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「完全な救い -今、何故、キリスト教?-」

「完全な救い -今、何故、キリスト教?-」
                2013年6月2日
マタイによる福音書第27章45~53節③

【さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。】

 この個所から学んで礼拝を捧げて、今朝で3回目となります。そして、どうしても後もう一回は、この箇所から学びたいと思っています。しかも、4回説教すれば、この十字架の上での主イエスの御業を語り尽くせるとも思えません。そんなことを、考えておりまして、すぐにある思いにたどり着いてしまいました。結局、教会の説教というのは、主イエスの十字架と説教を繰り返して語ることなのだという真理です。旧約も新約も、66巻の聖書全体が主イエスの十字架とご復活を指差している、証しているという真理です。私どもは、毎主日、ここで礼拝式を捧げています。それは、究極において十字架と復活において成し遂げられた神の救いの御業を賛美し、感謝するということに尽きるのです。マタイによる福音書による説教のすべては、結局、このテキストを目指していると言えるでしょう。その意味で、このテキストは、言わばマタイによる福音書の頂点になると言えるでしょう。

 さて、そもそも聖書は、旧約は主にヘブライ語で、新約はギリシャ語で記されています。現代は、聖書は、主要言語のすべてに翻訳されています。ほとんどの人々は、母国語で読めるようになっています。さらに、アフリカなどでは、今も、わずかの人々のために十数年もかけて、辞書をつくることから始めて、聖書を翻訳する学者たちの奉仕が続けられていると伺っています。

さて、しかし、本としての、つまり文字による記録としての聖書に限界があるとすれば、イエスさまの言わば「肉声」、生の声を聴かせることができないことです。2000年前に録音機も、ビデオカメラもありませんから、しかたのないことです。しかし、マタイ、マルコ、ルカによる福音書が、どうしてもこのイエスさまの御言葉だけは、その肉声を残したいと願った言葉があります。それが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」でした。これは、当時のユダヤ人が普段の生活で口にしていたアラム語だと言われます。とにかく、聖書の著者は、どうしてもこの肉声を保存しておきたかったのだと思います。それほどまでに、言わば特別にこの御言葉が大切なのだということが、ただこの事実からだけでも、想像できるだろうと思います。

 最初に、二回の説教のおさらいをしておきましょう。この主イエスの祈りは、イエスさまの言わば、オリジナルの祈りではありませんでした。これは、旧約の詩編第22編冒頭の祈りの言葉であると学びました。そして、この詩は、心からの神賛美であり、神への信頼の歌であることを確認しました。主イエスは、死に至るまで、十字架の死に至るまで父なる神を信じ続け、信頼しつづけ、従い続けてくださったということが、ここで明らかにされたわけです。イエスさまは、父なる神の御心をわきまえ、言わば喜んで、あるいは粛々と十字架へと赴かれ、ご自身を父なる神へと捧げて下さったのです。そこに私どもの救いの揺るがぬ土台があるわけです。万が一にも、イエスさまがいやいや、あるいは予想外のこととして、十字架で殺されてしまったとすれば、私どもの救いは、成り立ちません。旧約において予告されていた神の救いの御業を、イエスさまご自身が100パーセント受入れてくださったこと。父なる神の救いのご計画を完全に理解され、しかも今ご自身がその時が来たことをご理解なさったからこそ、逃げも隠れもされずに、十字架へと進んで行かれたのです。十字架の出来事は、決して、偶然の出来事でもアクシデントであったわけでもありません。すべてが、父と御子なる神のご計画どおりのみわざだったのです。

