「後悔か悔い改めか」
2013年3月3日
マタイによる福音書第27章1~10節
【 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」】
今朝は、主イエスの12弟子の一人ユダの問題を扱って、神を礼拝したいと思います。ユダの問題については、すでに、2回説教で扱いましたが、今朝は、その最後となります。説教の最初に、申し上げて、確認しておきたいことがあります。このユダの裏切り、これは、説教できちんと、あるいはその全貌を解き明かすことは、不可能だということです。何故ならこれは、神秘、奥義だからです。これを、すべて分かってしまう、あるいは明らかにしなければならないと思う必要はありません。むしろ、主イエスが私どもの救いのために十字架につけられる方法が、人間的に言えば、イエスさまにとってこんなに恥ずかしいことはないだろうと思うのです。そもそも12弟子は、どのような方法で選ばれたのでしょうか。これは、言わば自薦ではありません。弟子に立候補したわけではありません。誰かから、推薦されたからでもありません。弟子たちは、ひとしく主イエスに声をかけられたのです。つまり、主イエスが自由に選んだ人々なのです。ですから、まさに弟子の粗相、弟子の失敗は、任命権者にあると言われてもしかたがないかもしれません。しかし、そのような弟子のひとりのイスカリオテのユダは、主イエスをお金で売るような積極的な裏切りをします。また、他の弟子たちも消極的ではあっても、みな、裏切るわけです。そのようなきわめて不思議な方法によって、実に、主イエスは十字架につけられ、まさに私どもの救いは成就したのです。それは、神秘です。人間的に見れば、そのうわべだけ見れば、すこしもイエスさまの栄光に結びつかないだろうと思います。むしろ、これは、さすがに、公にできないことだ、歴史の記録から削除しようと思うような、まさにスキャンダルだと思います。しかし、すべての福音書は、このユダの裏切りを記しています。そこに、私どもの救いが、神の完全な支配の下で、いかなる人間的な、悪魔的な企てによっても阻止できない、確かなものであることを、最初に申し上げることができます。その意味では、異例のことですが、説教のはじめに、このユダの裏切りの神秘について、了解しあってこの個所を学ぶ体と思います。
さて、まず、ユダについての豆知識、確認をしたいと思います。キリスト教の文化圏にある人々のなかで、ユダと言えば、人間として最も悪い人格、裏切り者を指す言葉となっています。有名人です。ただし、弟子の中には、二人のユダがいます。ヤコブの子のユダ(タダイと呼ばれたユダ)と、今朝のイスカリオテのユダです。イスカリオテとは、カリオテ出身者という意味です。このユダがいつどこで弟子の仲間に加えられたのかは、分かりません。しかし、彼の弟子たちのなかでの役割は、きちんと報告されています。それは、いわゆる出納係です。イエスさまと弟子たち全員は、共同生活をしていましたので、お財布は一つでした。彼は、その財布を預かっていたのです。
最初にユダが裏切り者としてマタイによる福音書に登場するのは、第26章14節です。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
そのときとは、あの名もなきひとりの女性が、主イエスの葬りの準備をするために時価総額300万円もの高価な香油を壺ごと割って全部主イエスに注ぎかけてしまったその時です。ただ、この女性ひとりだけが、主イエスの説教をちゃんと聞いて、そして理解したのです。主イエスは、彼女の行為を心の底から喜ばれました。ご自身の福音が語られるところ、常に、彼女のことも記念として語られることを求められたほどです。ところが、なんと言う皮肉でしょうか。これほどまでにすばらしい、美しい信仰の出来事が、なんとユダをして、信仰と悔い改めに導いたのではなく、主イエスを裏切る最後の引き金を引かせてしまったのです。祭司長たちは、銀貨30枚と言いました。それは、懸賞金何百万、何千万という高額ではありません。なんと、ひとりの奴隷を売買する金額でした。祭司長たちは、そのようにして主イエスのいのちの値段を、軽んじたのです。そして、イスカリオテのユダは、実に、それくらいのはした金で主イエスを引き渡すのです。
