「神の民の王は御自身の民のために苦しまれる」
2013年4月7日
マタイによる福音書第27章27~44節 ①
【 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。】
先週は、復活祭をお祝いしました。しかし、今朝はいつものようにマタイによる福音書の講解説教に戻ります。そして与えられた聖書の個所は、主イエスのご受難を告げる個所です。もしかすると、聖書の中でもっとも暗黒の部分と言えるかもしれません。ここには、主の御声、御言葉が記されていません。あるのは、ただ人間の言葉だけです。しかも、主イエスを侮辱する言葉のみです。人間の罪の多くは、言葉において犯すものです。もっとも暗黒な闇の世界が描き出されています。しかし、私どもは既に知っていると思います。聖書は、どこを開いても、そこから不思議な光が放たれるという福音の真理です。これ以上にないほどの暗黒のシーンからも、主イエスのいのちの光が煌めいているということです。今朝、その不思議な光がまっすぐに私どもに注がれてくる、主の愛の真実の御声が聴こえて来るなら、幸いです。
総督の兵士たちは、ピラトから引き渡されたイエスさまを官邸の中庭に連れ出してぐるりと取り囲みます。部隊の全員とは、500人から600人規模だと言われています。何と言う大勢の兵士たちに取り囲まれたのでしょうか。主イエスの着物をはぎ取って、彼らの赤いマントを主イエスに着せました。それは、王の洋服の代わりにしたのでしょう。そして、王冠の代わりに茨で冠を編んで頭に載せました。そして、王の権威の象徴としての杖の代わりに葦でつくった棒を持たせて王の格好を真似させます。すべては、嘲笑するためです。多くの兵士たちが、このイエスさまの前に膝まづいてみせて「ユダヤ人の王、万歳」と侮辱しました。これは、イエスさまだけに対する嘲笑ではなかったはずです。ユダヤ人全体、ユダヤ民族への侮蔑です。また、唾を吐きかける者もいました。そればかりか、葦の棒を取り上げて頭をたたく者もいました。ここでマタイによる福音書は「たたき続けた」と強いことばを用います。これは、動物を打つときの行動に用いることばだと言われます。彼らは、殴り続けたのです。異様な光景です。主イエスの頭から血が滴り落ちた事は間違いないでしょう。顔中が血でぬられたのだろうと思います。
そして、主イエスを、処刑場所に引き連れて行くのです。そこは、ゴルゴタと呼ばれていました。されこうべ、骸骨と言う意味です。エルサレムの外に出た場所です。おそらくこんもりともりあがった場所なのでしょう。おそらく遠くからもよく見えるように、まさに見せしめ効果抜群の処刑場です。
ローマ兵たちは、ユダヤ人が特別に憎かったのだろうと思います。それは、ユダヤ人が自分たちの従順に従わず、時に暴動を起こし、仲間を殺したりしていたからでしょう。彼らにしてみれば、十字架刑にする政治犯たち、テロリストたちを容赦なく殺すことによって、自分たちへの抵抗運動を弾圧し、見せしめとして恐怖心を植え付けたかったのだろうとも思います。
イエスさまの頭の上には、罪状書として「これはユダヤ人の王イエス」とかかげられています。ユダヤ人の王など、ローマの権力の下、このような惨めな死を迎えることとなるという見せしめです。
この個所で、「ユダヤ人の王イエス」ということばが二度出てまいります。明らかに、この個所をひもとく決定的に大切な「ことば」です。
しかしユダヤ人にとって、「ユダヤ人の王イエス」という称号は、決して受け入れられるものではありません。ローマの兵隊に侮辱され、軽蔑されているイエスさまを、自分たちの王だとは、決して受入れません。しかし、主イエスは、正真正銘のユダヤ人の王なのです。イスラエルの栄光の王であったあのダビデの子孫としてお生まれになられ、まことの王として即位なさるべきお方は、まさにこのイエスさまだったはずです。
