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「墓を打ち破る十字架」

墓を打ち破る十字架」
                2013年6月30日
マタイによる福音書第27章45~53節④
【さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。】

 先週まで三週連続して伝道礼拝式として捧げました。今朝は、久しぶりにマタイによる福音書の講解説教によって礼拝式を捧げます。思い起こせば、この個所から学んで礼拝を捧げるのは、今朝で4回目となります。今朝は、51節から53節に集中して学びたいと思います。

「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」先週は、教会はまったく初めてという方のために、一回で福音の真理を語りきることを目指して、主題説教を行いました。しかし今朝、この個所を学びます。ある感慨を思います。何故ならこの個所は、おそらく聖書の解釈の中でも最も難しいと言われている個所だからです。ある人は、この一句を取り上げて、だから聖書には、偽りが記されていると断言します。だから聖書は、読むに足りないとまで言います。墓の中に納められていた多くの死体が、まるでホラー映画のゾンビのように復活したなどということは、あり得るわけがないというのです。

確かに、もしこれが、いわゆる歴史的事実であれば、まさに空前絶後の大事件です。世間的な関心から言えば、復活したと言うその人たちに、「あなたは、何年前に亡くなったのですか、数日ですか、数年前ですか」とインタビューしたくなるかもしれません。「死後の世界はどうでしたか」と聞きたくなるでしょう。さらに、その後、彼らがどのように暮らしたのか、興味は尽きないと思います。これがもし歴史的事実であれば、どこかの文書にも記録されている可能性が高いはずです。ちなみに、当時の歴史家のヨセフスが記した有名な「ユダヤ戦記」には、イエスさまのことやキリスト者の記述は遺されています。しかし、このことについての記述はありません。そもそも、新約聖書のなかで、マタイによる福音書以外には、一言の言及もありません。いったいこの記述は、何を意味しているのでしょうか。

いよいよ、マタイによる福音書講解説教も終わりが見えてまいりました。ここで改めて、福音書の目的について確認してみましょう。マタイは、主イエスの説教、そしてお働きをここに記しました。そして、その頂点として十字架とご復活の出来事を記しました。この十字架とご復活こそ、主イエスのこれまでのすべての説教と御業が目指した出来事でした。これまでの神の国の説教も神の国がここに始まっていることを証するすべてのお働きも、十字架とご復活に根拠をもっているということを明らかにしようとしているわけです。福音書の著者たちに共通しているのは、主イエスの福音は、十字架とご復活に根ざしたものであるということです。私どもがこの個所を一回で説くことができず、何度も、来週もまたここから学ぼうとしていますが、それは、まさに福音書の頂点を扱っているからにほかなりません。主イエスの十字架の御苦しみ、死の事実の意味を解明するためです。

さて、今朝の週報の牧会通信にも記していますが、わたしは、最近、日本の近代小説を切り開いた明治時代の
作家である二葉亭四迷の「浮雲」を読みました。この小説を書いたのは、二葉亭四迷が23歳の時だと言います。江戸時代からわずか数十年、この時代の日本人は、これほどまでに優れた言葉の感覚を養っていたことに、心底驚かされました。いったい、21世紀の日本でこのような文章そして文学を書く人、しかも20代で書ける人が出て来るのかと思ってしまいました。何故、そのようなことを思ったのかと言いますと、一つには、文学とは、その作品の読者に、ある言語レベル、ある教養を求めているからだと思うからです。何故、このようなことを説教で扱うのかと申しますと、聖書を読む時にも、当然、同じことがあると思われるからです。つまり、マタイによる福音書が第一世紀の読者に語った真理が、今日の読者、しかも日本の読者にどれほど理解されるのか、むしろ、誤解されることがどれほど多いのかという問題です。私は、それは、2000年前の著者マタイの責任ではないと思います。むしろ、今日の我々の文学的理解力、想像力の責任、問題だと思います。我々は、2000年前の人たちと比べて余りにも劣ってしまったからだと思うのです。

