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「見捨てられた神の御子」

「見捨てられた神の御子」
                2013年5月12日
マタイによる福音書第27章45~50節

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。】
 

 今朝は、遂に、主イエスが十字架の上で死なれる場面を皆さまと学んで、礼拝を捧げます。この個所から、何回、説教することになるのか、分かりません。少なくとも、もう一回は、この個所を学びたいと思います。キリスト教信仰にとって、十字架の意味、主イエスの十字架の死の意味をわきまえることこそ、すべての土台、中心点になるからです。

さて、人は誰でも一度死ぬことが定まっています。死の現実は、人として誰も避けえないものです。その意味で、どのように死んで行くのかについては、おそらく多くの人たちは、関心があるはずです。あるいは自分の死の問題について、目をそらしてしまっている方も少なくないかもしれません。

 「死に様」という言い方があります。人が死ぬときの様子のことです。人が死んで行く死に方のなかで、感動的な死に方というものがあるのは事実でしょう。インターネットで、「死に様」と検索してみました。すると、弁慶のことがすぐに出て来ました。主君、源義経を守って敵から飛んでくる矢を受けて、立ちながら死んだというお話があります。「弁慶の立ち往生」という言葉がありますが、立派な死に様というように言われるわけです。

 死の問題は、宗教や哲学の最大の究極の問題です。したがって、その宗教家や哲学者が、どのように死ぬことができるのか、できたのかによってその人の本当の部分、その偉大さということも判定される要素になるだろうと思います。ソクラテスの最期は有名です。悪法と濡れ衣によって死刑の判決を受けたとき、弟子たちは、ソクラテスを逃がそうとしました。ところが、彼は、弟子たちの前で、毒の杯を飲んで慫慂として死んで行ったと言われます。何より、お釈迦さまは、圧巻です。自分の死を悟って眠るように安らかに死んで行った、つまり、極楽の世界へ往ったと言われます。まさに大往生した姿です。いずれにしろ、どちらも死に様が見事であったと言われています。

 それなら、主イエスはどのような死に方、死に様をなさったのでしょうか。一言で言って、立派な死に様、死に方とは言い難いだろうと思います。いえ、これほど悲惨な死に方はかつてあっただろうかという、そのようなどん底の死に様と言っても言い過ぎではないと思います。確かに十字架刑は、歴史上、これ以上に肉体の苦しみを伴う処刑方法はないと言われています。そのような処刑であれば、苦しみのあまり声を挙げることも無理からぬことだと思います。しかし、ここで主イエスが大声で叫ばれたのは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という言葉した。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。マタイによる福音書は、この肉声をどうしてもそのままの音声で書き残しておきたかったのだと思います。強い、こだわりがあったはずです。そして、まさに私どもにとって、これは、一度、聞いたら忘れられない、聞き捨てることができないそのような発言、いへ、叫びだと思います。
 
 古来、イエスさまの十字架の上でのこの言葉についてさまざまな解釈が示されてまいりました。ある人は、こう理解しました。「イエスさまであっても、これほどまでの悲惨な人生の最後の中で、ご自身のご計画が挫折してしまって、信仰も破れ、ついに神を呪う言葉を、叫んでしまわれたのだ。残念な気持ちはあるけれども、やはり、人間なのだからしようがない。」「これほどまでに悲惨な目にあった人間は、歴史上、イエスさま以外におられない。苦しみと悲しみと絶望の中で頭も混乱し、薄らぐ意識のなかで、このような叫びを挙げられたのも致し方ないことだ。」

 しかし、これらはまったくの誤解です。主イエスは、あの十字架の上でご自身の父なる神を呪ってなどいません。何故なら、主イエスは、「エリ、エリ」つまり「わが神、わが神」お呼びになっておられるからです。いったい、神を呪う人が、「わたしの神、わたしの神」などと呼びかけるはずがありません。わたしの神と言う呼びかけの中に、明確な信仰が含まれています。「わが神」とは、信仰にもとづいた真剣で、切実な呼びかけです。

