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「主イエスに向く人の幸い」

主イエスに向く人の幸い」
 2013年8月4日
マタイによる福音書第28章1~10節①
【さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」】

ついにマタイによる福音書の第28章、最後の章に入ります。主イエスのご復活を証する物語が記されています。何回かにわけて、この復活物語から御言葉を学び、復活され今ここに聖霊においてご臨在しておられる主イエス・キリストを仰ぎ、礼拝を捧げましょう。

私どもはこれまで、マタイによる福音書を読んでまいりまして、主イエスのまわりには常に12人の弟子たちが共なっていたことを知っています。ところが、肝心要の時、まさにイザ鎌倉というそのときに、彼らの姿が見当たりません。弟子たちは、主を見捨ててしまったのです。しかし、マタイによる福音書は、証言します。主が十字架につけられたそのとき、女性の弟子たちが大勢見守っていたというのです。

さて、今朝は、先ず、最初の登場人物の二人に注目します。「マグダラのマリアともう一人のマリア」です。マグダラのマリアとは、マグダラという町に住む、かつて重い病を主イエスに癒していただいた女性です。その時以来、主イエスにつき従って歩んだ多くの女性の弟子たちのひとりとなりました。次に、「もう一人のマリア」です。著者マタイが、このような言い方で、誰のことを、何を暗示しようとしたのかは正確には分かりません。他の福音書と読み合わせてみますと、おそらく、12弟子のヤコブとヨセフの母であるマリアのことだろうと思われます。

さてそれなら、何故、彼女たちは、主の復活の第一の証人となることができたのでしょうか。第27章61節に注目しましょう。「岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」主イエスのご遺体が納められた墓の方、つまり、主イエスに向いて座っていたからです。彼女たちは、死なれたイエスさまから離れようとしなかったのです。彼女たちは、安息日を守らなかった人たちだから、そこに居残り続けようとしたわけではありません。あるいは、彼女たちは、愛するイエスさまの死の事実に打ちのめされて、立ち上がる気力すら失っていたから、墓に向き合っていたのでもありません。その理由は、ただ一つです。彼女たちがしっかりと主イエスの約束、予告の御言葉を聴いていたからです。

ただし、もし聞くということだけなら、むしろ12弟子の方が圧倒的に有利だったはずです。彼らもまた、聞いたハズです。しっかり聞いたからこそ、ペトロは、最初にそれを聴いたあの時のことを、忘れたことはなかったはずです。第16章です。主イエスはペトロに向かって、「あなたは岩だ。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てるのだ」と宣言されました。そして、ただちに、こう語られました。「そのために、わたしはエルサレムに行って、指導者たち、権力者たちから殺され、三日目に復活することになっているのだ」ところがペトロはただちに、「主よ。とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と主イエスを諌めたのでした。ペトロも、主の苦難と死、ご復活のことは、聞いているのです。一回や二回、三回どころではなかったはずです。何年も行動を共にしているのです。ところがそれにもかかわらず、彼らは理解できなかったのです。

実は、聖書の真理において、理解できないことこそ、もっとも大切な真理なのです。自分にとって難しいと思う真理こそ、もっとも大切でかけがえのない福音なのです。もしも聖書から、単なる人生訓だとか生き方を学んで、聖書は、すばらしい本だと感動したとしても、それでは結局信仰には導かれません。ところが、復活の主イエスにお会いいただく前の彼らは、まさに自分が理解できるイエスさまだけを理解した、わかったと思って喜んだのです。ついには、自分のその信仰は、誰にも負けないなどとうぬぼれることとなってしまったのです。まさに自分の信仰になってしまったということです。つまり、神が与えて下さった信仰ではないということです。自分勝手な信仰、神理解、イエスさま理解のことです。

  しかし、少なくとも、マグダラのマリアたちは、主イエスが三日目に復活することを信じ、そこに希望、期待を置いていたのです。だからこそ、主イエスに向き合ったのです。だからこそ、安息日が終わろうとするのを待ちかねて、主イエスの墓に駆け付けたのです。

さて、それならいったいどうしたら、私どもは、まことの信仰へと導かれ、信仰が成長するためにどうしたらよいのでしょうか。信仰の成長とは、キリスト者とにとっては、人間として成長するということに他なりません。そのために、絶対に外せないまさに急所になる聖書の真理は、あるいは信仰の秘訣は、どこにあるのでしょうか。使徒パウロは、それをⅡコリントの信徒への手紙第3章14節以下で、見事に言い当てています。「今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

パウロは、この言葉をユダヤ教の人々のことを想定して書いているわけです。しかし、今日、旧約を熱心に読んでいる人々は少なくありません。イスラームの宗教もあります。彼らはコーランだけではなく旧約をも読んでいるハズです。しかし、どれほど旧約を読んでも、モーセの書が朗読されても、彼らの心には覆いが掛かっています。それは、使徒パウロ自身のまさに経験だったのです。パウロは、キリスト教会を迫害している最中に、ダマスコの町に向かう途上で、復活のイエスさまにお会いしました。そのとき、彼は、目からうろこが落ちて、信仰の真理が理解できたのです。今、パウロは、コリント教会が混乱してしまった原因を、主イエスから目をそらしたことに見ているのです。見抜いたのです。

