし今や、そのような主イエスにあられても、これまでの悲しみとは次元が違う悲しみ、異質とも言える究極の悲しみを悲しまれるのです。それは、恐るべき悲しみです。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と仰るのです。すさまじい悲しみです。死ぬほどの悲しみです。ここでもどうぞ、誤解しないでください。「悲しくてもう死んでしまいたい」というのではありません。これは、悲しみの報せを受けたショックで気絶してしまうというのではありません。「死ぬばかりに悲しい」のです。

その悲しみがどれほど恐るべきものであるのかは、主イエスが、ここで三度祈られたその祈りの中に示されています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」父なる神に、率直に願ってしまっておられます。この杯を過ぎ去らせて下さい。つまり、この試練を受けさせないでください。この苦難を受けさせないでくださいという魂の叫びです。これは、私どもが今朝も唱えたあの「主の祈り」の6番目、最後の祈り「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまへ」と同じ祈りの心です。今まさに、主イエスご自身、率直に、杯を飲むことへの回避を願い出られたのです。一瞬の気の迷いではありません。それを三度祈られたのです。おそらくこの祈りの時間は1時間以上2時間以内のものだったと想像します。その中で、三度だけ祈ったのではないはずです。繰り返し祈られたはずです。そして、その祈りは、最初はこうでした。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」しかし次には、こうなっています。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」お気づきでしょうか。変化があります。杯を飲む、覚悟を深めて行かれたと理解してもよいと思います。祈りが深まったわけです。その意味で、主イエスでさへ、祈りのためにはある一定の時間、短いとは言えない祈りの時間が必要であられたのです。

さて、主イエスは、ここでこの杯を過ぎ去らせて下さいと願い出られます。私どもは、どうしてもこの祈りの言葉の中に、数時間前に、過ぎ越しの祭りの食卓を祝った場面を思い起こします。過越しの祭りは、主なる神が、イスラエルのために、神の裁き、神の怒りを過ぎ越された救いの出来事を記念する、イスラエルの最大のお祭り、宗教行事です。主イエスは、ここで、こう祈られたのです。「天のお父さま、このわたしのために、このわたしのために、あの過越しのできごとはないのでしょうか。あの怒りを、神の民に受けさせたまわなかったあなたが、このわたしのためにも、過ぎ越しの奇跡、救いはないのですか。」こう魂の底から叫び、訴えられたのです。

また、私どもは、主の晩餐の礼典、聖餐の礼典の原点となった御言葉を思いだすこともできます。主は、弟子たちに向かってこう宣言されました。「皆、この杯から飲みなさない。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」この杯とは、何でしょうか。それは、他でもない十字架の死を意味しています。十字架の上で流す罪の赦しのための血潮です。救いの契約の血です。ところがなんと、主は、ここで、まことに驚くべきことですが、この食卓で宣言された御言葉を、人間的な表現でもうしますが、「できればなかったことにしていただけませんか。」このような祈りをここで祈られたわけです。それは、一瞬の気の迷いではありません。ここで示されたのは、人間イエスさまの真実のお姿です。人となられたイエスさまにとって、まさに、耐えがたいこと、それが、十字架の上で死なれることなのです。

私どもがもし、この主イエスの死ぬばかりの悲しみを理解しそこなってしまうとき、私どもは十字架の重さを理解しそこなってしまわざるを得ません。ですから、この悲しみを少しずつでも理解を深めること、それは、十字架の恵みと愛の重さを知る道なのです。