 ただし、この個所は、昔から解釈が難しいと言われてきた個所であることは事実です。今朝の招詞のプログラムにおいて、詩編第22編の冒頭の節をお読みしました。したがいまして、この十字架の上での主イエスの叫びとは、実は、詩編第22編と関わりがあるということは、どなたも理解していただけるかと思います。ですから、多くのキリスト者が、このように解釈するのです。主イエスは、あの十字架の上で本来、詩編第22編全部を詠まれたかったのだ、しかし、最後まで息が続かなかったのだというわけです。そして、冒頭の一句を詠みあげることをもって、詩編第22編における神賛美、神への信頼と感謝を捧げようとされたのだというのです。
確かに、詩編第22編の前半は、つまり「獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。」までは、神に見捨てられてしまったかのように苦しみの中を通らされる詩人の悲痛な叫び、嘆きが記されていると理解されます。しかし、後半「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。」からは、神賛美と信頼にみなぎる言葉が記されます。神がご自身の国を確立される栄光の日が来るという期待、希望と確信にみなぎっています。すべての人が主を認め、神のもとに立ち帰り、神の御前に礼拝するのです。すでに、亡くなった人たちもまた、復活させていただいて御前に身をかがめて礼拝するのです。詩人の魂もまた、その栄光の日には命を得て、また自分の子孫たちが神に奉仕し、主なる神を語り伝えるその幻を見るのです。まさに、信仰者の希望の極地、喜びの極地の事ごとが歌われています。ですから、主イエスさまが十字架の上で、この「エリ、エリ」「わが神、わが神」と叫ばれたのは、神への信仰を失って、神を疑い、神を呪い、絶望の叫びなどではまったくないことは、明らかです。

そうであればまた、主イエスの十字架の下にいた人々が「この人はエリヤを呼んでいる」と言ったのもまた誤解です。そもそも、エリヤとは、誰でしょうか。ユダヤ人は、エリヤのことをモーセ以降の預言者の中で最大級の信仰者と考えていました。旧約聖書列王記下に、エリヤは、生きたまま天に挙げられて行ったという記事があります。先ほどの大往生のことと比べて見ても、圧倒的な死に様です。いへ、エリヤの場合は、生きたまま天国に旅立ったというわけですから空前絶後の死に様です。それは、何を意味しているのか解釈は難しいですが、それほど神に近い人間であったということでしょう。そして、このエリヤは、キリストが来られるとき、もう一度、この地上に来て、そのキリストの行く道を整える仕事をすると考えられていました。マタイによる福音書でも、主イエスが山の上でそのお姿が光輝いたとき、実際に、モーセとともにエリヤがそこに立ち合ったという報告があります。つまり、「この人はエリヤを呼んでいる」と解釈した人は、イエスは、ここでエリヤが自分を助けてくれるだろうと期待しているのだという解釈をしてみせたのだと思います。まさに誤解です。何よりも、エリヤはおろか誰一人も助けに来てくれなかったのです。

さて、それなら私どもは、ここでどのようにこの叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を解釈すべきでしょうか。それは、決定的に重要なことです。主イエスは、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。これは、まさに、棄てられた者の叫びに他なりません。少なくともそのような自覚なしには叫べません。

人間誰しも、友人知人、家族から捨てられることほど、悲しくつらいことはないはずです。主イエスは今、3年余り寝食を共にして、愛し続けた12人の弟子たちから捨てられています。その一人のイスカリオテのユダからは、積極的な意味で裏切られました。他の11人も、結局は主を裏切りました。他の弟子たちも言わば同罪です。さらに言えば、主イエスがエルサレムに来られた時にホサナホサナと歓呼の声を挙げたユダヤの民衆、群衆もまた、主イエスを簡単に見捨てました。今や、すべての人たちが主イエス・キリストを見捨てたのです。「この男を守る価値なし」「この男を助けだす価値なし」と、断定したのです。「殺してしまえ」と憎しみ、叫んだのです。

しかし、父なる神だけは違います。誰一人として主イエスの味方になる人、主イエスを命をかけてでも守ろうとする人間がいない中で、ずっと励まし続けておられました。聖霊なる神は、孤独な裁判、でたらめな裁判を受ける中で、しっかりと主イエスを支えておられました。ところがです。何ということでしょうか。聖書は、告げます。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」真昼間にもかかわらず、暗くなりました。もとより、にわかに雨雲が立ち込めたのでしょう。ものすごく分厚い雲が太陽を隠してしまったのだろうと思います。しかし、マタイによる福音書がここで、もっとも告げたい真理がそこに秘められているのです。いったい、12時から3時の間、何がそこで起こっていたのでしょうか。実に恐るべきことが起こっていました。