先週、聖餐の礼典の恵みを学びました。そのことと、まったく同じです。つまり、十字架とご復活されたイエスさまに目を注ぐこと、主イエスに向き合うこと、これが信仰のスタートであり、信仰生活そのものであり、ゴールでもあるのです。主イエスに向く人、その人こそ、幸いな人です。主イエスに向く人こそが救われるのです。そして、その模範として、復活前には、まったくわずかの人でしかなかったのですが、ここに登場するマリアたちがいます。彼女たちの存在は、私どもにとっても大きな励ましです。そして、主イエスにとっては、どれほどの励ましであり、喜びであったかと思います。父なる神にとってどれほど大きな喜びであったか、計り知れないと思います。まさに、主イエスに顔をまっすぐに向ける人、主イエスに向き合う人は、幸いなのです。

さて、しかし、今朝の説教はここで終わりません。むしろ、ここからが今朝、おそらく私どもがもっとも聴きたい福音かと思います。今朝の物語を読みながら、わたしの中にある違和感のようなものを持ちました。それは、これほどまでに立派で、すばらしい女性たちに対して、イエスさまにどこか冷たいものを感じてしまったからです。
天使は、婦人たちに言います。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
そこで彼女たちは、すぐに墓から出てきて、弟子たちのところに急ぐのです。そして、ついにその途上、ご復活されたイエスさまが、彼女たちにお姿を見せて、「おはよう」と挨拶されます。彼女たちは、主イエスに近寄ります。そして、主イエスさまの足を抱いて、ひれ伏すのです。これは、礼拝するということです。ところが、そこで主イエスは、深く喜んでいらっしゃるはずなのに、ただちに、使命を果たすようにと、天使たちの命令を繰り返されたのです。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」ここに、わたしの少しの違和感があるのです。つまり、「イエスさま、もう少し、彼女たちの愛と信仰、献身をおほめ下さってもよいのにな、もう少し、いたわられてもよいのにな」と言う思いです。

  何故、主イエスは、彼女たちに、弟子たちのところへ急ぐように促されたのでしょうか。実は、主イエスが、このとき、もっとも心を痛められ、それだけにもっとも案じておられたのは、実は、立派な信仰者、模範的な信仰者のマリアたちより、むしろ、主イエスを見捨て、逃げ出した不信仰な12人の弟子たちだったからです。人間的に考えれば、逆ではないでしょうか。自分が手塩にかけて弟子たちが裏切って、役に立たなくて、女性の弟子たちこそ誠実な、真実な愛に生き抜いているのです。だったら、彼女たちこそ、ゆっくりとご自身との交わりを喜び、楽しませ、ねぎらってくださったらと思うのが普通ではないでしょうか。しかし、イエスさまは、裏切りの弟子たちをこのように呼ばれます。「わたしの兄弟たち」この一言で、もう、すべてが分かってしまいます。主イエスは、これも人間的な表現ですが、弟子たちのだらしなさを根に持っていません。完全に、赦しておられます。むしろ、裏切った弟子たちをこそ赦し、救って、神の子として、永遠のいのちの祝福にあずからせてあげたくて仕方がないのです。そのような思いに満ち溢れていらっしゃるのです。そのために、彼女たちを走らせます。そして、ご自身は先回りをするためにガリラヤに行くのです。

ガリラヤとは、主イエスと弟子たちとが最初に会った場所です。信仰のスタート地点です。そのスタート地点で、やり直させたいのです。何故なら、主イエスはそれがお出来になると信じておられるからです。そして、主は見事に彼らを立ち上がらせられるのです。そして、まさに、それを復活と言うのです。弟子たち自身が主のご復活に巻き込まれ、今ここで、あずからせていただくのです。その復活は、主の再臨のとき、世の終わりのときの復活のこととは別です。この復活は、第27章52節以下のことが、弟子たちに起こったということに他なりません。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」これは、弟子たちの体験がまさに反映している言葉です。主イエスが十字架で死なれたことによって、弟子たちの罪は贖われ、赦されたということです。こうして彼らは、本当の弟子、使徒とされて行くのです。

 これは、まさに、マタイによる福音書の著者自身の体験でもあるのです。マタイは、この素晴らしい福音書の著者となりました。しかし、彼もまた逃げた弟子のひとりです。しかし、ご復活された主イエスが、どれほどの思いで、自分を主イエスの兄弟と呼んでくださり、ねんごろなもてなし、交わりをもってくださったかを、身を持って体験させていただいたのです。彼は、まさにぼろぼろに傷ついて、弟子どころか、これから人間として生きて行くことすらままならなかった状態だったと思います。しかし、復活の主イエスは、彼らを牧会なさるのです。労り、慰め、起こして行かれるのです。これがイエスさまです。ここに愛があります。これが、主の赦し、福音なのです。

