「裏切るユダと私たち」
2013年2月10日
マタイによる福音書第26章47~56節
【イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。】
今朝、あらためてイスカリオテのユダについての記事を通して、神の御言葉を学び、御言葉を聴いて礼拝を捧げます。既に昨年の12月、私どもは、ユダの裏切りの発端について学びました。ユダが、主イエスをこのような仕方で裏切る最後の引き金を引くことになったのは、ひとりの女性が300万円もするであろう高価な香油をイエスさまに注ぎ尽くしたことを目撃したからです。弟子たちは、口をそろえて、「何故、その香油を売って貧しい人に捧げないのか、なぜ、無駄遣いをするのか」と厳しい顔つきで叱りつけました。彼女の行いは、主のみ心に反するふるまいだと確信していたからです。ところが主イエスは、弟子たちを叱って、むしろ、彼女の犠牲的な行為は、福音が語られるときには、必ず、語り継がれなければならないのだと、これ以上ないほど、高く評価され、心からお喜びになられました。ユダは、このとき遂に、主イエスを売り渡す決意を固めました。ただちに、しかし、こっそりと祭司長たちのところに出かけて行きます。そして、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と主イエスのいのちの値段について交渉するのです。彼は、主イエスさまのことを、「あの男」呼びます。つまりユダは、既に、主イエスを憎んでしまっているのです。
いったい何故、ユダの心の中に、それほどまでの思いが溢れてしまったのでしょうか。彼は、もともとそのような恐ろしい考えを持って、弟子に加わったのでしょうか。違うと思います。理由は、きわめて明瞭で単純です。ユダは、自分こそ被害者だと考えたからです。つまり、自分こそ裏切られたのだと考えたからです。聖書は言います。人間とは、常に、自己中心なものです。彼は、心の中で叫んだでしょう。「確かに、わたしも少しは悪いところがあるかもしれない。しかし、一番悪いのは、イエスの方だ」遂には、こう主張します。「あなたが悪いから、わたしはこうなった、こうしているのだ。わたしこそ、被害者で裏切られたのだ」
いったいユダは、イエスさまのどこに、何に裏切られたと憤っているのでしょうか。彼をはじめ弟子たちは皆、イエスさまはイスラエルを救う王になると信じて、なにもかも捨てるようにして全生活を共にして、従って歩んだのです。イエスさまは、自分たちのユダ王国を、軍事力も経済力も備えた強い王国を打ち立てる政治的指導者になられるお方だ、メシアであると期待していたのです。彼らは、主イエスが心やさしく、時に、驚くべき奇跡を行ってみせてくれるお姿を身近で見ています。しかし、彼らが期待する肝心かなめの政治運動をなさらない。確かに権力者たちを厳しく批判する。しかしすぐに、自分は、彼らに殺されるのだと、弱音ばかりを吐かれるようになった。ああ、結局、3年もいっしょに生活したけれど、自分は騙されていたのだ。自分の期待するような王ではなかった。何もかも捨てて従った自分のこの三年間は、いったいなんだったのだろうか。彼らは、少なくともユダは、裏切られたのは、自分の方だと思ったのです。だから、イエスを権力者に引き渡したのです。
おそらく、弟子たちばかりか、主イエスを逮捕するために雇われたであろう群衆もまた同じ心に生きていたのだと思います。彼らが期待していたのは、奇跡を行う力あるイエスさまでした。群衆に最も強い印象を与えたのは5000人の給食の奇跡だったと思います。群衆は、こんな奇跡をやってのけるイエスさまこそ、まさにメシア、キリストだと信じただろうと思います。
しかし、そこで聖書は、問うのです。ここでこそ鋭く、真剣に問うのです。「それって、本当に、信仰と呼べるのですか」という問いです。人は誰でも、死人が生き返った、病気が治った、嵐を静めた、そのような超自然現象を引き起こせる人がいれば、それを目撃したとすれば、その人は少なくとも、普通の人ではないと思うでしょう。しかし、そのようなことは、生けるまことの神を信じることとは別ものです。まことの神への信仰とはなりません。その証拠に、群衆は、イエスさまが逮捕され、鞭打たれた惨めなお姿で自分たちの目の前に引き出されたとき、即座に、「十字架につけよ!」と叫び始めました。先日も説教しましたが、まことの信仰とは、キリストに真実に躓くことがどうしても必要であるのです。自分たちが思い描く理想の救い主とか神さまのイメージ、そのようにしてつくられるキリスト教などでは、本当の救いにはなりません。