「強いられた恵み」
2013年4月21日
マタイによる福音書第27章27~44節 ②
【兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。】
このテキストから二回目の説教となります。そして、来週もこの個所から学ぶ予定を立てています。先回の説教で、私は、この個所は、聖書の中でもっとも暗黒の部分と言えるかもしれないと、申しました。色のイメージで言えば、黒です。わたしにとっては、艶消しの黒。すべての色を飲み込んでしまうようなどす黒い黒、暗黒です。暗闇です。ここには、神の御言葉が記されていません。ただ、主イエスを囲んで、上はローマ総督、そしてユダヤの最高法院の議員たちをはじめ、下は、ローマ兵たち、ユダヤの群衆そしていっしょに十字架にはりつけられた囚人たちが、口をそろえてひとりの男に、軽蔑と嘲笑の声を浴びせるのです。人間の心の闇が、それだけがここで示されています。しかし、聖書は、神の言葉です。この状況の中から、私どもはいのちの光を見ることができます。慰めと癒し、救いを見ることができます。今朝は、ここから放たれる一つの光に集中したいと思います。その意味では、今朝の説教は主題説教となります。
説教の題とした「強いられた恵み」は、キリスト者にとってはよく知られた表現かと思います。ただし、よく考えてみますと、とても不思議な表現だと思います。「恵みなんて要らない、恵みなんて受けたくない」と拒絶する人は、おそらく誰もいらっしゃらないと思います。恵みを受けるということは誰にとっても嬉しく、すばらしいものだと思います。それなら何故、「強いられた恵み、強制された恵み」と言う表現があるのでしょうか。
今朝は、ただ一人の人、キレネ人シモンに集中したいと思います。「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」です。キレネ人とは、民族の名称ではありません。北アフリカにある一つの町キレネ在住の人という意味です。このキレネからやってきたシモンという男性は、おそらく、過ぎ越しの祭りの祝いのためにエルサレムに巡礼しに来たのだと思います。その意味で信仰深いユダヤ人です。ただし彼は、ユダヤを遠く離れて生活しています。実は、当時、そのようなユダヤ人は、少なくありませんでした。
マルコによる福音書第15章21節には、シモンと言う人を丁寧に紹介しています。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」このシモンは、「アレクサンドロとルフォスとの父」だというのです。マルコによる福音書の最初の読者は、アレクサンドロとルフォスのことは、良く知っていたのです。自分たちの教会員だったのかもしれません。今ここで、その彼らのお父さんが、どのようにして信仰に導かれたのか、そしてまさに、それは自分たちの仲間のアレクサンドロとルフォスが、どのようにして信仰に導かれたのかが明らかにされるのです。
実は、ローマの信徒への手紙第16章13節に、このようにあります。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」ルフォスとは、シモンの子どもです。その母親のことを、使徒パウロはとても親しく知っているのです。親しいどころか、自分の母親だというのです。これは、最高のほめ言葉でしょう。独身のパウロ、伝道者パウロを母親のような気遣いで、助けた人なのです。なんとすばらしい母親であろうかと思います。そして、信仰者であろうかと思います。ルフォスという息子は、この父と母の信仰の教育の中で、今では、ローマ教会のなくてならない奉仕者の一人になっているのです。いったい人間にとって、これほど栄誉なことがあるでしょうか。これほどの幸いがあるでしょうか。シモンひとりではなく、妻も主イエスを信じて、救われたのです。ふたりの息子アレクサンドロとルフォスまでも、罪を赦され、神の子とされ、キリスト者として生きているのです。家族が救われたのです。こんなにすばらしいことがあるでしょうか。
