圧倒的な敗北者、主イエス」
2013年4月28日
マタイによる福音書第27章27~44節 ③
【兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。】
今朝はこの個所から3回目の説教となります。そして、今日で学び終わりたいと思います。私どもは、教会の開拓伝道の歩みを始めていらい主日礼拝式のたびごとに、ニカヤ信条をもって信仰を告白し、神に感謝と賛美を捧げてまいりました。これからも、そのようにしてまいりたいと思います。ニカヤ信条は、私どもやローマ・カトリック教会を含む西方教会とロシアやギリシャの正教会を含む東方の教会をすべて含む、まさにすべてのキリストの教会が唯一、共通に告白することができる信条です。キリスト教という宗教を客観的に説明する一つの方法は、キリスト教とは、聖書をこのニカヤ信条の信仰告白に立って解釈する共同体だということができます。ただし、私ども西側のキリスト教にとっては、おそらくそれ以上に親しまれているのは使徒信条です。しかしいずれにしろ、キリスト教にとってこれらの信条、公同信条とか基本信条とか呼ばれる信条は、決定的に重要なもの、教会を建てあげるためには不可欠のものです。
さて、そのような信条ではありますが、あらためてとても不思議に思うことがあるだろうと思うのです。それは、私どもがこれまで4年以上の歳月をかけてマタイによる福音書から学んでまいりました事ごと、つまり、主イエスのお働きや教えについては、信条の中には、ほとんど何一つ記されていないからです。ニカヤ信条は、このように告白しています。「主は我ら人類のため、また我らの救いのために天よりくだり、聖霊によりて処女マリアより肉体を受けて人となり、我らのためポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ」つまり主イエスのご降誕、クリスマスの出来事に触れるやいなや、一気に主イエスの最後の日々、十字架の苦しみ、受難に飛んで行ってしまっています。30年余りのご生涯はおろか、マタイによる福音書に記された数々の大切な教えやお働きについて、ひとことも触れないわけです。
そのことをさらに掘り下げて考えてみますと、そう言えば、マタイによる福音書じしんも、主イエスのご降誕の記事はありますが、公の生涯に入られる以前の生涯については何一つ、記されていません。いったい、何故なのでしょうか。それは、私どもの救いのためには、あえて知る必要もないということです。
さて、しかし今朝与えられた個所は、まさに、ニカヤ信条で言及された主イエスのご生涯の数少ない部分です。ニカヤ信条で「苦しみを受け」の一句で、表現された個所に当たります。確かに、私どもは、イエスさまとは誰か。どのようなお方でいらっしゃるのか、マタイによる福音書を通して丁寧に学んできたわけです。愛と慈しみに満ち満ちたすばらしいお方でいらっしゃるのです。しかし、ニカヤ信条によれば、私どもが救われる為には、罪が赦される為には、永遠のいのちの祝福にあずかるためには、知るべきことは、多くはないと言うのです。それどころか、ただこの一言に尽きると言わんがばかりです。それほどまでに単純な事実、出来事、それが、「キリストは私どものために苦しんで下さった」という事実、真理なのです。
そのことをさらに掘り下げて考えてみるとき、このような真理も見えて来るかもしれません。これまでマタイによる福音書を通して学んでまいりました主イエスの歩み、伝道のお働き、そのすべての生活は「苦しみ」「苦難」だったということです。主イエスのご生涯を一言で言えば、「苦しみ」「苦難」の御生涯となるのだということです。さて、そこでこそ、私どもは悟らなければなりません。何故、主イエスは、それほどまで、これほどまでに苦しまなければならなかったのかについてです。そこに、キリスト教信仰のまさに土台があります。私どもの救いの土台があります。主イエスを信じて救われること。洗礼を受けて教会員となること。そのとき、ここが要、ここが肝心、そのような急所となる一点があります。それは、イエスさまはあなたのために、わたしのために苦しまれたということです。わたしの「ために」です。この「ために」を言い換えれば、わたしの「代わり」にです。