私どもは救われません。つまり、真のキリストに真実に躓くことがなければ、ほんとうのキリスト教に真実な意味で、躓かされ、自分の思いや考えや理想などを砕いていただかなければ、信仰にならないのです。聖書は、それを「悔い改め」と呼びます。悔い改めなきキリスト教、信仰は空虚なのです。主イエスは、ゲツセマネの園で、恐ろしいまでの悲しみ、苦しみ、恐れを味わわれ、打ち勝たれます。そのご目的は、まさに、その苦しみなき、犠牲なき宗教、十字架なきキリスト教を破壊するためです。まことの救いを実現する道は、十字架で死ぬ道以外にないからです。私どもは、主イエスが、十字架で、しかも弟子であるユダに裏切られること、その中に、神の愛と真実を見ることができます。いへ、しっかり見るべきです。
さて、マタイによる福音書は、これまでのように、ここでも一貫して訴えています。主イエスは、逮捕しに来た祭司長の手下の耳を切りつけた弟子に向かってこう仰いました。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」また、群衆に対してこう仰いました。「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」聖書の言葉、預言の言葉がここで実現しているのだということです。つまり、これは、必ず通らなければならない道を通っているのだという理解です。主イエスは、すでにこのことが起こること、起こらなければならないことを確信しておられるのです。ユダが、このような仕方で主イエスを売り渡し、裏切ることをご存知でした。つまり、過越しの最後の食卓で、彼の行動は予告されていました。この逮捕もまた、父なる神のご計画が実現していることに他ならないのです。神の導きが鮮やかになされているという、ご理解を主イエスは明瞭にお持ちでいらっしゃり、それを弟子たちも共有すべきなのです。
それはまた、私どもの地上の歩みにおいても、求められることです。それは、起こってくる出来事、起こった出来事の意味をはっきり悟れなくても、あるいは、まったく悟れなかったとしてもなお、神の導きがあることを信じることができるということです。先ほどのメッセージです。
その意味で、いよいよ明らかになる事実があります。主イエスは、裏切り、死へと引き渡したユダのことを、なお愛しておられるという事実です。その証拠に、主は、イスカリオテのユダに向かって、まっすぐこう呼びかけておられます。「友よ。」です。「友よ、しようとしていることをするがよい」「あなたのしたいことをしなさい」と仰ったのです。この呼びかけの中に、示された真理、意味は、主イエスがユダの「躓き」を、受け入れておられるということです。イエスさまは、ユダを憎んでいらっしゃいません。ユダは、確かに、自分が裏切られたと許せないと興奮していたのです。しかし、主イエスは、彼を赦しておられます。主イエスは、ここに至ってなお、ユダを愛しておられるのです。
最後に、わたしは、2月11日を前に、このテキストが与えられたことに摂理を思います。「建国記念の日」という祝日です。これは、戦前では紀元節と言われていた日です。天皇の統治を正当化するための神話に基づきます。私どもは、この日を「信教の自由を守る日」ととらえて覚えます。
この物語の中に、後の教会の歩みにとって、とても大切なものとなった主の御言葉があります。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」です。実は、弟子の中には、護身用の武器をもっていた人がいたわけです。そして、今こそ、主をお守りしてみせる自分の責任を考えた弟子の一人が、祭司長の手下の耳を切り落としてしまいます。その時に主がお命じになられたのが、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」です。教会の歴史において、この解釈をめぐって大きな過ちを犯したことを、私どもは知らなければならないと思います。
確かに聖書は、剣を使用すること、それじたいを決して否定していません。有名なローマの信徒への手紙第13章においてパウロが、国家とその為政者に剣の権能が与えられていることを、はっきりと教えています。「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」
つまり、神は人々に善を行わせ、悪の力を阻止するために、国家の存在をゆるし、為政者たちに権力、しかもある暴力装置としての警察権を与えておられます。これは、教会と国家を考える上で、基本的な認識です。聖書によれば、国家は、平和と正義を推進し、法による統治を強制する権威、権能を神によって与えられているわけです。