あの日、シモンは、一年に一度のエルサレムの巡礼の旅に出かけたのでした。それは、簡単な巡礼ではありません。犠牲を伴った礼拝だったはずです。そして、ついにエルサレムに到着します。まっすぐに、神殿をめざして歩いたと思います。ところがなんと、その道すがら、処刑場に赴く犯罪者の行列に行き合ってしまったのです。死刑囚たちが、十字架の横棒になる丸太の木を担がせられていました。ユダヤ人であれば誰でも、「木に掛けられる者は呪われた者」と言う聖書のことばを知っていました。そのような彼らにしてみれば、十字架の木にはりつけられるような犯罪者とは関わりたくなかったはずです。ところが、まさに運悪くこの不吉な行列に遭遇してしまいました。しかもあろうことか、血みどろのボロボロの姿にやつれ果てた犯罪者が、自分の方に倒れかかって来たのです。シモンは、絶対に触りたくなかったはずです。神殿に詣でる自分が、血に触れでもすれば、礼拝するために清めの儀式をしなければならなくなるからです。ところが、ローマ兵は、もはや主イエスに担ぐ力がないと判断すると、憎きユダヤ人を選んで、担がせようとします。こうしてシモンは、どこの誰かもまったく知らない死刑囚のかつぐおぞましい丸太、神の呪いのシンボルである十字架の木を、代わりに担がせられる羽目になってしまいました。
シモンは、心の中で思ったでしょう。「ああ、わたしは何と、不運なのか。せっかくの巡礼は大なしだ」。シモンは、心のなかで呟くばかりではなく、主イエスに、腹いせの為に文句を言ってしまったかもしれません。
しかし、そんなシモンの心の中に、ある大きな変化が起こって行ったはずです。血みどろの姿、ボロボロの姿にされているこの人の顔つきや眼差しを見ていると、決して極悪人ではないと思ったかもしれません。何よりも、遂に、イエスさまが、十字架の上にはりつけられたとき、シモンが、イエスさまを見上げたとき確信にかわったかもしれません。「この人は、極悪人などではない」。主イエスが十字架の上でなおも神に祈り、人々を赦すお姿を見つめ続けたシモンは、むしろ、「この人は、ただの人ではない。この人こそ、神に近い人だ。」そのような思いが湧いたのではないかと思います。大きな感動を覚えさせられたのではないかと思います。ですから、彼は、イエスさまが死んだ後も、エルサレムから離れられなくなったのです。これはわたしの想像でしかありませんが、もしかすると、その後、復活のイエスさまにお会いしたのかもしれません。少なくとも確かなことは、復活の主イエスにお会いした弟子たちから、主イエスの教えを聴いたはずです。そして、そこで聴いたのは、衝撃的なことでした。
つまり、神は、メシアとしてイエスさまをこの地上にお送り下さったこと。あの十字架で死なれたイエスさまは、実は、御子なる神ご自身であって、しかも、まことの人間でいらっしゃったこと。そして、あの人間イエスさまがあれほどまでに、人々からひどい仕打ちを受け、神からの呪いとしての刑罰を受けて十字架で死なれたのは、なんと、罪人である人間の罪を償うための身代わりの苦しみであり死であったということです。つまり、初めに考えていたことは、まったく的外れだったということです。自分こそが、憐れな囚人イエスのために重荷を背負ってあげたのだというのではなく、本当はあの囚人こそは、あのイエスさまこそ、自分の罪を身代わりに背負ってくださったのです。シモンじしんが神から受けるべき永遠の死という裁きを、イエスさまが担ってくださったのです。シモンが受けるべき神からの罪人に対する呪いを、主イエスが、代わりに担っておられたのだということです。そうです。シモンは、悟ります。「自分こそ、憐れな罪人である。自分こそ、あのイエスさまのおかげで、神の呪いから救われたのだ」。あの十字架の木の重さは、シモンとイエスさましか知らなかったでしょう。しかし、シモンは思ったかもしれません。ゴルゴタまで担いだ十字架の木の重さは、本当に大変なものだった。しかし、主イエスが担って下さった十字架の重さは、いったいどれほどのものだったのか。
シモンは、キレネに戻って、どのような人生を送ったのでしょうか。わたしは、確信しています。彼は、その後、一生懸命、主イエスの十字架とご復活を、そして自分があのイエスさまの担がれた木を背負わせて頂いたことを。そして、それこそが、自分の救いにつながったことを喜んで語り、証したはずです。どんなに困難で、ひどい目にあわされようとも、ひるむことなく、誇らしく語り続けたと思います。だから、家族が信仰へと導かれたのだと思います。シモンは、そのようにして、本当の意味で十字架を、自分自身の十字架を負って生きたのです。無理やりに担がされたあの十字架の意味を知って、自分の重荷、自分が受けるべき究極の重荷、罪と死の重荷から解き放たれたのです。もはや、シモンは、罪の呪いから解き放たれたのです。死の恐怖や人生のありとあらゆる困窮、苦しみからも逃げ出さない生き方、苦しい人生も、あるがままに受入れる自由と喜び、確信と希望に満ち溢れて行ったのです。