さて、ここでのユダヤ人の王の意味について、掘り下げましょう。これは本来、単なる一国の王ということが言われているわけではないのです。実は、「ユダヤ人の王」とは、全人類を救う王を意味するのです。つまり、ここでのユダヤ人とは、日本人や中国人というような狭い意味ではありません。「神の民」という意味です。王なる神の民つまり、神の選ばれた民という意味です。確かに、血統上のユダヤ人はユダヤ人を自称します。それでかまいません。しかし、本来、ユダヤ人とは、アブラハムの信仰を継承する者のことです。父祖のアブラハムと結ばれた神の恵みの契約、救いの約束に連なる人なのです。それをきちんと言えばイスラエルとなります。神の選びの民という意味です。私どもの主イエス・キリストとは、神の選びの民の主であり、王なのです。王の王なのです。それがここでのユダヤ人の王の隠れた意味、しかし、もっとも大切な根本的なメッセージなのです。
しかし、当時のローマ皇帝とは、単に一国の王ではありませんでした。まさに、全世界の王の王であることを主張していました。地上に、自分以外の王の存在を認めませんでした。ユダヤ人の王など、赤子の手をひねるように、簡単に殺してしまうことができるのです。主イエスこそが、ユダヤ人の王、つまり唯一の、世界のまことの王なのです。ところが、その王を、ローマ帝国の権力もユダヤの権力もまた殺そうとしているのです。ここに、私どもへのメッセージがあります。
さて、この真の、唯一の王は、このような惨めな死に方、殺され方します。しかし、聖書は喜んで証します。ここにこそ、私どもの救いがあると、証しているのです。
私どものまことの王が、人々から侮辱されながら殺されて行きます。しかし、聖書は証します。その死とは、実に、王の民の為なのです。ご自身の民の罪を償うために死なれるのです。ご自身の愛する民のすべての汚れ、罪を王みずからがご自身の肉体、心、魂のすべてをもって受けとめ、耐えられ、苦しんで下さっていらっしゃるのです。このようにして民の罪は償われました。このユダヤ人の王、全世界の王なるイエスさまは、ご自身の民をまさに言葉の正しい意味で、いのちをかけて守っておられるのです。実に、私どもは、この真の王、王の命をかけていただいて救って頂いたのです。私どもが受けるべき究極の苦難のすべてを王なるイエスさまが、まさにいのちをかけて味わっておられるのです。
人々は、それを認めませんでした。知りませんでした。人々は、表面的な、外面的な権威とか権力にしか、関心がなかったからです。それ以外の権威を知らず、認めなかったからです。赤子の手をひねるようにたやすく殺されるこのイエスさまに権威や権力を認めることはできなかったのです。今も世界はすこしも変わっていません。今も、人々が称賛し、尊敬するのは地上的な、経済力や武力などの力です。その力なきものは、この世は認めません。しかし、真の権威や権力とは、いったいどのようなものなのでしょうか。それは、ここにあります。
ひとりの政治家が、ある新聞のインタビューに答えて、「日本を軍事大国にしなければならない、だから、憲法を改正して、戦争する国にするのだ」と、公言しています。わたしの目からは、気が狂っていると思える発言です。しかし、ずっと同じことを言い続けているのです。そして、少なくない国民がそれを、受け入れ始めているように思います。
20世紀初頭、デンマークの陸軍大臣がこのような法律を提唱したことがあるそうです。戦争絶滅請負法案というのです。「戦争の開始から十時間以内に、敵の砲火が飛ぶ最前線に一兵卒を送り込む。順序は、まず国家元首、次にその親族の男性、三番目は総理、国務大臣、各省の次官、そして国会議員(戦争に反対した議員を除く)、戦争に反対しなかった宗教界の指導者…」です。
本当にその通りだろうと思います。戦争しようと声高に叫ぶ政治家は、前線には行かないのです。自分と周りの者たちは安全地帯にいるのです。しかし今、そのような政治家さんたちが、威張り散らしているように思います。その人々と、このユダヤ人の王とを比べて見る必要があります。彼らは、おそらく、この王を軽蔑するでしょう。しかし、私どもは違います。違うべきです。私どもは、この苦しまれるイエスさまに王の王、主の主と賛美と感謝を捧げるべきです。ご復活されて、天に凱旋されたイエスさま、世界で一番宗教人口の多いキリスト教のイエスさま、この人について行けば寄らば大樹の陰、自分のマイナスにはならない、だから、賛美と感謝を捧げる、そのような者になりたくありません。この十字架につけられてお甦りになられた真の王でいらっしゃるイエスさまを賛美し、感謝をささげついて行きたいのです。