ただし、ここで主イエスが仰った御言葉の意味は、この世の国家のことではありません。ご自身の国家のこと、つまり神の国のことです。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」神の国においてその霊的な権威においては、剣という暴力装置には、何の力もないのです。したがって、絶対にこれを用いてはならないという宣言です。もし、キリストの教会を武力によって破壊しよう、根絶しようとの世俗の権力者が攻撃するとき、私どもの戦いの武器は、あくまでも霊的なものです。もとより、その教会は、国家の中に置かれています。したがって、教会は国家を動かし、その剣の権能で教会を守ってもらうように請求、要求することは可能です。もとより、どんな市民も同じことです。そして国家は、教会や市民を守る責任が与えられています。国家には、神の国の始まりである教会の平和的な存在を擁護する責任があるのです。国家の権能とは、そこに生きる人々の生活や福祉、信教の自由を促進し、擁護する責任があります。繰り返しますが、これらのことは、キリストの教会だけの特権的な何かではありません。およそすべての市民をそのように守る責任があるのです。
さて、もとに戻ります。主イエスは、ここではっきりと教会の働き、神の御業においては、決して剣を用いてはならないこと、言わば武力の使用の完全放棄の宣言、命令をなさいました。どうしてでしょうか。それは、剣という人間的な力、強制力では、決して神の御業を担えないからです。まったく推進することはできないからです。剣とは、まさに暴力装置です。肉体的恐怖を与えます。そして、実際に肉体的な暴力を及ぼすことがあります。しかし神は、人間を決して恐怖や力によって動かすことをなさらないということです。おかしな言い方ですが、真の神は、決して人間を洗脳しません。神は、人間をマインドコントロールなど決してなさらないということです。聖書の神、真の神、創造者なる神は、ご自身のかたちに似せて人間を創造されました。つまり、話し相手、対話の相手として創造されました。つまり、人格をお持ちの神は、人間を人格として創造されたのです。それ故に、神は人間を、自由な人格者、対等に話し合える尊厳ある存在として造り、認めておられるのです。ですから、ご自身の人間に対する御業をただ、人間の自由に委ねるのです。人間が、神を信じ、信頼し、愛することにおいてのみお進めになられるのです。神は、人々が要求する小さな御利益を少しづつ与えて、ご自身を信じさせたり、従わせたりなどなさいません。したがって、キリスト信仰においてご利益信仰などは、まったく通用しないのです。生ける神に、計算づくでつきあうとか、真の神と腹の探り合いをするだとか、愛の神とかけひきをするようにつきあうことはあり得ません。そのような関わりは、信仰でも信頼でもありませんから、いつか破たんします。いへ、最初から破たんしているのです。そのままつき進めば、まさに、滅びる以外にありません。
ただし、それなら、神は、私どもにいっさいの恐怖を与えたまわないのでしょうか。丁寧に申しますと、違うと思います。新約聖書、主イエスご自身の御言葉のなかに、まさに、ここでも出て来ました。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」のです。神は、人間が「滅びる」事を、つまり、神の裁き下される日があることをはっきりと示されます。しかし、誤解してはなりません。その裁きとは、常に霊的なものだということです。つまり、霊的な威嚇なのです。決してこの時代や、この地上における事柄ではありません。したがって、生ける目に見えない神を信じない人には、そんなことを言われたとしても、痛くもかゆくもありません。そこに霊的な真理の特質があります。主イエスが、なさるのは霊的な威嚇なのです。霊的な恐怖を与えることです。