彼は、後で弟子たちから、主イエスのこの御言葉をも聞いたかもしれません。マタイによる福音書第10章38節~39節にある御言葉です。「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」シモンは、照れるような思い、恥ずかしい思いを持ったかもしれません。「ああ、イエスさま。わたしは率先して、イエスさまの十字架の木をかついだわけではありません。それにもかかわらず、こんなに祝福され、救って下さりもったいないことです。これからは、自分から、喜んであなたについてまいります。主イエスに従うことこそ、自分の十字架の道です。」
本当に、不思議なことだと思います。シモンは、最初は、無理やりにひどい目に遭わされた自分の不運を呪ったはずです。ところが、主イエスが誰であって、十字架が何であるかを知ったとき、180度変わったのです。その後、聖書を読んでいよいよ正しい理解に進んだと思います。「ああ、そうだったのか。あのような仕方で、神さまは、わたしをイエスさまに出会わせて下さったのだ。あれは、偶然ではない。必然だ。たまたまではなくて、神さまのご計画なのだ。ああそうだ。わたしは、主イエスに救われるようにと選んでいただいていたのだ。自分が、進んで十字架を取ったのではなく、むしろ、神に恵みを受けて、十字架を担ぐ光栄を与えられたのだ。」
さて、これは、決してシモンひとりの体験ではないのです。キリスト者全員の体験と言っても、わたしは過言ではないと思います。自分は、まだまだそんな経験、体験はしていないと言う仲間がいても、よいでしょう。しかし、キリスト者の生活、教会生活のなかで、このような仕方で、私どもは神の恵みにあずからせていただくことがどれほど多いかを、やがて教えられると思います。自分から進んで十字架を担う・・・。それは、恰好が良いと思います。胸がすくというか、すがすがしい信仰の態度です。しかし、私どもは、しばしば主に従う歩みにおいて、尻込みするのです。
無理やり追わせられて初めて知ることもあるのです。いへ、多くのキリスト者は、信仰に導かれるとき、勇み進んで、さあ、イエスさまのお弟子になるぞ、自分はこれから主イエスを信じて、神のお役に立つ人生を送るぞ、そのような決意で教会に来る方はおりません。人生の苦しみや悲しみ。不条理に悩み苦しみ、ある方は、七転八倒の苦しみのなかで、聖書や教会、キリスト教に助け、解決、人間的な意味でのスクイを求めてやってくるのです。しかし、主イエスを知った朝、主イエスの十字架の意味を知った夜明け、その苦しみは、どんどん小さくなって行くのです。時に、まったくなくなってしまうと言うことすら起こります。
そして、私どもは、そこから少しずつ、歩み始めます。主イエスが約束された御言葉が少しずつ、分かってくるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
自分を捨てること、自分の思いこみを捨てること、自分中心の世界観、価値観、生き方を止めること、自分の心の軸を、主イエスに合わせること、そのようにさせていただくことによって、実は、楽になるのです。自由になるのです。人生のあらゆる重荷が軽くなってくるのです。それが分かるのです。
最後に、私どもの人生における不思議な「出会い」について考察したいと思います。マタイによる福音書第25章で、主イエスの最後の審判の状況が語られています。「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
シモンは、強制的に、目の前に血みどろになって疲労困憊して倒れている囚人に寄り添って歩ませられてしまいました。しかし、それこそ、生ける神の御子キリストに仕える最大の特権にあずからせられていたのです。ここに、神の一方的な恵みの選び、神の自由な選び、私どもの思いをはるかに越えた神の恵みの選び、救いの御業があります。