 第二のおさらいです。この叫び、それは、まさに恐ろしい魂の底からの叫びであるということでした。父なる神は、御子なる神、人となってくださったイエスさまを、あの十字架の上で完全にお見捨てになられたからです。それは、私ども人間の罪を、罪を犯したことの一度もない愛する御子に肩代わりさせるためでした。そのようにして、父なる神は私どもの罪を、イエスさまにおいて罰してくださったのです。イエスさまが、神に対して私どもが犯した罪への聖なる怒り、そして罪に対する正しい裁きを執行なさったのです。神は、本当に、イエスさまを捨ててしまわれたのでした。神に捨てられるという想像を絶する恐ろしい苦しみをイエスさまは味わわれました。その主イエスの本音、本心がこの叫びです。魂の深い痛み、苦しみ、恐怖から発せられた叫び声でもあるのです。万が一にも、父なる神が主イエスに言わば、手加減をお加えになられたとしたら、わたしどもはどうなっていたでしょうか。私どもの救いは、実現していません。おかしな想像ですが、もし、イエスさまが死んだふりをなさっておられたとか、本当は、イエスさまは父なる神からの怒りを受けてはおられなかった、見捨てられたわけでもなかったのだと考えるなら、私どもの救いは、成り立たなくなるはずです。何故なら、神の私ども罪人への怒りは、まだ残ったままになるからです。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』それは、十字架の上で、イエスさまが真実、心の底の底から絶叫された苦しみの叫びに他なりません。

 だからこそ、主イエスを信じる私どもは、もはや決して、神に捨てられることも、神から離れさせられて罪の中で滅びることもなくなったのです。父なる神のひとり子が捨てられることによって、私ども罪人が父なる神に拾われたのです。しかも、それは、神の子どもとして認知され、養子として受け入れられ、神の子どもとして、新しくされたのです。ですから、この恐るべき主イエスの叫びは、キリスト者にとっては、不思議な音色をたてはじめるのです。本当に、不思議でなりません。確かに色で言えば暗黒です。ところが、よく見ると、信仰をもって見つめていると、決して暗黒ではなく、光が放たれ、明るい色になるのです。音楽で言えば、確かに暗い短調のように聞こえます。ところが、よく聴いていると、信仰をもって聴く時、決して単なる短調で終わらずに、明るい長調へと転調する瞬間があるのです。

 ある人は、教会は何故、十字架を掲げるのだろうかと素朴に思われるかもしれません。何故、十字架にはりつけられたイエスを正面に掲げるのだろうか、十字架なんて敗北であって、すこしも楽しいことなんてないでしょう?と不思議に思われるかもしれません。しかし、主イエスを信じる人には、十字架こそ勝利であることを悟ることができるのです。しかも、十字架の勝利とは、単にイエスさまの勝利を意味していません。十字架の勝利とは、主の勝利だけではなく、信じるキリスト者の勝利であることも明らかにされたのです。

 主イエスを信じる私どもにとって、もはや絶体絶命のピンチなどありません。完全な絶望の世界、死の檻に他ならない墓の中に閉じ込められていた私どものその墓は、分厚い岩の扉で封印されていたその墓は、岩が裂けて、墓穴が開いてしまったのです。教会は、キリスト者ひとり一人は、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。・わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という主イエスの叫びによって、今朝も、勝利者とされた自分を、ここで再発見させていただけるのです。その幸いを心から感謝致します。その感謝が、私どもの主日礼拝式の心です。 

 さて、主イエスの十字架上の叫びは、主イエスのお心の底の底にある思い、まさに本心が現れ出ています。さて、人には誰にも知られたくない深い思いがあるだろうと思います。親しい人との会話を盗み聴かれたら、いやです。プライバシーが保たれない場所での生活は、人間にとっては過酷です。

 福音書には、父なる神と御子との間の会話が、わずかですが残されています。本来、イエスさまと父なる神さまとのまさに個人的な、プライベートな会話である祈りは、公開される必要はないのだと思います。ところが、福音書には、父なる神と御子なる神イエスさまとの間の、言わばプライベートな世界が明かされる場面があります。すぐに思い起こせるのは、十字架の前の夜のゲツセマネの園におけるイエスさまの祈りです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに。」本当は、聴いてはいけないような、まさに赤裸々な主イエスの祈りです。

しかし、わたしは、いったい、この十字架の上での叫びほど赤裸々な主イエスの祈りはないのではないかと思います。しかも、この十字架の上での祈りは、大勢の者たちが見ているのです。聴いているのです。小声で祈られたのではありません。50節で、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」とあります。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。・わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』の叫びは、たった一度の祈りでもなかったのです。