マタイによる福音書のこの記述、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」これは要するに、著者が目の前にいる読者、それは、キリスト者たちでしたが、彼らにもっとも有効で、ふさわしい表現は、どのようなものであるのかを考えに考え抜いた結果のものであるということです。これは、当たり前のことですが、そこに聖霊なる神が働かれ、著者を完璧に導かれました。そしてマタイによる福音書は、この記述の直前までは徹底して、ただ事実のみを伝えよう、歴史的事実のみを報告しようとこだわっていました。ところがここで突然、誰がどう考えても、歴史的な事実ではないであろうことを書くのです。何故でしょうか。この大いなるギャップ、ここに著者のレトリークがあり、目的があるのです。そうであれば、私どもは、この記述の前に、きちんと襟を正し、正座するかのように向き合うべきです。

さて、改めて問います。マタイによる福音書は、ここで何を伝えようとしているのでしょうか。先ず、マタイもマルコもルカによる福音書も声を揃えて、共通して報告した出来事に注目しましょう。それは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たということです。このことは、確認できる事実だと思います。しかし、何故、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けてしまったということが、わざわざ声を揃えて記されるほど重要なのでしょうか。ちなみに、この教会堂は、先月、シロアリ駆除をして、相当の出費を強いられてしまいました。しかし、この事実と、私どもの救いとは何の関係もありません。しかし、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たことは、そうではありません。それは、偶然ではありません。神の御業だったのです。そして、そこに霊的な、信仰における決定的な意味があったのです。つまり、その出来事の中には、キリストの十字架の意味を明らかにするメッセージが込められていたからです。神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたということ、その垂れ幕とは、仕切りの意味です。年にただ一度、しかも大祭司だけが、そこに入って贖罪の儀式をなす聖なる場所のなかでも至聖所と言われる場所、聖所の間に仕切りとして掛けられていた垂れ幕のことです。確かに神殿、聖所の中は、男性のユダヤ人なら入ることができます。しかし、至聖所には入れません。女性や異邦人であれば、神殿内に入れません。境内の外から、覗き見ることすらできませんでした。主イエスが十字架で死なれた瞬間、今や、その隔たり、仕切りは、消滅しました。今や、ユダヤ人とは縁もゆかりもまったくない異邦人である私どもにも、救いの扉が開かれたのです。つまり、ユダヤ人もそうでない人も、男性も女性も、大人も子どもも、誰でも十字架につけられたイエスさまを信じるなら、神さまに近づくことができます。神さまとの間にある隔ての幕は切り裂かれ、神さまとの間にある壁は崩されるのです。しかも、神との間の幕が取り除かれたとき、人間どうしを隔てる幕もまた、取り除かれるのです。こうして、世界の中に、キリストを信じる新しい民、新しいイスラエルが生まれたのです。まさに、十字架で死なれて、神殿の幕が切り裂かれたとき、地上にキリストの教会が新しく建てられること、それがここで定まったわけです。全人類の救いの道が開通したのです。先週の説教の十字架の縦の線と横の線を思いだして下されば幸いです。天と地が繋がり、神さまと罪人たちが繋がり、ユダヤ人と私ども異邦人とが繋がったのです。それが、十字架で起こった出来事なのです。

さて、ところがマタイによる福音書だけは、この事実から一挙に、こう続きます。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」マタイは、この記述によって、十字架の驚くべき事実と何よりもその意味を、さらに掘り下げるようとしているのです。
いったいここでの「墓」とは、何を意味するのでしょうか。墓に納められるのは、遺体です。ご遺体です。生きている人を墓に納めたら、それは殺人になります。墓とは、光のない世界、闇の世界、つまり死の世界の象徴です。その墓が開かれたのは、主イエスが十字架で死なれた瞬間だったというのです。
それなら、「墓が開かれた」とは、聖なる者たちの体が生き返ったとは、何を意味するのでしょうか。
先日の祈祷会で、ヨハネによる福音書のラザロの復活を学びました。まだまだ、この個所の学びは続きます。ラザロとは、主イエスの愛しておられたマルタ、マリアの兄弟です。彼は、病気によって急死してしまいました。マルタやマリアは、それはそれは、悲しみました。そして、主イエスは、死後四日も経ってしまったラザロを生き返らせて下さったのです。これは、ヨハネによる福音書にしか記されていない驚くべき奇跡です。マタイによる福音書は、ここであるこだわりをもって、墓が開かれたという記述して、伝えたいメッセージを込めています。ヨハネによる福音書もまた、このラザロの復活の出来事によってこだわりのメッセージを記したと言えるでしょう。そして、大切なことは、二人が報告している物語は、まったく別のものですが、結局、同じ一つの真理を証しているということです。主イエスは、ラザロの姉のマルタに、このように声を掛けられました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」大変、不思議な表現です。ごく短く、説明します。主イエスご自身が復活のいのちそのものでいらっしゃいます。そのイエスさまを信じるそのとき、霊的に死んでいる、神との関係においてはまさに死んでいる、墓に納められたような者でも、永遠のいのちを受けて、まことのいのちを生きることができるという宣言です。確かに、肉体の生命がある今ここで、主イエスを信じる人は、もとよりやがて肉体の死を死ぬことになります。しかしそれは、永遠の滅び、霊的な死を死ぬことではないのです。つまり、主イエスを信じたその瞬間に、神との関係においては永遠の命を受け、永遠に生きる者と変えられたということです。