主イエスは、仰せになられました。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』こうおっしゃる主イエスご自身が、ここで極限の苦しみを受けることによって、まさに、全人類の中で、もっとも惨めな人間、最も小さな者になってくださったのです。それは、この世で最も小さな者の友となるためです。まさに、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』という御言葉を現実のもの、実質を伴うものとするために、主イエスは、これ以上にないほどの苦しみをなめられたのです。
私どもは今朝、ここで主イエスにお会いし、礼拝を捧げています。つまり、私どもはシモンのようにではありませんが、ここで、共に主イエスさまに奉仕する特権と光栄にあずからせて頂いています。しかし、この奉仕は、礼拝だけ、今日だけで終わるものではありません。明日からも続きます。私どもは礼拝式の最後のプログラムで神から派遣され、祝福を受けます。礼拝堂からそれぞれの場所に新たに派遣されてまいります。私どもは、礼拝堂の外でも、主イエスに奉仕するのです。主イエスと出会うことができるのです。それは、苦しみの中にある方、悩みの中にある方、目標を見失っている、そのような方々との出会いに他なりません。伝道と証の使命を与えられています。彼らに奉仕することによって、私どもは主イエスさまに出会い、奉仕するチャンスを与えられるのです。その出会いやチャンスを大切に育ててまいりたいと願います。
最後の最後に、確認したいと思います。私どもは今、キリストの体なる教会におります。いったい、教会とは何でしょうか。実に、主イエスは、私どもを軽やかな人生へと導くために教会と教会生活を与えて下さいました。教会に生きることによって、私どもは神の恵みの支配に留まり、その中で生かされ、建てあげられてまいります。教会とは、使命に生きるための場所に他なりません。神の民、神の子どもたちが、そこで、神の御心、ご意志を実現するために、与えて下さった場所、働き場所なのです。神の子どもたちの共通の働き場所です。
確かに教会に生きることは、苦労が伴います。既に今朝、主の日を第一にすることで、皆さまは、現実に戦っておられるはずです。今日は、何もすることがないから教会に行く・・・。そうではないでしょう。今日を、主に捧げ、神を神とし、主を主と証するために、それぞれの固有の戦いがあったことと思います。しかし、だんだん分かってくるのです。教会に生きること、その歩みの中で、神の恵みが豊かであり、確かであり、自分が生かされるということです。
この教会をつくっているお互いは、キリストを信じ、キリストを宿しています。つまり、教会員のために労すること、それこそは十字架を担う行為においてまさに第一のことなのです。教会員がお互いの十字架を担いあうこと、それこそが実は、救いにつながるように、主イエスが定めておられるのです。そのときこそ、自分の十字架が軽くなってしまうという不思議なことが現実となるのです。「自分などは、まだまだ誰かの十字架を担うまでの信仰者ではありません。」と思われる仲間がいらっしゃるでしょうか。教会の仲間の十字架を担うところで軽くなり、強くなり、生かされて行く、これが、今朝のメッセージです。
主なる神は、時に、私どもをご自身の恵みにあずからせるために、無理やりのように、強いるように、何事かをさせる、連れて行くことがあります。ある試練や、ある困難や、ある課題を与えられることがあります。私どもは、神の父としての限りない深い配慮、愛のご計画を信じるべきです。そして、それらに誠実に、真実に向き合いたいのです。そのとき、はからずも、思いもかけない主の恵みのご計画を担い、驚くべき祝福と幸いへと導かれて行くのです。いへ、たといそうでなくとも、私どもは、今、与えられている自分の十字架を担ぎ続けたいと思います。
祈祷
私どものために、十字架を背負ってゴルゴタの道を歩まれた主イエス・キリストの父なる御神。主の苦難の恵みによって、私どもは救われました。そして今、あなたは、私どもにもまったく違った意味で十字架を担ぐ奉仕へと招いて下さいます。私どもを軽やかに生きるように導いて下さるのです。ただし、私どもはしばしば、それを恵みとは思えないときがあります。どうぞ、信仰を富ましめて下さい。今分からなくとも、精一杯の歩みをなすことができますように。あなたの計り知れない愛と恵みを信じて、歩ませて下さい。隣人に仕え、教会員に仕えることによって、あなたに仕えさせてください。そのようにして、私どももシモンとその家族の祝福にあずからせて下さい。アーメン。