今朝は特別に、他の福音書からもユダについての記述を皆さまと読んでみたいと思います。ヨハネによる福音書第12章にこのような記述があります。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」ユダは、盗人であり、弟子たちのお金を横領していたと言うのです。
ここでユダという弟子がなぜ、このような裏切りを働くようになってしまったのかについて、考えてみましょう。ルカによる福音書第22章に、このような記述があります。「 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。」ルカは、彼が主イエスを引き渡そうと決意したことを、サタンが心に、魂に入ったからだと理由を説明します。なるほど、主イエスを積極的に裏切り、しかも、お金欲しさにそれを企てたということを考えれば、サタンつまり悪魔の働きがそこにあったことは、明らか過ぎることでしょう。
しかし、わたしは、それよりもっと驚くべきこと、注目すべきだと思う記事があるだろうと思います。実は、ヨハネによる福音書第13章によれば、こうあります。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」つまり、過ぎ越しの祭りを祝っているまさにその最中、主イエスからパンを手渡されたとき、なんと、サタンがユダの中に入ったというのです。丁寧に言えば、それに先だって、サタンは裏切りの心をユダに抱かせていたのです。
サタンが、ユダに裏切りの心を抱かせ、侵入したのは、過ぎ越しの祭りにおける聖なる晩餐というユダヤ人の宗教儀式のなかで、もっとも重要なそのときに他なりません。しかもそれ以上に驚くべきことがあります。サタンが彼の心に入ったのは、なんと主イエスさまからじきじきにパンをいただいたそのときだということです。
いったい私どもはどのように受け止めたらよいのでしょうか。ユダは、律法学者、祭司たち敵対するグループの人間ではありません。弟子のひとりです。しかも、最後まで主イエスといっしょにいたのです。なぜ、そのようなときに、サタンが働くのでしょうか。冒頭で確認した事を、ここで思い起こしましょう。神秘、奥義です。分からない・・・これこそ、とことん考え抜いた上での最後の言葉としてふさわしいと思います。
しかし、それなら、何故、この記事が大切になるのでしょうか。その理由の一つは、今日の私ども教会のためだということです。主イエスの昔もそして今も、同じことは起こるのだということです。神の御業、人間のすばらしい信仰の行為が起こったところに、実に、悪魔が働くということが現実に起こるということです。何故でしょうか。そもそも悪魔、サタンとは何者でしょうか。サタンとは、主イエスの喜びを粉砕する霊的存在です。父なる神と私どもとの間を正しい関係にならせまいと、そのためならどんなことでもしようとするのがサタンです。どんなこととは、どんなにひどいことということを意味するのはもちろんです。サタンは、本当に、恐るべき非道なことをやってのけます。戦争、紛争、災害、人災、けんか、憎しみそのようなところにサタンがうごめいているのです。ただし、それらは、とても分かりやすいのです。つまり、見破りやすいことだと思います。しかし、本当におそれなければならないのは、サタンの巧妙さ、悪賢さです。使徒パウロが言うように、サタンは、悪の天使のはずなのに、簡単に「光の天使」に偽装することもできるのです。
しばしば、笑い話のように言われることがあります。「サタンはネクタイを締めている」つまり、きちんとした、常識的な、信用されやすい、正しい格好、権威、常識をみにつけて、私どもに近づいてくるのです。そして、最後には、信仰から、神から、教会から私どもを引き離そうと誘惑するわけです。
今やついに、父なる神が、私どもの救いという永遠のご計画をまさに実現するその時が来ています。したがってサタンは、まさに、全力でそれを阻止し、破壊しようとするのです。当然のことでしょう。神の御業がなされるところでこそ、サタンが働く。私どもは、そのことを、前もって、このように教えられているのです。その意味では、私どもの人生が、いわゆる世間一般から言って順調に言っているから神さまに祝福されているとかそうでないとか、それをもって神の祝福を考えることは、とても危険なことであることをもわきまえたいのです。教会が、地上にあって本当に御言葉に生きるとき、サタンからの攻撃が激しくなることは、仕方のないことなのです。