 そうであれば、この赤裸々な叫びは、父なる神と御子だけのものでは、「もはや、ない」ということを意味するはずです。それは、少なくとも聖書を読んだ者、この出来事を聞いた人たちに対して、オープンにされています。むしろ、イエスさまの心の内にある、その御思いを、信仰者である者たちには見せて頂けたのです。のぞかせていただけたのです。確かに、信仰のない方々でも、聖書を読めばこの個所を読みます。しかし、理解できません。この神秘は、キリスト者だから分かるのです。赤裸々な主のお心を、真実にのぞき見ることができるのは、キリスト者だけです。そうであれば、私どもはむしろ積極的に、この叫びの背後にある主イエスの御思いを、考えたいと思います。

あの叫びは、人類への、神の民への、教会への言わば宿題です。課題です。それは、これまでの学校や会社での経験から宿題と言われると、嫌な、マイナスの感じがするかもしれませんが、この宿題は、そうではありません。確かに、最初は、嫌な感じがするかもしれませんが、先ほど、申しましたように、必ず、逆転するのです。喜びと感謝と平和にひっくり返されます。

 さて、先ほどもおさらいした通り、あの十字架上の叫びが詩編第22編で予告されていたことでした。十字架は、旧約の成就なのです。中でも、創世記第22章1~19節に触れたいと思います。時間が許されれば、今朝、全部を朗読したいのですが、家に戻ってぜひ、丁寧にお読みください。そこには、アブラハムとその子イサクとの、驚くべきやりとりが克明に、しかも淡々と描き出されています。神は、アブラハムに、彼の子孫は、夜空に輝く星のように数えきれないほど恵まれる、イスラエルの民となると約束されました。ところが現実には、アブラハムは、妻サラとの間に子どもが恵まれませんでした。さまざまな出来事の後、アブラハムがついに100歳になったとき、長男イサクが与えられました。その意味で、彼にとってどれほどかわいく、大切な息子であったかを思います。何よりも、もしイサクが生まれなければ、イスラエル民族が存在しなくなってしまうわけですし、神の約束も空しくなってしまうわけですから、イサクという男の子、独り子の存在は、アブラハムの信仰にとって決定的な重みを持つ存在でした。

ところがです。神は、そのアブラハムに向かって、あり得ない命令を下されました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」なんとこの神からの約束にしるしそのものであるイサクを神に捧げてしまいなさい。はっきりと言えば、殺して捧げなさいというのです。人間の頭の中では、説明不能と思われるような要求です。今朝丁寧にお話できません。この神の要求に従えば、いくつもの重大な問題が生じてしまいます。もはや、アブラハムも何よりも妻のサラには、何をどう考えても、子どもを産む可能性はありません。そうすると、神ご自身が、サラとの間の子以外は、イスラエルとならない、神の民の子孫にならないと仰るのですから、神ご自身がご自身の計画を壊してしまう命令をなさったということです。さらに言えば、神が自分の子を、殺してしまうようにと要求なさるのは、どこをどう考えても、倫理上、許されない行為のはずです。愛といのちの神が、わが子を殺して、捧げてしまいなさいと要求するのなら、そのような神は信じるに足らない神になるでしょう。しかし、神は、事実それをお命じになられます。そして、まことに驚くべきことに、父であるアブラハムは、命じられる通りに、イサクと共に、モリヤの山に赴くのです。イサク自身は、何が起ころうとしているのか、知りませんでした。創世記を読んでみます。

「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。】

アブラハムは、命じられた通りにイサクを神にささげようと致します。しかし、神が天使を遣わしそれを阻まれます。そして、神ご自身が、一匹の雄羊を備えておられたのです。

極限の苦しみと信仰の戦いをアブラハムは経験させられたと思います。そして、そのことを通して、実は、父なる神がやがてご自身が十字架の上で成し遂げようとなさる御業を、他ならないこのアブラハムにそっと教えて下さったのです。しかも、大切なことは、父アブラハムは、自分の子どもに手をかけることはありませんでした。神が、父アブラハムが剣を振りかざしたその瞬間、留めさせました。アブラハムもイサクも、守られたのです。しかし、あの十字架において、父なる神はご自身の聖なる御手によって、愛するひとりの御子を、人間の罪の償いとして、贖いの代価として、御自らの手によって捧げて下さったのです。神ご自身が御子イエスさまを罰して下さり、その命を、ご自身の怒りをなだめるものとして受け入れて下さったのです。ここに救いの完全さがあります。神が、十字架の死を最初から最後まで導かれたのです。ご自身の完全なご支配のもと、人類の救いのために、その御業をなさったのです。その壮大な御業は、天地を創造なさったあの御業と比べることができるでしょうか。いえ、できません。あの十字架の上でなされたことは、天地創造から始まって、二度とあり得ないほどの神の神らしい御業、誰も真似することもできず、考えることも、実行することもできない神の御業です。そして、それは、2000年前に成し遂げられたのです。ですから、教会はどのような攻撃も迫害もものともしないで、この唯一の救いのメッセージ、福音を証するのです。