 もとに戻ります。マタイによる福音書のこの個所が言おうとした真理、福音もまた、実は、ヨハネによる福音書のラザロ物語と同じ真理なのです。いったい主イエスが十字架で死なれたその瞬間、この世界に何が起こったのでしょうか。それは、主イエスを信じた人たち、信じる人たち、神さまの選ばれていた民に永遠の命がもたらされたという驚くべき事実です。つまり、主イエスを信じた人たちは、すべて墓から呼び戻されたということです。つまり、死の世界から命の世界へと移されたということです。暗闇の場所から神の愛といのちの光溢れる場所へと、移されたのです。驚くべき救い、本物の救い、まことの救いが十字架の上で成就したのです。つまり、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」ということは、十字架によって、霊的に死んでいた人たちが、墓を開かれ、生き返ることが起こったということです。十字架の目的、力とは、墓を打ち破るものだということです。そうであれば、この記事は、まさに歴史的な事実そのものです。他の新約とも何も矛盾しません。事実、ここにいる私どもにおいてもまた、この出来事は成就したのです。

 私どもは今朝、この教会堂に入って来ました。それは、「墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」ということと見事に重なります。私どもは聖なる礼拝堂に入り、神を賛美し、礼拝しています。つまり、私どもは既にキリストの十字架の恵みにあずかって復活の命を生きている、生かされているのです。七転び八起きどころの騒ぎではありません、何度、転んでも、その度に立ち上がる力、復活のいのちの力を上から与えられたのです。父なる神と主イエスから注がれる聖霊によって、復活の命、永遠の命にあずかり、生かされているのです。私どもは、今、永遠の命を地上にあって生きています。復活のいのちを注がれて、生活しているのです。とりわけ、今朝は日曜日、主日です。主の日の度に、私どもは新しい神の家、神殿である教会の礼拝式に招かれ、ここで永遠の命を注がれているわけです。

エフェソの信徒への手紙第2章にこうあります。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」ここで使徒パウロは、自分たちのことを「罪のために死んでいた」と表現します。主イエスから離れ、自己中心に生きるとき、人間はその罪のために死んでいるのです。神との正しい関係を失って霊的に死んでいるのです。つまり、罪人のままであるということは、墓に入っているということです。しかし、十字架についてご復活されたイエスさまを信じるときに、私どもの罪が赦されます。つまり、神との正しい関係に戻して頂けます。つまり、復活でありいのちでいらっしゃる主イエスと共に生かされ、復活させられるのです。

さて、私どもは、これまで人類共通の墓、神との関係において死んでいる、霊的に死んでいる問題からの根本的な救いについて学びました。しかし最後に、個人的な墓の課題についても、触れたいと思います。先ほどご紹介させていただきました小説「浮雲」で扱われた人生問題は、このようなものでした。学校を出て、明治新政府の官僚となって職場の上司、課長に上手く取り入って着実に出世を果たして行く同僚の昇。能力においては、少しも引けを取らないのに、自分のプライドや良心にこだわって、課長のご機嫌をとることができずに、ついに職まで失ってしまった主人公の文三。さらに、恋心を抱いている女性までも、同僚に奪い取られそうになってしまうのです。優れた小説とは、人間の普遍的な、人生問題に正面から取り組みます。人間の真理や課題を切り取って提示するとき、どうしても物語、文学が必要になると思います。その意味で、文学の力や可能性はどれほど大きいものかと思います。しかし、小説のなかには、その解決に至る道筋どころか解決した話もまったくありません。不可能だからです。