主イエスが、徹底的にご自身を救おうとなさらない象徴的な場面があります。「ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」とあります。この苦いものを混ぜたぶどう酒とは何でしょうか。普通のぶどう酒ならおいしいでしょうが、あえて苦いものを混ぜたものを飲ませるのは、ここにも悪意、憎しみがあったというのでしょうか。実は、違うようです。この苦いものとは、麻酔の薬だと言われます。どうして麻酔薬を飲ませるのでしょうか。それは、十字架刑があまりにも肉体的には痛みを伴うからなのだと思います。何よりも、おそらくは、十字架につける際、主イエスの両手、両足は釘で刺し貫かれ、木に固定されました。生身の人間に釘を打つ。それだけでも、苦痛のために死んでしまうことも起こりえたのかもしれません。何よりも、死刑執行人の立場に立てば、囚人にここでじたばたされたら、それは大変なことだと思います。おそらく、大の男が何人も腕を押さえなければ、きちんとできなかったのだと思います。だからこそ、ここでわずかでもこの薬を飲ませる必要があったのだと思います。しかし、主イエスは、飲まれません。理由は、もう明らかだと思います。主イエスは、ここでも神が与えられる苦しみ、人々が与える苦しみのすべてをあますところなく飲み干す必要があったからです。肉体の痛みからもまた決して逃げられなかったのです。主イエスは、神の御子ですから、父なる神がここでなさらなかったとしても、ご自身の力で十字架から降りて来ることなど、何の困難もなかったはずです。ご自身がのぞまれるなら、ただちに十字架から降りて、敵対者たちを制圧することがお出来になられます。しかし、これまでのように最後の最後のここでも、主イエスは奇跡の力、御子としての力をご自分のためには何一つ用いられないのです。
これほどまでの苦しみを味わわれたのは、いったい、何故でしょうか。それは、ただ一つの目的です。神の御心を実現することです。父なる神の御心を成し遂げるためです。それなら、その父の御心とは何でしょうか。それは、私どもの罪の赦しです。罪を赦すために、私どもの身代金として御子のいのちが、十字架に差し出されるためです。そのいのちに私どもの罪の支払う報酬としての死とその苦しみ、地上で経験し、死後に経験するすべての苦しみを味わうためです。 暗黒の声の中、沈黙を貫かれるイエスさまから光が放たれます。暗黒を破っておられるのです。罪と咎のすべてを味わわれ、苦しまれ、まさに死なんとする主イエスの中に、私どもの救いの光があります。イザヤが預言したまさにその通り、口を開かない、屠り場に引かれて行く子羊のように、主は、私どもの苦しみは担われています。
次に、ユダヤ人たちが主イエスに投げかけた言葉を見てみましょう。
「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
いったい、このように罵り、侮辱する人間のことば、その言葉を出す心の暗さ、闇の本質はどこにあるのでしょうか。一言で言えば、偶像礼拝に基づく暗さです。それなら、偶像礼拝とは何でしょうか。それは、人間がつくりだす宗教のことです。
通りがかりのユダヤ人は、「自分を救ってみろ」と言います。何故、そのように言うのでしょうか。それは、彼らの目に、主イエスは救われていない人間の代表としか映っていないからです。確かにその通りです。主イエスはご自身を救われません。しかし、今学んだばかりです。主イエスは、その彼らのためにこそ、救われない人間の代表となっておられるのです。ここで苦しみの杯をすべて飲み干そうと覚悟をし、そして実行しておられるのです。もし、主イエスが自分で自分を救ってしまったら、そのとき、私どもの救いの道は断ち切られます。だから、罵る彼ら、嘲笑う彼らのために自分を救わないのです。
