過去の投稿2013年4月3日

3月24日

☆  昨日、中部中会「東日本大震災を覚える合同祈祷会」が岐阜加納教会にて開催されました。開会のお勧めをここに抜粋して、お分かち致します。

  【~ さて、まったく御言葉に触れないで、奨励を名のることはできません。主イエスの山上の説教の一つを朗読致します。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

   私どもの主イエスは、私どものいのちの光です。主イエスは、光よりの光なるお方、つまり生けるまことの神でいらっしゃいます。この光は、ご降誕によってこの世を照らし、そして、ご復活によって決定的に燦然と輝き、すべてのいのちを照らし続けています。しかし、この光を、真実に浴びたのは、ことばを換えれば、人格的に浴びたのは、さらに言い換えれば個人的に浴びたのは、他ならないキリスト者です。キリスト者は、神を礼拝することによって光を浴びて、今や、キリスト者は光の子どもです。主の日の礼拝式で、光を浴びて、私どももまた世の光とされています。

キリストの光を浴びて光とされた者たちは、どのように生きるのでしょうか。主イエスは仰います。燭台の上です。つまり、隠れてはならないということです。神は、どの教会にも、どのキリスト者にも、聖なる燭台を与えておられます。

日本の多くの教会は、通りに面した場所にないと思います。残念ながら、私どもの教会堂も路地裏とまではいかないかもしれませんが、一本通りを入ったところにあります。目だたないわけです。しかし、私どもにとってその場所は、燭台です。聖なる燭台です。そこで生きる限り、そこに光を放つ限りは、燭台です。

それは、キリスト者として生きることに他なりません。それが、私どものディアコニアです。それを言いかえれば、証となります。神の御言葉を直接語ること、御言葉を表面的には伴わない仕方で、しかし証をし、もっとも小さな人の隣人となること、それが、ディアコニアです。もとより、そこで御言葉を敢えて隠そうとする必要もありません。しかし、どこでもいつでも、教会とキリスト者が光を浴びて、光を反射しているかぎり、神が燭台の上に置いていてくださるのです。

本日は、「被災地という特別の燭台」へと召され、派遣され、奉仕を捧げておられる姉妹からのご報告を受けます。じっくりと伺いましょう。しかし、私どももまた、中部のそれぞれの場所にいながらも、燭台の上におかれています。既に、皆様のなかで多くの方々が、仮設住宅の入居者にお手紙をお送りされています。それも光のディアコニアです。また、今、ここに集まって、ただスタッフの報告を真剣に伺うこと、それも光のディアコニアです。そして、ここでの祈りの課題を持ち帰って教会で祈ること、それも光のディアコニアです。そしてその力のまさに源泉なのです。

★  本日、のぞみセンタースタッフの浜田唯姉が共に礼拝式にあずかって下さいます。名古屋岩の上伝道所として、ある特別の思いを込めて、これからも常に、のぞみセンターのために執り成し祈り続けたいと思います。私どもが最初に被災地に赴き、炊き出しをさせていただいたのが、まさに亘理郡山元町の役場でした。そして、近くの坂元中跡仮設の方をお訪ねさせて頂くように導かれたのでした。その山元町に、主にある教会の仲間たち(それこそ世界から、北米、韓国、オランダ・・・)が祈りと献金を注いで、センターが設置され、およそ1年の歩みを重ねようとしています。まことに主の摂理を思わざるを得ません。日本キリスト改革派教会は、現在、東仙台教会ボランティアセンターとのぞみセンターを支援し続けています。いずれも有給スタッフが中心に担っておられます。前例のないプロジェクトになっています。どうぞ、奉仕者たちのために、日々の祈りに加え続けましょう。そして、被災者の方々の支援が進むことをこそ、祈り続けましょう。お手紙の交流を重ねて下さい。また、震災ディアコニア支援室の働きのためにも祈り続けましょう。

☆   先週、クリスチャン新聞さんから教会への取材のお申込みを頂きました。しかし、日程調整が困難で、お断りさせて頂きました。