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「主の祈りと私たちの祈り」

主の祈りと私たちの祈りと」
                2013年2月11日
            マタイによる福音書第26章36~46節②
【それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」】

先週は、主イエス・キリストが死ぬほどの悲しみに身もだえなさりつつ、祈られたお姿を仰ぎ見て、学びました。今朝は、主イエスのこの祈りをもとに、私ども自身の祈りについても学びたいと願います。はじめに、お祈りの本質について確認したいと思います。祈りは、主イエスが私どもに注がれる恵みを受ける通路、パイプです。私どもは祈ることによって、神との交わりを楽しむことができます。天上のもろもろの霊的な祝福を受けることがでます。これこそ、祈りの世界の醍醐味です。私どもは、生きている限り、この神との交わりを楽しみの世界が開かれ、深められるようにもっと真剣に、もっと熱心に共に求めてまいりたいと願います。さてしかし、今朝は、祈りの楽しさ、楽しい祈りの世界については、また、他のテキストで学びたいと思います。

主イエスは、ここでまさに決死の祈りを捧げられます。父なる神とまるで対決するかのような緊迫感があります。今朝の招きの言葉は、ヘブライの信徒への手紙第5章7節を読みました。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」福音書を読みますと、主イエスが激しい叫びと声をあげ、涙を流して父なる神に祈りと願いを捧げるお姿は、このゲツセマネの祈りや十字架の上の叫び以外には、ほとんど見当たりません。しかし、著者は、主イエスの公生涯は、このような激しい叫びと涙の祈りで貫かれていたと告げています。

それなら、どうして、イエスさまが父なる神に願うとき、祈りがそれほどまでの真剣さを帯びてしまうのでしょうか。それは、主イエスが願うことと、父なる神がお求になられることとに壁があるからです。隔たりがあるからです。
これを、了解していただくためには、説教について少しだけ考えて頂ければ、十分だと思います。

わたしは、そして他の説教者も同じだと思いますが、説教を祈りで終えないことはありません。記憶にはありません。それならどうして、説教は祈りで結ばれるのでしょうか。それは、説教が、何よりも神の御心を説き明かすものだからです。説教において、神の言葉、神の御心が宣言されているからです。したがって、神は、説教において言わば、ただ一つのことを聴衆にお求になられます。それは、何でしょうか。それは、御言葉を信じることです。そして、キリスト教の理解では、信じることは、御言葉に従うことです。御言葉を聞き流さないで、心に受けとめ、そして実行することです。実行されて初めて説教が本当に意味で聴かれたということになると思います。それ以外の説教の聴き方、聴かれ方はありません。そしてそのときこそ、もう、説明することもないかもしれません。気づかされることがあるだろうと思います。私どもは、生身の人間です。罪人なのです。つまり、その御言葉を喜んで実行したいと願いながらも、それを行うことが不十分な自分の現実を知っているのです。だから、祈るのです。「主よ、信じて従えるように、助けて下さい。支えて下さい。導いて下さい」と願うのです。時には、聴いた御言葉を喜べず、反発してしまうこともあります。そのような時こそ、受け入れさせて下さいと祈る以外にないのです。そうです。祈りとは、神の御心に従いたいと願うものにとって、罪人である私どもにとって、生きている限り不可欠なものなのです。

実に、主イエスご自身ですら、十字架を目前にしたとき、あれほどまでの祈りを必要とされたのです。そうであれば、私どもはどれほど祈らなければならないのかということです。

ペトロは、わずか数時間前に、「たとえご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と告白しました。ところが、主イエスのために起きて、執り成しの祈りを捧げることすらできなかったのです。主は、「心は燃えても、肉体は弱い。」と理解してくださいました。憐れんでくださいました。これは、「霊は強いが、肉体は弱い」とも訳せます。主イエスは、「この肉体の弱さは、どうすることもできないから仕方がないですね」と仰るのではありません。だからこそ、お祈りしなさいと呼びかけられたのです。それは、祈りによってこそ、神の霊を注がれ、心と肉体とが統御されることができるからです。私どもは、肉体が弱い故に祈らなければならない者なのです。