実は、わたしは、キリスト者になる前、高校生のときには、自分で言うのもおこがましいのですが、時間があれば、小説やその他の書物をむさぼり読んでいました。しかし、キリスト者になってから、パタリとなくなってしまいました。その是非は、今、申し上げる暇はありません。先ほど、申しましたように文学の力と価値を否定する思いはまったくありません。しかし、事実、読まなくなってしまったのです。その理由を、簡単に言えば、いささか乱暴に言えば、救われたからです。その解決方法を、聖書によって、主イエス・キリストによって教えられたからです。つまり、わたしの個人的な墓もまた、主イエスによって開かれたからです。あのときのわたしの墓、それは、文三の問題とも重なるものでした。上手く生きて行ける人になりたい。ただし、そのために倫理の課題などまったく頓着しないのであれば、生きている価値も意味もないではないかと思う自分。

私が、まだ神さまを知らない時、父なる神の御心の現れでいらっしゃる主イエス・キリストを信じることができなかったときには、結局、自分というどうにも頼りにならないものを絶対化して生きる生き方以外に知りませんでした。もっとも頼りない自分じしんを生き方の軸にしたり、自分の人生を自分という土台に据えるという今から思えば、まったく滑稽で愚かなあり方しか知りませんでした。一番、不確かで、迷いやすい、自分を信じて生きるという、実に、堂々巡りの生き方、同じところをぐるぐる回る生き方しか知りませんでした。こうして、当然ながら時代の風、この世の価値観に右に吹かれ、左に吹かれ、右往左往する以外になかったのです。そこから脱出する方法、解決の道は、あるのでしょうか。それは、自分を中心にするあり方を止めることです。自分や隣人、この水平の世界、人間のぎくしゃくしている世界から、目を上に向けることです。垂直の世界へと突き抜けることです。十字架に架けられた主イエスを仰ぎ見ることです。ご復活され今天に戻られたキリストを信じることです。

誰でも、主イエスを信じるなら、墓の蓋は上に開かれます。信じるそのとき、墓の蓋は上に開かれていることを知ることができます。わたしもまた、あの時から、今日まで開かれ続けています。確かに、その後もたびたび、墓の中に閉じ込められてしまったかのような体験もしました。しかし、すぐに信仰の眼を、父なる神の愛の御心にむけることができるようになりました。日曜日に礼拝する幸いにあずかり続けたからです。教会の集会、交わりにいつも生きることができたからです。そのとき、先週学びました、あの「神からのアーメン」の声、その圧倒的な肯定の響き、あるがままの自分を愛してくださる父なる神の愛の御声が聞こえて来るのです。そのとき、現状は何も変わっていなくても、かつてのような不安と恐れから解放されるのです。キリスト者は、そのような経験を重ねることができるのです

どうぞ今朝、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方は、あなたの墓は開かれていることを信じて下さい。そのために、主イエスの十字架とご復活を信じることです。そのとき、墓が開かれたことに気づけるのです。既に、復活のいのちを受けたキリスト者たちは、今朝、もう一度、心を上に挙げ、神に挙げて、この世のまとわりつく思い煩い、死の世界からジャンプさせて頂きましょう。主の日の礼拝式を目指して、祈祷会や学びと祈りのときを大切に歩み続けましょう。

祈祷
私どもの罪を赦し、死と滅びから贖いだしてくださいました主イエス・キリストの父なる御神。御子の十字架の死のおかげで、私どもは究極の救いだけではなく、生活のなかでの小さな悩み、苦しみからも脱出する道が開かれました。墓は開き、私どもは自分という頼りなきものから、死といのちの君、王、絶対者でいらっしゃるあなたに頼ること、あなたに根を下ろすことができます。この揺るぎなき土台の上に、今週も、日々の暮らしを歩むことが許されています幸いを心から感謝致します。どうぞ、私どもを常に、墓から取り戻してください。そして、その私どもを隣人の救いの為に豊かに用いてください。アーメン。