さて、次に進みましょう。ユダの耳に有罪の判決が下ったことを知ったユダは、どうなったのでしょうか。「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。」これは、驚くべきことではないでしょうか。彼は、今頃になって後悔し始めているのです。しかも、その後悔とは、ただ心の中で、「まずいことをやってしまった」という程度のものではありませんでした。実際に、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとするのです。さらには、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言って、自分が罪を犯したことを告白したのです。主イエスは、犯罪者などではないのだ、犯罪者は、むしろ自分だと認めたのです。それほどまでの深い後悔があります。先週学んだペトロは、自分が裏切ったこと、その裏切りを主イエスに知られていてなお、あいされていたことを悟って男泣きに泣きました。一見すると、ユダの方が、ペトロよりもはるかに誠実であり、深く後悔したのではないとすら思ってしまいます。
さて、祭司長たちは、ユダの申し出を聞いても、まったくとり合おうとしません。「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言って、突き放します。彼らは、最初から殺そうとしていたのです。彼らにしてみえれば弟子のひとりが裏切りを申し出るなど、まさに予想外なことであったはずです。しかし、まさに渡りに船だと思って利用したまでのことです。たとい、ユダが引き渡さずとも、彼らは自分たちの力で、主イエスを逮捕して、死刑まで持って行けると考えていたはずです。
さて、イスカリオテのユダの後悔がどれほど深いものであったのか、最後の死に方で分かります。「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」単に、お金欲しさであれば、いくら後悔しても、銀貨30枚を握りしめて、去って行けばよいはずです。しかし、彼は、エルサレム神殿に投げ込みます。しかも、すぐに首をつって死んでしまうのです。どれほど深い後悔をしたのかは、分かります。あまり大きな声では言えないかもしれませんが、ある意味では、同情したくさへなります。
しかし、主イエスのユダに対する評価は、どのようなものだったのでしょうか。最低なものでした。26章24節にこうあります。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。ヨハネによる福音書第19章11節にこのような主イエスの御言葉があります。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
これは、総督ポンテオ・ピラトに対して、言ったのです。ニカヤ信条において、ピラトの名前がつねに読まれますが、このピラトもまた大きな罪を神に犯した人です。しかし、罪には、重さがあります。すべての罪が同じではありません。ユダの罪は、もっとも重いものです。しかし、私どもは、どこか釈然としない部分があるように思います。ピラトは、ユダのように、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」とは言いません。自分の罪を認めたわけではありません。だったら、少しは同情の余地があるのではないかとすら思う、かもしれません。
しかし、そこが問題です。「後悔する」ということと、「悔い改める」ということは違うのです。先週のペトロを、思い出して下さい。ペトロは、主イエスの赦しの光の中で、自分の罪を認めました。そして、主イエスの愛の計り知れない深さ、広さに気づきました。そして、悔い改めの涙を流すのです。確かに、わずかな悔い改めであったかもしれません。しかし、神へと方向を向き直し始めるのです。
しかし、ユダは違います。ユダは、自分で自分を裁きました。それこそが、問題なのです。そもそもユダは、自分の価値判断、価値基準に基づいて、主イエスを裁きました。つまり、イエスさまに対して、あくまでも自分じしんが主人なのです。自分を中心にしていたから、ユダは、むしろ、自分の方こそ、イエスに騙された、裏切られたのだと自分のものさしでイエスさまを計ったのです。
確かに、ユダは、後からイエスさまは犯罪者などでない、有罪判決は不当だと気づきます。それは、よいことです。しかし、問題が残ります。彼は、そのような自分は、もはや生きるに及ばない。生きる価値はないと絶望してしまうのです。主イエスの愛や憐れみ、父なる神の憐れみが自分に注がれていることを認めなかったのです。主なる神の赦しを拒絶したのです。