主イエスが、ここで、まことの人間となられたご自身の祈りの戦いのお姿をしっかりと見せようとなさった理由を思います。それは彼らが将来、このような真剣な祈りへと導かれることを予想しておられたからです。彼らは、殉教する前やそれ以外でも、困難を極める伝道の日々のなかで、必死に祈ること幾度であったかと思います。その度に、おそらく、この時の祈る主イエスを思い起こしたに違いありません。

私どもはいかがでしょうか。私どもは、罪人です。イエスさまですら、叫び涙を流されたのであれば、どれほど、祈る必要があるかを思わされます。今朝、もう一度、わが身を振り返って祈りの戦い、真剣なる祈りの必要性を悟らせて頂きたいと思います。

さて、主イエスが弟子たちを呼び寄せた理由の二番目です。わたしは、今申しましたように、愛する弟子たちに信仰の戦いに備えさせるための教育と訓練の意味は確かにあったはずですが、それ以上に大切な理由があったのだと思います。

主イエスが、ここで、「わたしと共に祈っていなさい」とお命じになられたのは、単に、教師と生徒の関係ではありません。むしろ、主イエスは、言葉の正しい意味で、弟子たちに助けを要求されたということ、この面こそ、重要なのです。

今、主イエスは、父なる神に祈っておられます。まさにただ神にのみより頼むイエスさまです。御子のお姿です。ところが、それほどまで愛すべき御子を、父はお捨てになられます。そして、遂に、御子イエスさまご自身もまた、父なる神に捨てられることを受け入れたもうのです。これほど、おそろしい事はありません。だから今こそ、主イエスは、弟子たちにも頼るのです。主イエスは、今こそ、弟子たちにも一緒に祈って欲しいと願われるのです。もとより、それは、主イエスに代わって弟子たちだけで何かをするとか、できるということではありません。しかし、主イエスが、弟子たちをそのように認めておられるということは、しっかりとまじまじと見つめましょう。そうすると、そこで何が見えて来るのでしょうか。それは、今日の教会の使命を学びとり、その姿を悔い改めることへと導かれるだろうと思います。

「私と共に祈れ。」「ここにいて、わたしと共に祈っていなさい。」この御言葉の中に、教会の祈り、キリスト者の祈りの使命と本質が見事にあらわされています。いったいキリスト教の祈りとは、どのようなものなのでしょうか。私どもが祈っているとき、そこで何が起こっているのでしょうか。子どもたちに何度も、お話することがあります。祈りのときに、手を組む姿勢の中に、祈りにおいて何が起こっているかを説明するのです。利き手の右手がイエスさまで、左手がわたし、です。祈るとき、イエスさまが私どもをしっかりと握りしめ、抱いて、そこで主イエスと私どもはそのおかげで繋がっているわけです。一つに結ばれているのです。先日は、十字架の縦の線と横の線のお話をみなさまにも致しました。縦の線は、主イエスが天と地をつなぐ道となってくださったことです。そして、そのイエスさまを、私どもが重なるためには、横の線を引くことが必要だと申しました。それが、祈りだと言いました。縦の線と横の線とが一つに重なるところで、私どもとイエスさまとは一つに結ばれることができるわけです。それは、どれほど、拙い祈りでも、祈ることによって、実現されていることをお話しました。

ここで、主イエスが、「私と共に祈れ。」と仰って下さったことは、なんとありがたい言葉でしょうか。ここで、はっきりと悟りたいと思います。わきまえたいのです。私どもの祈り、それは、すべて私どもに先だってイエスさまが祈っておられることに合せることなのです。私どもが祈るということは、イエスさまと一緒にしていること、主イエスの祈りと共にする行為です。私どもの祈りが主イエスの祈りの前を行くことはあってはならないのですし、ありえないことなのです。そのことを、祈りのたびに、イメージすることが必要です。その修錬は、実は、私どもは、集中的に取り組んだことがありません。それは、朝夕の祈り会でも取り組んだことがありません。将来の課題にしたいと思います。しかし、特別の集会を開かなければ、それができないということでは、決してありません。主日礼拝式でまた祈祷会で、何よりもそこでの霊的な祝福のなかで、それぞれの生活のなかで、そのイメージトレーニング、霊的な修錬をひとりひとりが導かれていると信じています。しかし、今朝、もう一度、この基本的な修錬を、喜んで毎日、してまいりたいと思います。