主イエスは、何のために十字架に赴かれるのでしょうか。それは、この世にあって政治的な王、イスラエル国家の独立を成し遂げるためでは、まったくありません。そのような道を拒否されるからこそ、十字架に進み行かれるのです。主イエスは、十字架で死なれることによって、この地上に、この世界に、神の国を、キリストの教会の土台を堅固にお据えになられるのです。そして私どもは今、そのキリストの教会の交わりの中に生かされています。主イエスは、教会においてどのように生きるべきかを、山上の説教で教えて下さいました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」これが教会に生きる者たち、教会を建てあげる者たちに命じられた新しい倫理、神の国の生き方なのです。もしも誰かが、「いや、そんなことを言っているだけでは、教会は前進しない。時には、荒っぽく人々を力をもってお尻を叩いて行くことも大切だ。また時には、知恵やご利益のようなエサを与えることも大切だ」と言うなら、教会は、それを拒否します。私どもは断固、拒否して、どんなに困難でもコツコツ、みことばの知恵と神の霊的な力にのみより頼んで進まなければなりません。私どもはその意味で、腹をくくりたいのです。つまり、もしも、この時代、この日本において、教会が聖書の教えによってだけでは、建て上げられないというのであれば、そのときは、私どもは教会とともに死ぬだけです。つまり、教会を自らの力や知恵で存続させる必要はありません。教会の使命は終わりです。むしろ、教会がこの世の知恵で生き延びよう、存続させようと「剣」を用いることを恐れるべきです。国家の権力に染まって、国家権力と妥協して生き延びるのであれば、それは、もはや教会ではないはずです。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」この御言葉を、日本の教会は肝に銘じなければなりません。かつての戦争において、私どもは、剣の権能に妥協して、罪を犯したからです。
主イエスは、十字架へと進まれ、事実そこで死なれました。しかしそれは、ご復活を確信していたからです。今、私どもの教会もまた、十字架へと進む教会に、いよいよなりたいのです。十字架へと進む教会とは、ただ御言葉を信じて、その約束が必ず実現すること、勝利することを信じて、進む教会のことです。十字架からそれるなら、教会は死にます。私どももまた、自分の歩みを十字架への道として、受けとめましょう。焦ったり、不安になる必要はありません。むしろ、この道からそれることこそ、滅びです。この道は、主の道、神の導かれるいのちの道だからです。復活の道だからです。
最後に、今朝、この物語を学んだ私どもは、他ならない自分じしんがユダのような闇を抱えた人間であることを率直に認めることが求められているはずです。先日の説教で学びました。わたしども人間の真実とは、罪人であるという真実に他なりません。罪人である、罪深いということは、自分の中にユダがいる、自分もまたあのときのユダと同じ人間なのであるということです。しかし、主イエスは、そのユダに向かって「わたしの友」と呼んでくださったのです。だったら、私どもは、あのユダとは違い、その心の闇を、ごまかさず、つつみかくさず、そのまま主イエスにもって行けばよいのです。先週、イエスさまは、私どもにご自身の御心、心の底にある思いのすべてを打ち明けて下さいました。私どももまた、打ち明けましょう。主に赦しを願えばよいのです。悪いのは、罪を犯しているのは、このわたしです、主よ、憐れんで下さいと懺悔し、悔い改めればよいのです。何故なら、主は、すでに!十字架で死んで、お甦りになられたからです。私どもの罪は、まったく赦されてしまっているからです。ですから、私どもはもはや裏切るユダの罪を重ねる必要はまったくありません。十字架へと赴くイエスさまに従って行くだけです。何度も失敗してしまうかもしれません。事実、失敗してしまいます。しかし、十字架の主イエス・キリストから目を離さないで、何度も起き上がってついて行くだけで、私どもはあるがままで復活の栄光のお姿にもあやかれるのです。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、愛する弟子たちから裏切られ、見捨てられてなお、あなたは十字架へと赴かれました。人間的にみれば、それほど理不尽なことはありえません。もはや、愛することも赦すこともできなくて当然です。しかし、主イエスよ、あなたは真の人でいらっしゃいます。そして、まことの神でいらっしゃいます。ユダを愛し、弟子たちを赦されます。そして、ここにいる罪人たちのためにも、十字架へと赴かれたのです。心から感謝致します。主イエスの救いの御名をあがめます。どうぞ、私どもがユダの罪を重ねることなく、心をあなたに開き、罪深いままの姿で、あなたに赦しと憐れみを求め、あなたに従い続けさせて下さい。今、聖霊を豊かに注ぎ、私どもをきよめ、強めて下さい。そして、これまでのようにいよいよ主の弟子にふさわしく、少しでも、あなたに喜ばれ、役に立てる者として下さい。アーメン。