過去の投稿2013年7月1日

6月30日

★  今朝の説教にも、かかわりますが、キリスト者となってから、ほとんど小説を読まなくなってしまいました。高校生の頃は、一週間に最低一冊は、岩波とか新潮とかの文庫を読んでいたのですが。こうして今、世界的に名が知られている村上春樹氏の小説すら、恥ずかしながらきちんと読んだことがありませんでした。しかし、新作「色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年」を読了しました。はじめは本屋さんで、いつものようにちらりと立ち読みしてみました。すると、この物語が名古屋をベースにしていること、また、わたしも関わっている学校も記されてありました。かなりの時間、立ち読みしました。しかし、読み通せません。ついに、止められなくなり、本屋で新品を買い求めました。時間の合間を縫いながら、楽しんで読了しました。その後、この事を機に、友人の牧師から「日本語が亡びるとき」という書物を紹介され、ネットで古本を買い求めました。読了後、すぐに、ブックオフにて、今日の説教でも紹介した明治の作家、二葉亭四迷の「浮雲」を読むことになってしまいました。これは、日本文学史上必ず、紹介される書物です。受験知識のようなものとしては知っていましたが、初めて読みました。そして今、もう一度、夏目漱石を読みなおしたいとの思いに駆られています。村上氏からも何よりも二葉亭氏からも、文学の力を改めて確認させていただきました。「浮雲」を発表したのは、なんと23歳の時だと言います。唖然とします。この時代の日本人は、若くしてこれほどまでに優れた言葉の感覚を養っていたのでしょうか。21世紀。はたして、このような文章そして文学を書く人が出て来るのかと思えば、極めて困難かと思います。理由の一つに、文学とは、それを読む読者のある知識、教養のレベルを求めているからです。今の日本は、明治の20年代と比べるとき、学校教育、高等教育を受ける子どもたちの人数は圧倒的に多くなっています。ただし、学校教育が、その名にふさわしい影響を及ぼせたかと言えば、いかがでしょうか。今、漱石や鴎外のような小説家は、久しく見当たらないのではないでしょうか。そしてそれは、今日、聖書を読もうとする熱意が、明治、大正、昭和の人々のそれと比べられないほど失せてしまっている状況に重なるようにも思います。(もとより、それは、教会の伝道力の衰退こそ、課題にすべきでしょうが。)さて今、牧師として、これまでの読書生活の貧弱をしみじみ恥じます。「専門書」で手一杯・・・。確かにそうです。しかし、伝道を本務とする者として、反省を迫られています。

☆  伝道月間が終わりました。先週は、読書会で「伝道」についてあらためて皆さまと学び、懇談しました。「神の国の福音の伝道」、それは、「教会の存在理由」であると確認しました。ディアコニア(奉仕)は、教会の使命です。キリスト者ひとり一人が奉仕へと呼び出されています。しかし、伝道は、キリスト者の存在そのものに直接かかわる事柄です。
    伝道には、二つに分けて考えられると思います。御言葉の種まき(御言葉の宣言)としての伝道です。これは、キリスト者の誰にも求められる務め、教会の存在理由です。もう一つは、伝道によって信仰告白者、洗礼入会者を主に導くことです。しかしこれは、聖霊のお働きによる以外に、何をどうしても、キリスト者が自分の力でなすことはできません。もとより、両者とも聖霊の導きと奉仕者の修錬が求められています。
   教会の伝道によって、信者を獲得することも、神の国を完成させることもできません。そもそも、信者獲得の発想は、この世の宗教団体や会社組織と同じ発想です。信者(神の民)は、神が選んでおられ、備えておられます。また、神の国は、キリストの再臨なしに完成されません。
  「伝道的人格」、これは、わたしの造語です。私どもの生き方、人格、存在そのものがキリストの香りを放つ者として用いて下さい、愛と喜びに溢れる、アーメンを告げる祝福の器と整えて下さいと共に祈りましょう。