ユダヤ人は、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」となじりました。そもそもユダヤ人は、唯一の神を信じる民です。その意味では、形式においては断固、偶像礼拝を拒否します。徹底的に拒否します。ごく自然なことであり、当然のことです。ユダヤ人が他の神を拝んだら、その時からユダヤ人でなくなります。とりわけ当時のユダヤ人たちは、律法を守ることにこれまでのどの時代のユダヤ人より、熱心であったかもしれません。しかし、問題は、単純ではありません。そのような唯一の神を信じるユダヤ人たちは、ことばの正しい意味で偶像礼拝をしなかったでしょうか。違います。新約聖書、福音書を読めば明らかです。ユダヤ人は、真の神を知りながら、その神を偶像にしてしまいました。つまり、偶像礼拝とは、八百万の神を拝むことだとか、イスラームのアッラーの神を拝むことだとか、他のカミガミを拝むことだけの問題ではありません。何故、それを強調するかと申しますと、今日のキリスト者もまた、まさに偶像礼拝の罪から解き放たれているのだとは、決して言えないからです。「そうすれば、信じてやろう。」まさかキリスト者、教会員がこのような発言を、主イエスに浴びせることは、考えられません。しかし、冷静に、客観的に考えるなら、結局、主イエスの弟子たちをも含んで、あのとき、ここに登場するすべての人の心の中に共通して巣くっていたのは、この思いではないでしょうか。自分を救ってくれる、自分がよくなる、自分が助かる、だから宗教を信じ、神を信じる。そのような思いこそ、まさに、罪なのです。人間とは、徹底的に罪深いのです。
人間は、宗教においてこそ、もっとも大きな罪を犯すと言えるでしょう。つまり、人間とは、その宗教心においてこそ、もっとも自己中心になる可能性があるということです。つまり、ご利益信仰、ご利益宗教に陥るということです。自分の利益になるから、宗教を信じる、頼るのです。自分に利益をもたらさないのなら、拒絶するのです。そこでのご利益とは、単にお金が儲かるとか病気がなおるとか家庭の問題が解決するとかという目に見える利益のことだけではありません。精神的な利益のことも含みます。
自分の願いどおりになる、それを宗教と考えている限り、人は、神に出会うことができません。しかし、聖書の神は、主イエス・キリストの父なる神は、そのような者のために憐れみを注がれました。そのような暗黒な心の闇の故に、殺されたイエスさまにおいて、出会いの道が開かれています。その意味で、私どもがまことの神に出会う門は、この苦しまれるイエスさまにおいてのみです。主イエスは、今朝も、私どもに忍耐強く、待っていて下さいます。私どもが自分勝手に求める宗教的欲望ではなく、神が、苦しまれるイエスさまにおいて、ご自身の極みまでの愛をここに示しておられます。
キリスト者とは、この苦しまれた王の民です。主イエスは、ご自身の民である私どものために極みまで苦しまれたのです。この主イエスを通して私どもは神を知らされました。父なる神の愛の御心を知りました。その愛を今、もう一度、聖餐の礼典において噛みしめさせて頂きましょう。そして、聖餐によって、献身の志、信仰を新たにさせて頂きましょう。
祈祷
ユダヤ人の王であるからこそ私どものために極みまで苦しみ、十字架で死んでくださいました主イエス・キリストの父なる御神。今も、多くの人々が、しかもキリスト者や教会ですら十字架のイエスさまを拒否しています。主イエスについて行けば、この世において勝利と祝福と健康と富がもたらされるかのように宣伝する人々もいます。そして、私どもも心の底で、そのような声に引っ張られてしまいます。どうぞ、憐れんで下さい。十字架の苦難の沈黙から、主イエスの光を浴びて、主イエスの愛の豊かさと正義の厳しさを聴きとって、主に従う者、十字架を担う者とならせて下さい。アーメン。