わたしは、今朝の説教の題として「圧倒的な敗北者」と致しました。いつも当たり前のように奉仕者が、説教題を掲げて下さいました。通りがかりの方にとって、これは、とてもおかしな題だと思います。世間で言えば、敗北者つまりコテンパンにやっつけられてしまった人、完全に挫折して生涯を閉じた方に注目することは、ほとんどないことだと思います。そもそも圧倒的という表現は、勝利者にこそふさわしい積極的な表現だと思います。しかし、私どもはまっすぐに見つめなければならないのです。確かに主イエスは、ご復活されたことによって圧倒的な勝利者であることを示して下さいました。しかし、今朝、私どもが見つめるべきは、敗北者でいらっしゃるイエスさまのお姿です。完膚なきまで悲惨な死に方、これ以上ないような惨めな生涯の終わりを味わっておられます。
いったい、この日を迎える前まで、主イエスは何をなさったのでしょうか。「神を愛し、隣人を自分のように愛された」ということに尽きます。愛に生き抜かれたのです。すべての人を愛し抜かれたのです。弟子たちと3年の生活を共にしてくださり、弟子たちを愛し抜かれました。人々を、とりわけ虐げられていた人々を愛し抜かれました。そのために奇跡を起こされ、病を癒され、孤独な人の傍らに寄り添い続けられました。死者を生き返らせたことすらありました。さらには、権力者や宗教指導者たちとは、真理の戦いをぶれることなく、逃げることなく全うされました。そして、そのすべての結果、その総決算が先ほど読みました、このようなひどい仕打ちで、死なんとされているのです。上はローマ総督、そしてユダヤの最高法院の議員たちをはじめ、下は、ローマ兵たち、ユダヤの群衆、そしていっしょに十字架にはりつけられた囚人たちまでが、口をそろえて軽蔑と嘲笑の声をこれでもかと浴びせるのです。弟子たちは、身の危険を恐れて逃げ去ったままです。弟子のひとりのイスカリオテのユダは、積極的に裏切り、主イエスを売り渡したのです。今、この苦しみの極みを味わわれるイエスさまの味方になられるのは、誰でしょうか。ひとりもおりません。孤独の中の孤独です。厳密に申しますと、婦人の弟子たちだけ、マグダラのマリアたちだけは、主イエスと共にいました。しかし、彼女たちでは、イエスさまを助けることはできません。遠くから見守ることが精いっぱいでした。要するに、これまで主イエスが愛し抜かれた弟子たち、人々すら主イエスを裏切り、捨ててしまったのです。今や、イエスさまは、すべての人の敵となってしまわれ、軽蔑、憎悪の対象になって、もっともひどい処刑方法である十字架刑で、犯罪者として殺されようとしているのです。
いや、誰も味方はいないというのは、違うのではないかと、なお、思われる方もいらっしゃるでしょうか。「父なる神さまだけは、愛する独り子のイエスさまの味方でいらっしゃるでしょう」ということです。しかし、まさに、そこが要です。来週、詳しく学ぶと思いますが、その肝心要の弁護者、創造者なる全能者なる父なる神が、最後にこの御子に下された審判は、この方を見捨てることだったのです。およそ人として、このような悲惨な死に方、人生の終わり方があるでしょうか。人を愛したにもかかわらずその愛が報われないで、かえって憎まれることは、あり得ましょう。しかし、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、徹底的に主なる神、父なる神を愛されたこのイエスさまが、父なる神に背中を向けられたのです。御顔を隠されてしまったのです。世間的な評価で、このイエスさまの生涯、人生、事業、お仕事にあてはめれば、どうなるでしょうか。大失敗の人生の典型、いへ、空前絶後の悲惨な人生となるのではないでしょうか。
いったい、天と地を創造され、それらを統べ治めておられる全能なる神の御子が、何故、これほどの悲惨をなめておられるのでしょう。これは、本当は丁寧に申し上げなければなりませんが、主イエスは、今、人間からのイジメの対象になっておられます。言わば、イジメによって殺されようとしておられます。しかし、それは、単に人間が、誰か弱い人間を標的にして自分の憂さを晴らしたり、自分を守ろうとするイジメではありません。もっと深刻なものです。もっと恐るべきことが、あの十字架で行われているのです。それは、他でもない父なる神ご自身が、その愛するひとり子でいらっしゃるイエスさまに、聖なる怒りと呪いをくだされようとしているのです。
いったい、何故、そのような刑罰を、父なる神は、ひとり子でいらっしゃるイエスさまに与えたもうたのでしょうか。何故、主イエス・キリストは、十字架でその神の怒りを受けようと、ご自身を差し出されたのでしょうか。エフェソの信徒への手紙第2章にこうあります。人間とは、どのような存在であるかを、その深みを明らかにした真理です。「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」生まれながらの怒りの子とは、怒りっぽい子どもという意味ではありません。人間とは、神の怒りを受けるべき罪人として生まれてきて、実際、罪人らしく自己中心の塊のようにして生きているということです。ここでの怒りとは、神の聖なる怒りであり呪いのことなのです。
