過去の投稿2013年5月28日

5月19日

★  本日、○○ちゃんの幼児洗礼入会式を挙行致します。2007年の○○君の復活祭、そして、聖霊降臨祭の○○君いらい、本当に久しぶりの祝福です。○○ちゃんに聖霊が豊かに注がれますように。そして、誓約された兄弟の上に、主の知恵と愛、信仰がいよいよ増し加えられ、信仰告白の日が備えられますように。

☆ 改正された【礼拝指針】における幼児洗礼についての項目から抜粋致します。
【第56条(親への勧め)牧師は親に対して、次のような義務を果たすような義務を果たすように勧める。即ち、 
1 ・子が神のみ言葉である聖書を読むように教え励ますこと
2 ・旧新約聖書にあるキリスト教教理を教えること、その際私たちの教会の信仰規準であるウェスト 
ミンスター信仰告白と大小教理問答および、参考としてハイデルベルク信仰問答書やジュネーブ教会信仰問答などを用いること
3 ・子と共に、子のために祈ること
4 ・子の前に信仰と生活の模範を示すこと                            
5 ・神の定められたあらゆる恵み手段を用い、主がしつけ諭されたように子を育てるように努めること。】

    1) 信仰教育における私どもの教会の伝統は、何と言っても「聖書教育」です。御言葉を教えることが土台です。子どもたちの家庭環境において、幼ければ幼いほど、御言葉が近くにあることが重要であり、有効です。キリスト者夫妻の家庭であれば、ある意味で、自然と聖書や御言葉が話題になるでしょう。その点、片親のキリスト者の場合は、特別の熱心と努力が求められるかもしれません。

    2) 聖書を教えることは、同時に聖書の教えである教理を教えることに他なりません。私どもの教会は、親も子どもも「子どもカテキズム」によって育てられてきました。この時点の礼拝指針には、記されていないのは当然ですが、現在、大会教育委員会が準備している「新・子どもカテキズム」をご期待ください。

 3) 子どもと共に祈る生活は、まさに幸いです。しかし「抵抗」なしにできるのは、小学生か中学前半までだと思います。それまでに、家庭礼拝(しばしば、母と子になりますが)で一緒に祈ることが大切です。先日、○○家を家内とお訪ねし、家庭礼拝の時を持ちました。わたしは、ぜひとも、他のご家庭ともそのようなときを持ちたいと願っています。声をかけて頂ければ、喜んでお訪ねさせていただきます。
     子のために祈ること、これは、契約の親のまさに誓約における最も基本的で、重要なことです。「祈り(涙)の子は滅びない」ということばがあります。教会の歴史の中で、語り継がれていることばです。親が子どもの救いのために涙を流して祈っていれば、その子は絶対に滅びない(主から離れない。救われる)。という確信です。御言葉の約束です。無数の証があります。とにかく、愛する子どもの救いを、祈り続ける人がいれば、その子が、主の恵みから切り離されることは、あり得ないことです。祈り続けましょう。

    4) 先週の男性の会では、伝道についての語りあいがなされました。家族伝道についても言及されました。わたし自身の証は、何度かしているつもりですが、求められました。わたし自身は家族、親族の初穂とされ、まことに神の恵みのみですが現時点で相馬家はみなキリスト者とされています。しかし、大学生から神学生までは本当に、家族が救われるのかと疑ったこともありました。しかし、結婚後、家内によって状況は大きく動き始めました。お互いの家族の救いのために、言わば、クロスするように用いられました。つまり、契約の子の救いということも、子どもたちはまさに親の「本音・本心」を見ています。親がこの世の価値観を優先しているのか、それとも信仰を第一にしているのか、大きくなればなるほど隠しようがありません。そこで、立派な親であれば、すばらしいのですが・・・。多くの現実は、わたしを含め、恥じ入るばかりと思います。主の憐れみにすがるのみです。そして、そのような時こそ、「クロス」です。教会の働き、子どもの教会の働き、教会の先輩、大人の存在(声かけ、交わり)、そして契約の子どうしの交わりです。自分だけで何とかしなければと「力む」必要はまったくありません。教会で育てましょう。ただし、繰り返しますが、家庭の信仰教育なしに結実をのぞむこと無責任といわざるを得ないでしょう。

    5) イエスさまこそが、親の模範であり子育ての鑑(かがみ)です。主イエスが、わが子を愛しておられるその御姿を、信じ、見つめましょう。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェソの信徒への手紙第6章4節)を、胸に刻みつつ。