世界には、いろいろな宗教があります。そして様々な救いを提示しています。しかし、私どもを本当に罪から救い出し、神の裁きから救いだし、神の子として取り戻し、墓を打ち破って、永遠の命と喜びを与えてくれる、完全な救いはどこにあるのでしょうか。この十字架以外にありません。十字架で、父と御子が、私どものために苦しみ抜いてくださったおかげで、愛を極みまで貫いて下さったそのおかげで、私どもは、今生きることができるのです。救われたのです。これは、完璧な救いです。完全な救い、つまり罪の赦しが実現したのです。この十字架以外に救いを求める必要はないのです。ただ、このイエスさまの十字架における出来事を、感謝して、自分の罪を償うための御業であると、信じる、ただそれだけで、完全なる救いが与えられます。

 あのモリヤの山で、アブラハムは父なる神の御心をそっと覗かせて頂いたと思います。彼は、やがて父なる神がどれほどの苦しみを味わわれることになるかを、ほんのわずかであったかもしれませんが、のぞき見せて頂いたのです。しかし今朝、私どもは、あのときのアブラハムよりさらに深く、父なる神と主イエス・キリストのお心の底にある御思いを覗かせて頂けます。

今朝、わたしはこの一つのことを申します。あの叫びにおいて、主イエス・キリストは、こう願っていらっしゃったのです。「わたしの神よ、わたしがこのようにあなたに捨てられたことの意味、十字架の意味を、全人類が理解できるようにしてください。」主イエスが、十字架で叫び祈られたとき、主の御心は、やがて、父なる神さま、あなたの子どもたちが、この十字架の真下に、わたしのもとにかけ集まって来れるように導いて下さい、というものであったはずです。そして、十字架の上でイエスさまが祈られた祈りを聴いて、心打たれ、心砕かれて、自分の罪を認め、ひれ伏すことです。

そして実に、今朝もまた、まことにすばらしいことがここに実現しています。主イエスのあの叫びに込められた、父なる神への願いは、見事にここに実現している事実を見ることができるのです。それは、ここに名古屋岩の上教会が存在しているという事実です。私どもは今朝もまた、イエスさまのあの叫びと苦しみ、私どもの身代わりに神に捨てられたことによって、もはや、絶対に父なる神に捨てられることはなくなったことを確信するのです。イエスさまが私に代わって神に捨てられたのは、拾っていただくためだと確信するのです。だから、今朝も又、私どもは救い主のイエスさまの御名を唱え、主イエスを礼拝し、主イエス・キリストの父なる神を、わが神、私の天のお父様とお呼びして礼拝するのです。それができるのです。これ以上の幸いはほかにありません。感謝いたします。
いったいまことの救い、完全な救いはどこにあるのでしょうか。それは、ただ十字架にのみあります。キリスト教以外に救いはないということは、私どもの罪を赦す道は、十字架の御業以外にないということです。今、この救いの御業が成し遂げられた故に、主イエス・キリストはご自身の教会に、この救いの御業を信じるすべての者たちに聖餐の礼典を通して、いよいよ救いの恵みを注いで下さいます。

祈祷
父なる御神、私どもは昔、十字架の上で、何が行われていたのかを、表面だけでしか見れないとき、信仰者として救われることができませんでした。しかし、今は、違います。あなたの霊の導きによって、あなたの御苦しみの中に現れる私どもへの激しい愛を見つめることができます。そして、私どもの救いの完全さ、完璧な救いの事実を感謝し、喜ぶことができます。どうぞ、これからも主の叫びを聴き続け、あなたの御業と御心を見つめ、十字架の救いを証し、この救いの恵みの実りとしてのキリスト者である自分自身と教会の形成のために全身全霊で励むことによって、あなたに感謝を現わす者とならせて下さい。