主イエスが「わたしと共に目を覚ましていなさい。」と招かれたもう一つの意味を学びたいと思います。マタイによる福音書は、最初から最後まで一貫して、一つのことを語ります。それは、インマヌエルの事実です。つまり、神が人と共におられる出来事がイエスさまにおいて実現したということです。それゆえ主イエスは、まさに私どもと常に共にいて下さる主なのです。主イエスはいついかなる時も、教会と共にいて下さいます。教会の頭でいらっしゃり、主です。土台です。岩です。教会は、キリストの体なのです。そのようにして、主イエスは、弟子たちと常に共にいて下さいます。そして、神は、ご自身の教会に、主イエス・キリストの体なる教会に向かって、主イエスのお働きに参加するようにと招かれているのです。

もう一度、イメージ死体と思います。教会そしてキリスト者とは、このゲツセマネで祈っておられるイエスさまに、自ら執り成し祈ることへと招かれています。主イエスの祈りに参加するのです。こうして、私どもは、イエスさまと一つにされるのです。

ここで私どもの教会の大切な集会である祈祷会のことを思います。教会は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と仰った、主イエスの教会です。ですから、主イエスが教会を導いてくださいます。主導権はまさに主イエスにあります。主のお働きこそが、ご自身の教会を真実に建てるのです。決して、私どもが主となるのではありません。頭なるイエスさまに命じられるまま、統御されるまま、動くだけです。

主イエスは今この瞬間も天において、父なる神の右に坐して、執り成し祈っておられます。私ども教会は、その主のお働きに参加するのです。それが、w足しどもの執り成しの祈りに他なりません。祈祷会はまさにそれがなされているのです。御心がなりますように、御国が来ますように。これは、全部、イエスさまの祈りです。主イエスが働かれるのです。そのお働きを開放することが教会の役割です。

ところが、そこで弟子たちの課題、私どもの課題が見えてきます。弟子たちは、そこで祈らなかったのです。しかし、これは、今日の教会の姿でもあることを思います。祈祷会が盛んにならなければ、いったいどうして教会活動が成り立つのでしょうか。奉仕、ディアコニアは、祈祷会から推進される以外にないのです。何故なら、祈り以外で推進される奉仕は、霊的な奉仕ではないからです。単なる人材やお金で、神の働きが進められるわけではありません。祈りにおいて、神の霊、聖霊が注がれ、神の御業は勧められます。

「わたしと共に祈れ」の御言葉について、特に、「私と共に」について、なお考察を深めましょう。マタイによる福音書が大切に語り続け、記し続けたのはインマヌエルの恵みでした。インマヌエルとは、イエスさま、神さまが私どもと共にいて下さるということです。それこそ、私どもの救いの事実です。イエスさまと共にいることが、信仰の喜びであり、救いであり、平和の源泉です。

ただし、そこで、うっかりすると私どもは自己本位の信仰、自分中心の信仰の現実を反省させられるのではないでしょうか。ある人が、キリスト者は、祈りの中でこそ、最大の罪を犯すと言います。これまで、このような祈りをしたことはなかったでしょうか。「神さま、どうぞ、わたしと共にいて下さい。」「私と共にいてわたしをお守りください。」誰でも、こう祈ったことがあると思います。しかし、注意したいのです。うっかりするとまことの信仰から逸脱する危険性があります。つまり、自分と共にいて下さいという祈りは正しい祈りなのかということを、一度、きちんと考えておきたいのです。主が共におられる。これは、主イエスご自身の従う者、ついて行く人にとって、真実に具現する約束です。しかし、自分勝手な祈りや願いをして、「主よ、常に共にいて下さい」まるで、イエスさまを「お守り」にするかのような、手前味噌な願いをしてはならないはずです。