これまでも主イエスの十字架に向かう悲しみの道、ビアドロローサの道の中で、身の毛がよだつような恐ろしい場面がありました。映画「パッション」で描き出された鞭で打たれたシーンは、鮮血がほとばしりました。正視に堪えがたい苦しみです。しかし、実は、それらをはるかに越える恐るべきこと、比較にならないほど恐ろしい刑罰が、淡々とそこで起こっていたのです。

それは、父なる神が御子の前から立ち去るということです。顔を背けるということです。これまで永遠の初めから共におられた父なる神がおられないのです。呼んでもお答えにならないのです。それは、神が拒否されたということです。マリアから人間としてお生まれ下さって、この地上のご生涯においても、「わが神」と絶対の信頼をもって仰ぎ、「天の父よ」と完全に従って歩み抜いた主イエスの父なる神さまが、なんと、御顔を隠してしまわれたのです。まさに完全な孤独です。主イエスが経験なさったことのないことがそこで起こっているのです。
永遠の神の御子と永遠の父なる神とは、永遠に交わりを持つ、生けるいのちの神です。ところが、この時、ついにこの交わりが壊れて行くのです。父なる神が、愛する御子をお捨てになられるのです。だからこそ、大地は暗くなるのです。神の御顔の光が、向けられなくなれば、世界はまさに暗黒です。そのようなことがここで起こり始めているわけです。

そしてついに、午後3時。この時、何が起こったのでしょうか。父なる神は、ただ見捨てるだけではなく、この御子の上に、全人類の罪をかぶせられます。全人類の罪の数々を載せられます。そして、正義の神、聖なる神がその正義、その聖さを、そのまま人となられた御子イエスさまに向かわれます。神の怒りが、神ののろいが、この人となられたイエスさまの上に落とされるのです。その瞬間、主イエスが絶命されます。決して、単なる出血多量が死の原因なのではありません。神の刑罰が、心と魂に下った時、その肉体も耐えかねて心臓が停止せざるを得なかったのです。

十字架の下では、ああ、肉体の痛みに耐えかねているのだろうと、死刑執行人の一人が、「酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようと」します。十字架につけてから6時間で死んでは足らないと思っているのです。普通ならもっと長い時間苦しんで死ぬのが十字架刑なのです。かわいそうだから、酸いぶどう酒を飲ませたのではなく、むしろ、正反対の暗い悪魔的気持ちからです。しかし、父なる神は、この御子を人間の手による死とはなさいません。そうではなく、ご自身の御手によって殺そうとなさるのです。それは、全人類の罪をそこで裁くためです。全人類を罪から救おうとして、父なる神は、永遠の愛の交わりの独り子を、お捨てになられるのです。 

ローマの信徒への手紙4章26節で使徒パウロはこのように言いました。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」さらに8章32節ではこう言います。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」「引き渡す」という言葉は、鍵になる言葉です。聖餐の礼典において、式文の中でいつも「引き渡された夜」と朗読いたします。それは、ユダが裏切って敵に引き渡された夜のことです。放棄する。捨てるのです。しかし、パウロは、そのような人間が引き渡したということの背後に、しかし本当に引き渡されたのは、父なる神だと言うのです。引き渡すとは、もともとの意味は、捨てるという意味があると言われます。まさに、父なる神は、御子をお捨てになられたのです。死へと捨てられたのです。その死とは、単なる肉体の死ではまったくありません。神の刑罰としての永遠の死、つまり滅びです。だからこそ、身の毛がよだつ恐るべきことがここで、あの十字架の上で行われたのです。全地が暗くなるはずです。