十字架の重さ、今朝の御言葉で言えば、死ぬほどの悲しみとは、いったい何なのでしょうか。どこにあるのでしょうか。それは、まさに十字架が、多くの人のために流さなければならない血を意味するからです。つまり、多くの人の罪の償いをすることです。罪の償いとは、罪のない人間が、罪人の身代わりに神の怒りを受けるということを意味します。神の刑罰を受けることです。つまり、父なる神に呪われた者となるということです。罪人自身が、神の刑罰を受けるのは、理の当然です。それが神の正義です。しかし、父なる神は、今や、その罪人にその罪責を負わせずご自身の独り子に負わせることを決意なさっておられます。神の正義を貫きつつ、罪人への極みまでの愛を貫かれるのです。そのために、永遠の御子は、人となられたのです。イエスとなられたのです。しかし、それをご存知の主イエスであってなお、動揺を隠すことができないほどのおそるべき死、滅びとしての死なのです。注意して聴いて下さい。イエスさまは、今、誰も経験したことのない正真正銘の死、聖書で言う第二の死をここで味わわねばならないのです。それが、永遠の滅びとしての死です。

この滅びとしての死を直前にして、主イエスだからこそ恐れ戦かれます。愛が断たれる恐怖です。永遠に共におられた父なる神、永遠に一つの交わりの中で、愛の絆に結ばれた父と御子の愛の絆が今まさに、断たれようとしているのです。これは、単なる死別ではありません。永遠に共に愛の交わり、絆でむすばれていた御子が、父なる神に捨てられようとしているのです。その絆が断たれようとしているからです。

しかし、その祈りは、常に、こう結ばれます。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」あなたの御心が行われますように。ここではっきりと、ご自身を父なる神に献身し、自分の心、その意志を明け渡しておられます。それは、ひとへに私ども罪人の救いのためです。他でもない、この眠りこけてしまっている弟子たちの救いを成就するためです。私どもはここに父と御子の神の究極の愛を観ます。十字架の死における悲しみは、私どもを愛すればこそなのです。そして、このゲツセマネの園で、ご自身を父なる神に捧げられたのは、ひとへに、私どもへの限りない愛のゆえです。私どもへの愛の故に、この悲しみを乗り越えて十字架を目指されるのです。

そのご決意がこの御言葉に記されています。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」私どもは、先週の説教で、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と学びました。「あなたがたより先に」とは、弟子たちの先頭に立つという意味です。主イエスは常に、弟子たちの救い、私どもの救いのために進み行かれるのです。この悲しみで躓き倒れてしまわれません。主はひれ伏して祈られましたが、立ち上がるのです。十字架へと進み行くためです。そのようにして、常に、私ども信仰者の先を進み行かれるのです。こうして、弟子たちは、そして私どもは、毎日、主に手をとっていただいて、立ち上がらせていただきます。そのようにして私どももまた自分自身に与えられた信仰の旅路を重ねて行くのです。

もはや、私どもは、このイエスさまのおかげで、身代わりになっていただいたおかげで、神の怒りとしの死、永遠の刑罰、滅びとしての死を死ぬことはありません。神の怒りは過越して、御子に注がれたのです。御子イエスさまは、その杯を十字架で飲み干されたのです。死ぬばかりに悲しまれて、命がけの祈りを祈られた主イエスの愛のおかげで、その尊い犠牲によって、私どもは救われました。そこまでして頂かなければ、罪人である私どもは、誰も救われません。罪が贖われ、赦されることができません。しかし、今や、イエスさまは十字架で御血を流したもうた、のです。わたしどもは、神の子とされているのです。神の恐るべきほどの愛の深さを身に受けた私どもです。その恵みにどのように応えて生きるのか、それがキリスト者の人生に他なりません。喜びと感謝をもって、主と御言葉に従う者とさせてまいりましょう。

祈祷
私どものために死ぬばかりの悲しみをこらえてくださり、十字架に赴かれた主イエス・キリストよ、あなたの悲しみが、私どもの救いとなりました。そして、その悲しみの中に、私どもがどれほどあなたに愛されているのかを見ることが許されました。どうぞ、私どももあなたを愛する愛、父なる神を愛する愛を富ましめて下さい。愛することの中に、悲しみがあります。しかし、どうぞ、私どももまた愛すればこそ悲しむその悲しみを、まさに愛によって乗り越えて行けますように。アーメン。