 ペトロこそ、その筆頭でしょう。彼は、主イエスが逮捕された後、大祭司の中庭までついて行きます。最高法院での裁判を盗み見ようとするのです。おそらく、彼は、こう考えていたと思います。イエスさまは、ギリギリ、最後の最後のところで、これまでのようにまさに神の子らしい大どんでん返し、奇跡をもって、ご自身の神の子の力、キリストであることを証明する超自然的な力を行使なさるのだと考え、期待していたのだろうと思います。ところが、遂に、何も起こらなかったそのとき、彼は、まさに信仰に躓きました。もう、何が何だか分からなくなってしまったのだろうと思います。暗い淵に落ち込みました。それだから、彼は、「こんな男は知らない」と、呪いを込めて、主イエスを否定してしまったのです。これは、ペトロにとって真実な言葉だっただろうと思います。「こんな情けない男は、私が知っているあのイエスさまとは別人だ。わたしの先生でいらっしゃるイエスさまは、奇跡をもって窮地を脱して行かれたのだ。こんな力のないイエスなど、わたしは知らない。」しかし、まさに、このイエスさまこそが、正真正銘のイエスさまなのです。主イエスがずっと証されてこられたのは、まさに、神の国を実現するために、人々の罪を償うために十字架で死ぬことだったのです。

  わたしは、高校生の時から聖書を読み始めました。主イエスを信じ、愛する思いを抱きはじめていました。しかし、あることで、聖書に躓き、神に躓いて、聖書を捨てたのです。それから2年の月日が流れました。その頃私は、完全に主イエスに向くことを止めてしまっていました。キリスト教に敵対する哲学書や宗教の本だけを読みました。しかし、主イエスは、そんなわたしをもお見捨てになられませんでした。「わたしの兄弟」として受入れ続け、伴い続けて下さったのです。そして遂に、1980年。わたしも又、起こされました。立ち上がることができました。これは、開き直ったようなことではありません。躓くこと、それじたいが悪いわけではないということです。むしろ、神を信じるとは、さまざまな宗教が神を信じるということは、まったく違うということが分からないまま、主イエスを信じるのなら、それは、信じたつもりであって、自分の考えるイエス像、神理解の中に、イエスさまを閉じ込めて満足しているだけです。むしろ、躓くことこそが、どれほど、幸いなのかと言うことです。そこでこそ、生ける神、生ける復活のイエスさまにお会いできるからです。

 主イエスに向き合うこと、それがまことの信仰です。あのマリアたちの姿です。しかし、それも結局、考えを掘り下げて行けば、ここに至ります。即ち、彼女たちが主に向き合うはるか前から、主イエスの方がずっとマリアたちにも12弟子にも向き合い続けて下さっているという事実です。

今朝、私どもはそれぞれに信仰の旅路の途上にいます。ひとり一人の信仰の理解には差があります。信仰が深い仲間もいれば、まだ、そうでない仲間もいるでしょう。それが、いつでも教会の現実です。しかし、今朝、改めて確認したいのです。主イエスは、信仰の生活が貧しく、成長が遅く、ときに、後退してしまうような状況にある仲間にこそ、心を配っておられるということです。そして、必ず、立ちあがらせて下さる、復活へと導いて下さるということです。これを忘れないこと。信じること。それが、聖書の信仰なのです。
 
 マリアたちは、ご復活された主イエスにお会いして、確かに、ゆっくりと交わりを楽しむことができませんでした。しかし、彼女たちは、文句を言ったり、違和感を持つことなどなかったはずです。むしろ、喜びに溢れ、少しでも早く、弟子たちのところに戻ろうとしたはずです。ああ、自分の心の中に、息子や他の弟子たちのふがいなさに呆れ、裁く思い、わだかまりがあったかもしれません。しかし、今や、それも吹っ飛んで、イエスさまの兄弟たちのところ、自分たちの仲間のところに行って、共に喜びをかみしめたいと考えて、主の命令に奉仕したのです。私どもも、そのような信仰者になりたいと心から祈ります。今朝、もう一度、その一歩を踏みしめましょう。

 祈祷
 信仰の躓き、弱さのなかでくず折れている者にこそ、心を配り、仲間を伝令として派遣し、傷を癒して立ちあがらせて下さる主イエス・キリストの父なる御神。私どもの信仰の眼差しを、常に主イエスに、十字架につけられ、ご復活された御子イエスさまに向かわせて下さい。そして、主イエスが常に、私どもに、まっすぐに御顔を向けていて下さる幸いに気づかせて下さい。あなたが、私どもの信仰の姿を喜んで見つめておられること、聖餐の食卓の祝いにあずかるそのとき、どれほど喜んでおられるか、教会の礼拝式に出席し、御言葉を聴いて礼拝を捧げる私どもの姿をどれほど喜んでいてくださるかを、深く悟らせて下さい。そのようにして、いよいよあなたの眼差しに気づき、信仰の歩みをいよいよ健やかで確かなものとしてください。そして、私どももまた、あの婦人たちのように、主のお役にたって、走ることができますように。アーメン。