さて、私どもはこの十字架において起こっている出来事、起こった出来事から何を知ることができるのでしょうか。知るべきでしょうか。今朝もまた、私どもは人間の罪を思います。人間の罪というものが、いかなるものであるのかを思うのです。人間の罪深さの次元が、ここで遂に示されたということです。聖書は、創世記第3章において、人間の罪とは何かを、見事に描き出しました。神の御言葉を破ること。神のご意志に背くことです。自分を神にすることです。しかしその罪の実態が、どれほどのものであるのかが、遂に示されたのです。人間の罪、それは、神殺しの罪です。人間の原罪とは、神の御子を十字架で殺してしまうほど徹底したものであり、深刻で、深いものなのです。宗教的な感性が優れた人々、自分の「罪業」を徹底的に掘り下げて、反省した人たちは少なくありません。他の宗教でも、人間とは罪悪に染め上げられていること、業が深いこと、さまざまに言われます。しかし、イエスさまの十字架からみれば、なお薄っぺらの理解であると言わざるを得ないと思います。人間の罪深さとは、これほどまでに恐ろしいことを行うのです。

そして、同時に分かります。そのような罪に対する聖なる神、正しい神の怒りのすさまじさです。罪を罰するまことの神は、たとい御子であろうとも、人間の罪を負わせて裁かれる時、これほどまでの苦しみを味遭わなければならないということです。

しかし、神に感謝すべきです。この神の怒り、この神の呪いのすべては、私どもに向かったのではないからです。罪のない人、神の御子でいらっしゃりマリアから真の人間としてお生まれになられたイエスさまだけに、下ったからです。そして、この神の刑罰、神が言葉の正しい意味で、御子なるイエスさまを罪人としてお捨てになられたゆえに、もはや、私どもは決して神に見捨てられることがない者とされたということです。

キリスト教とは、本当に信じやすいと思います。しかし、同時に、本当に信じにくいとも思います。信じやすいキリスト教とは、十字架の刑罰なきキリスト教です。信じにくいキリスト教とは、十字架の刑罰を見つめるキリスト教です。つまり、じぶん自身の罪が、どれほど神の怒りを受けなければならないのかを、真剣に受け止めるキリスト教です。多くの人々は、もしかするとクリスチャンと言われる人々もまた、神の怒りと裁きのないキリスト教を求めているかもしれません。神の呪いを避けて、天国や神の救いや愛の世界に入ろうと思うのです。しかし、十字架の狭い門しかありません。この門は、イエスさまのあの叫びを、真剣に聴かないと入れないのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と主イエスが恐ろしい叫びを挙げられたのは、私の罪を償い、私の罪の代わりに苦しまれたことなのだと認める以外に、天国への一本道を進み行くことはできません。

しかし、それは同時に、この叫び声を聞いた私どもは、もはや、決してこれを自分の体験としなくてもよいという完全な救いを信じることができます。もはや、神に捨てられることは決してないのです。

御子イエスさまが捨てられたとき、同時に起こったことがあります。それは、永遠に滅びるべき私ども、罪人である故に神に捨てられるべき私どもが拾われたということです。詩編第22編の結びの言葉は、まさに、そのことを約束しています。「地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」要約すれば、あの十字架の上でイエスさまが神に捨てられた故に、主を信じる人が、神に立ち帰ることが可能となったのです。そればかりか、主イエスを信じる者たちは、イエスさまが成し遂げられた十字架の恵みの御業を喜びと感謝をもって、人々に告げ知らせるようになるのです。

神の御子が十字架で父なる神に捨てられたもうたおかげで、私ども罪人は父なる神に拾われました。神の子どもとして、受け入れられたのです。もはや、神が私どもに顔を背けること、怒りと呪いを注ぐことはなくなったのです。その幸いを今朝も、心の底から感謝しましょう。体も魂も、すべてをもちいて、主の御名を讃えましょう。自ら迷子となり、神から捨てられるべき者であった者が神の国に入らせて頂き、神の子の立場を与えられたことを感謝して、自分をもう一度、捧げ直しましょう。

祈祷
あなたの御子、私どもの主イエス・キリストを私どもの身代わりにして、十字架の上でお見捨てになられた父なる御神。私どもを神の子として拾い上げ、その暖かな赦しの愛のふところに抱いて下さる父なる御神。わたしどもの罪の重さを私どもは、十字架を知る前までは、なお軽く考えていました。しかし今、私どもの罪の恐ろしさを教えられました。どうぞ、神に反抗し、神に従わない罪をなお深く自覚させてください。そして、罪を憎んであなたへと立ち返り、救いの確信と喜びへと私どもを堅く支えて下さい。そして、神の子の幸いにあずかった者として、この福音の知らせを、詩編の預言どおりに、人々に告げ知らせる者として用いて下さい。