キルケゴールという哲学者が死に至る病という書物の中で、最大の罪を絶望することだと言いました。
ユダは、確かに自分から主体的に罪を犯した人間です。ペトロは、受動的に、罪を犯させられてしまったと言えなくもありません。その意味で、ユダの罪の方がはるかに重いとは一応言えるでしょう。しかし、最大の問題は、究極に残念なことは、自分はもうダメだと、主イエスの赦しや救いを信じなかったことです。
悔い改めることと後悔することとは、似ているようですが、まったく違います。悔い改めることは、信じることの裏の面です。信じることなしの悔い改めはありません。悔い改めることのない信仰もまたありません。悔い改めるとは、神へと向き直ることです。後悔は、自分に向きなおって反省することです。したがって、後悔は、信仰とは直接には結びつきません。あくまでも自分自身のことが問題にされるのです。
ただし、ユダの問題を他人事にして済ませるわけにはまいりません。何故なら、私どももまた、ユダの闇を持っているからです。自分勝手にキリストやキリスト教、信仰や教会を利用しようとする思いです。神を中心にしないで、キリストを中心にしないで、キリストを信じている自分を中心にするのです。信仰を否定していません。大切だと考えています。しかし、どこまでも信じている自分が大切なのです。信じている自分の価値観が大切なのです。結局、自己中心的なものなのです。
最後に、この物語から、少し離れます。しかし大切な点ですから、一言触れておかなければなりません。つい最近まで、ローマ・カトリック教会では、自殺、自死は、大罪であると考え、自殺者の葬儀を教会としては執り行わないと定めてきました。しかし、20世紀後半、その教会の法律を撤廃しました。これは、画期的なことで、すばらしいことです。自殺、自死の問題は、多くの場合、心の病と深い関係にあると言われています。その結果、不幸にしていのちを断ったことを、すべて一律に、大罪として考えることは、あまりにも乱暴なことだと、教会は反省したのです。現代のローマ・カトリック教会は、その方々のことをむしろ、そこまで深い悩みに陥った人を、神は、救おうとなさるのではないかと捉え直しています。これは、すばらしい方向転換だと思います。
わたしは、このようなことによって、「だから、自殺は、悪くない」などという議論が生じるはずはないと思います。わたし自身は、地上において、経済的に、肉体的に、精神的に苦しみ抜かれた方々と共に、主イエスが苦しまれたことは、疑う余地がないと信じています。しかしだからこそ、教会の責任を思うのです。今なお年間、3万人にも及ぶ自殺者がでるこの国にあって、その使命と責任は重いと言わなければならないはずです。
さて、ここで、ユダの自殺を、そこだけ特別に取り上げて、ユダの罪が重いとするのは、間違いだということを確認しておきたかったのです。ユダの罪の問題、重さは、主イエスを売り渡した事は当然ですが、究極の問題は、主イエスからの赦しを拒否したことです。赦しを必要ないとするのです。自分で自分を断罪できる、自分の人生は自分で決着をつけると考え、実行したことにあるのです。そうであれば、私どももまた、ユダの闇を抱えているはずです。しかし、後悔するだけでは、信仰ではありません。信仰は悔い改めから始まります。そして、悔い改めは一回で終わりません。繰り返し、生きている限り、悔い改めを続ける以外にないのです。そうであれば、主イエスが、終始一貫、説教し続けた御言葉を覚えて終わりましょう。「悔い改めよ。天の国は近づいたのだから」
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、イスカリオテのユダの裏切りの罪を思います。救い主を、銀貨30枚で売り渡し、自殺しました。そのようにして、あなたの救いを軽んじました。また、自分自身のいのちをも軽んじました。悔い改めなかったからです。天のお父さま、私どもも、今朝、深くおそれおののく心を養って下さい。あなたの御前に、御顔の前に、自分のあなたを軽んじる罪を悲しみ、憎み、悔い改める心を与えて下さい。ペトロのように涙を流させて下さい。あなたに赦しを願う、柔らかな心をつくって下さい。今、新しく立ち上がらせて下さい。主の赦しの恵みに深く憩い、喜び、生きて行く力をあふれるほど与えて下さい。アーメン。