実は私は、キリスト者になる前には、十字架のキリスト像、十字架を描く絵画を見るとき、「ああ、キリスト教というのは、恐ろしいな。激しいな。」最近の言葉でいうと「えぐいな」というニュアンスを持っていました。「何で、こんな恐ろしい絵を描いたり、さらには、礼拝堂の真正面にかかげて、それを拝むのだろうか」こんなむごたらしい絵をまっすぐ見つめることなど、「かなり危ない、おかしい」と思っていました。しかし今、当然、そのようにはまったく思いません。むしろ、私どもは、いよいよ、十字架につけられたもうた主イエスのお姿を、まっすぐに見つめようとします。そのためにも、今朝のテキストが与えられています。ここで主イエスは、恐ろしいまでに苦しんでおられます。いったい何故、イエスさまは、そのように苦しまれなければならないのでしょうか。そもそも、人はなぜ苦しむのでしょうか。何故、人間の世界には、苦難、苦しみがあるのでしょうか。自分が苦しむのはつらいです。しかし、自分の愛する人が苦しんでいるのを見るのは、もっとつらいでしょう。仏教では、人間の苦しみを「生老病死」と言います。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、そしてついに死別の苦しみです。そして、それが逃げられない定めだと言います。ほんとうにその通りだと思います。これが、人生です。いつの時代の人間も、この生老病死の苦しみと戦い、そして、厳しい事実ですが、誰もが究極的には敗北する、して来ただろうと思います。この現実から逃げることによって、見ないことによって避けようとする人々が多数派です。しかし、見て見ぬふりをしても、遂に、だれしも、この苦しみの中で、人生を終えなければなりません。
ここでさらに問わざるを得なくなります。そもそも、何故、神がいるのなら、神が愛のお方でいらっしゃるのなら、何故、人間にこのような苦しみを与えておられるのか。この現実を認めておられるのは、何故かということです。
ただし、そこで、聖書は、言います。本来の世界、地球、そして人間は、そのような苦しみの世界ではなかったのです。もともと、神は、人間のために完璧な世界を、生きる場所を創造し、与えて下さいました。それを、破壊し、汚したのは、人間です。人間が、神とその御言葉に背いたからです。怒りの子に自ら率先してなり下がったからです。それなら、人間が苦しむのは、当然です。
ところが、聖書は宣言します。今朝のマタイによる福音書のテキストは雄弁に物語ります。自分の責任で苦しむべきその生老病死の苦しみ、いへ、ここでは、さらに深刻な、人からの裏切り、軽蔑、無実の罪のゆえの刑罰、そのような圧倒的な悲惨をなめられたのは、神ご自身だということです。そもそも、罪のないイエスさまがこのような苦しみ、苦難を受ける謂われはありません。神の御子のイエスさまは、何一つ、罪を犯していらっしゃらないのですから、苦しむとはまったく無関係の存在でいらっしゃるはずです。何故、このような苦しみを受けられたのでしょうか。最初に、学びました。そこに、私どもの福音があるのです。そこにのみ、私どもの救いがあるのです。人間の罪の責任、人間の苦しみの源、その責任を担うべきは、人間じしんのはずなのに、神は、それを肩代わりなさるのです。人間が悲惨に、敗北者として死んで、神の刑罰をうけて滅びる定めであるのに、父なる神は、それをよしとされませんでした。いっしょに、苦しもうとなさったのです。いへ、究極の苦しみである罪の支払う報酬としての神の怒りとしての死を、私どもに負わせはなさらないのです。その苦しみを、ひとり子のイエスさまに負わせられたのです。これが、神の愛です。ここに神の愛の真実の姿があります。それは、犠牲の愛です。ご自身が傷つき、痛み、苦しむ、それを覚悟の上で、それを忍耐して、罪深い私ども、汚れた私ども、神を信じない私ども、神を愛さず、従わない私どもを、抱きしめて赦そうとする神の犠牲があります。それが、まことの神の愛なのです。
主イエスの苦しみ、主イエスの敗北、それは、いったい誰のための苦しみであり敗北なのでしょうか。それは、私どものためです。この主イエスの苦しみと敗北を信じるとき、そのとき、私どもの究極の苦しみは消滅します。完全なる敗北は完全なる勝利となります。圧倒的な勝利が転がり込んで来て、私どもは勝利者として人生をやり直せるのです。