最後に、主イエスは、ご自身のために祈られたのだと学び続けています。確かにその通りです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」しかし、この祈りの結論は、神の御心のままに。父の御心が行われますようにいうものです。つまり、「ただ神の栄光のために、わたしはあなたの御心通りに従います」という祈りです。それなら、ここでの神の栄光とは、何でしょうか。それは、十字架の上で苦しみの杯を飲むことです。最後の晩餐のときに予告されたご自身の御血を流すためです。それは、つまり、私どもの救いの成就のために死ぬということです。つまりは、主イエスのここでの死ぬほどまでに悲しさで身もだえながら、汗を血のしたたりのように落としながら必死に祈られたのは、ただ、私どもの救いのためであったのです。これが、ゲツセマネの祈りの本質です。そして、ヘブライの信徒への手紙の著者が言うように、主イエスのご生涯は、最初から最後まで、ひたすら私どもを救いたいと願って、父なる神に叫び、涙を流して祈られたご生涯に他なりません。

確かにゲツセマネの祈りは、歴史上ただ一度だけのことです。しかし、それで済ませられません。最後の最後に、実は、今朝も、主イエスは、この祈りを捧げておられるお姿を仰ぎ見たいのです。そして、心の目にしっかりと映したいのです。

私どもが今朝、ここで礼拝式を捧げることができているのは、何故でしょうか。それは、父なる神が私どもの名前を呼んでくださったおかげです。それは、イエスさまが天上で父の右で執り成しの祈りを捧げておられるからにほかなりません。私どもの拙い祈りが常に父に届けられているのは、何故でしょうか。それも、主イエスが父なる神の右で執り成しいのっておられるからです。それを信じるからこそ、私どもは、主イエスの御名で祈るのです。主イエスが祈って下さっていることを信じる故に、この主イエスを通して祈るのです。主イエスと結ばれて祈っているのです。だから、父に聴き届けられるのです。私どもが救われたのは、あの2000年前のゲツセマネの祈りのおかげです。同時に、今この瞬間も、天において父の右でわたしの名前を呼んで、祈っておられる故です。この救いの事実、恵みの御業のおかげで、実に、主に協力するようにと、主と共に働くようにとすばらしい光栄ある奉仕へと招かれながら、それに不十分な協力、支援しかできないのに、教会が守られ、支えられているのです。なんという憐れみでしょうか。私どもは、しばしば眠っているそのところで、主は汗をかくまで祈って下さるのです。みなさん。「だから、じゃあ、安心して寝よう」となるでしょうか。

私どももまた志をあらたにして、祈るのです。祈るために立ちあがりたいのです。それは、私どもが目覚めて祈るから、教会の働きは守られる。自分たちが奉仕に励んでいるから教会は前進するという、肩肘をはった在り方ではないと思います。それは、大胆に申しますと、たとい私どもが眠り込んでしまっても、主がまどろまれずにわたしを支えていて下さるから大丈夫だということです。大丈夫だから、安心して、わたしもまた祈ろうと心を挙げるのです。志をたてるのです。そのとき、私どもの教会は、インマヌエル、神が共におられるということが、いよいよ分かる教会になれるのです。志を新しく、また高くして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てると宣言されたイエスさまと共に、私どももまた、熱心にこの岩を堅固にし、教会形成の奉仕に励んでまいりましょう。そのために、祈りましょう。

祈祷
教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、御子のゲツセマネの祈りをかなえ、私どもを救ってくださいました。心から感謝致します。今も、私どもの主イエスは、私どものために執り成し祈っていて下さいます。主イエスよ、心から感謝致します。父なる御神よ、御子の祈りを聴きあげ、私どもを救い続け、教会を守り続けて下さい。そして、私どももまた、主イエスの招きにしたがい、主イエスと共に祈ります。あなたの御心を私どもひとりひとりに実現してください。そのために、信じ、従わせて下さい。アーメン。