ただし、それでもなお、主イエスを信じたからと言って、地上の苦しみ、悲惨から解放されることはできません。キリスト者もまた、自分の罪や愚かさ、弱さや欠けによって、さまざまな失敗をします。挫折もします。聖書は、イエスさまを信じたら、連戦連勝、何をやってもうまく行く、苦しみも悲しみもなくなって、楽しいこと、嬉しいことだけがもたらされる、そのようなことは、まったく約束されていません。しかし、わたしどもは、既に味わっているはずです。味わい始めているはずです。このイエスさまの御苦しみ、苦難を思うとき、この苦しみから、昔のように目を伏せたり、逃げたり、真実を見ないように逃げることから守られるのです。苦しみが軽くなるのです。さらに言えば、苦しみを感謝することまで、可能とされるのです。詩編第119編71節で、詩人はこう歌います。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」新改訳聖書では、こう翻訳されています。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」苦しみが、自分のために良いことであった。幸せであったと告白するのです。それは、やせ我慢ではないはずです。信仰者は、神の掟を学ぶ、神の御言葉を学ぶ、つまり、神ご自身をより深く知ることができるようになるからです。神を信じている者が、苦しみに遭うとき、それは、もはや、その人を滅ぼしたり、人生を破たんさせることはないのです。罪が赦され、罪の刺が抜かれているからです。むしろ、その苦しみの中で、人の優しさがどれほど、すばらしいのかを知ることができるでしょう。神の恵みと憐れみがどれほどすばらしいのかを知って、さらに勇気と力を注がれるでしょう。神への信頼と愛が深まり、人とのつながりを大切にしようと思うでしょう。それが、十字架のイエスさまの苦しみによって、もたらされる地上における祝福です。そうなると、もともとの苦しみすら、軽くなってしまうのです。
私どもの周りから、日本国中、世界のあちこちで、生老病死に苦しむ人たちの叫びが聞こえてきます。強い者、多数者からイジメられている人々がいます。そのような町、県があります。国があります。民族があります。ひとり、自分は敗北者だと思いこんでしまっている人たちがいます。彼らの叫びを誰が聴くのでしょうか。誰が、彼らに告げることができるのでしょうか。「あなたの苦しみは、もう、イエスさまによって肩代りされていますよ。大丈夫。イエスさまが共に苦しんで下さいます。いっしょに苦しみをイエスさまのところに持って行きましょう。その方法は、お祈りです。あなたが祈れなくても、わたしが代わりに祈って上げます。いや、もう、イエスさまがあなたの為にも、祈っておられるのです。」誰が、この福音の事実を告げるのでしょうか。
主日礼拝式とは、主イエスの苦しみをまっすぐに見つめる日です。そして、そのおかげで救われ、人生の勝利者とされたことを喜び祝う日です。そのとき、私どもの心は、晴れ渡る青空のように明るさを取り戻して頂けます。この主イエスを信じ、主イエスと共に生きる者たちは、敗北しません。勝利が確定され、完全な圧倒的勝利に向けて一歩一歩確実に歩み続けさせて頂けるのです。今週も勇気をもって、自分に与えられた信仰の道を、十字架を担って歩み続けましょう。そして、苦しんでいる人たち、いじめられている人の中にこそ、主イエスを認め、彼らの隣人となる道を選び取りましょう。
祈祷
私どもと同じ人となられ、私どもの受けるべきあなたからの刑罰、怒り、のろいを私どもの身代わりに受けて下さった主イエスの恵み、その御子をあたえてくださった御父のご愛を心から感謝致します。御子の苦しみのおかげで、私どもの苦しみは軽くなりました。しかも、その苦しみで、私ども自身があなたらか引き離されることもなく、人生を呪い、人生を諦め、捨ててしまうこともなくなります。私どもが神の子とされ、平和の内に地上を旅することができるのは、すべて御子イエスさまが私どもの罪をすべて負って、敗北者となりきって下さったおかげです。主の苦しみがわたしの救い、癒しとなりました。心から感謝致します。どうぞ、これからは、その苦しみにあずかる道を、私どもが自覚的に選び取ることができますように。私どもの信仰を成長させてください。倒れている人の傍らを通り過ぎず、隣人となりえますように。アーメン。