☆ 皆さまのお祈りに支えられ、第10回の被災地ディアコニアの務めを無事担うことができました。詳細は、近日中に文書でも報告されると思います。ここでは、わたしの思いを短く、分かち合わせて頂きます。今回は、ある節目になったかもしれません。それは、初めて福島県相馬市の仮設住宅にお伺いしたからです。 私どもはこれまで亘理町(亘理旧館)と山元町(坂元中跡、ナガワ)の仮設住宅の皆さまに「限定」して支援活動をさせていただきました。小さな私どもの力では、活動を広げることができないからです。しかし、あれから2年半。山元町には、すでに「のぞみセンター」が建てられ、すばらしい活動が展開されています。しかし、 隣町の福島には、手が伸ばせずにいます。そこで、先ず、私どもがすでに、すばらしい働きを展開しておられる日本同盟キリスト教団の後藤一子牧師そして、相馬キリスト教会の葛西牧師のお手伝いをさせていただく道が開かれました。フクシマの課題・・・。これは、大震災とは別の、地球規模の根本的課題を日本と世界、 そして教会につきつけていると思います。双葉町の立ち入り禁止のギリギリまで、近づきました。それは、 まさに「あり得ない光景」でした。「被災地ディアコニア、そろそろ収束・・・」とんでもないと心底、思います。
★ 7月末で、前期の講義が終わりました。教会では、会員からの牧師への評価表はありません。 しかし、大学では学生たちが無記名で教師を評価するというアンケートシステムがどこでもなされます。無記名ですから、本音が記されます。嬉しいのは、「大学の授業の中で一番聞きがいのある内容だと思います。・・・」またある学生は、アンケートではありませんでしたが、「今回、初めて聖書を読んで、本当にたくさんの感激、衝撃、発見、感動・・・がありました。」と、興奮が伝わる文章を連ねてくれました。そのような出会いが公立の学校で与えられることに、神からの責任と挑戦を思わされます。そして、本当に、大切にしたいと思います。一方で、「宗教を強く薦めるようなことを話すのは少しどうかな・・・と」反発を感じる学生も、ひとり、いました。冗談ではなく、最近、はやりの〈古い?〉「わたしのことは嫌いになっても、イエスさまのことは嫌いにならないでくださ~い!」と心底、思います。これは、キリスト者の本音だと思います。この思いを、どのように実行に移すのか・・・。それは、キリストの「証人」としてのキリスト者にとっては、基本だと思います。先ず、確認すべきは、「だから、できる限り、自分がキリスト者であることを隠している」ということは、ふさわしくないということです。むしろ、赦された罪人であるという福音の基本に立って、あるがままの自分ですら救われたという福音の事実を証することではないでしょうか。極端な例かもしれませんが、「元やくざ」であっても、キリスト者として証する特権、使命が豊かに与えられています。そして、その「元」がまさに「元」であればあるほど、多くの人たちがキリストへと導かれる「橋」として用いられるのだと思います。
★ 浜松伝道所の望月明先生から、毎週、週報を郵送していただいています。私どもの週報には、この「通信」欄で、牧師の言葉が多いのです。これは、他の教会から見れば、異例と言っても良いかもしれません。(反対に、月報には、わたしの「ことば」がありません。週報で、十分でしょう!)何故、言葉が多いのか・・・。皆さまと何としても思いと認識、志を共有し、明るい教会の形成に熱く「挑戦」を重ねたいからです。
実は、浜松の週報にも、先生の言葉はあふれています。望月先生は、一応、引退年齢を越えられていますが、まさに、生きた牧師としての働きを熱心に捧げておられます。それは、伝道者として教師として牧師として、何とか会員を主の聖なる民、主の奉仕に間にあうように訓練し、教会を堅固に建て上げたいとの情熱からでるものだと拝察いたします。牧師は、30代であろうが40代であろうが、この熱情を失った瞬間、引退すべきなのかもしれません。週報所収の今週の説教の結びにこうあります。「私たちは主の恵みを力強く歌い、毎日の生活の中で喜びと感動をもって主を証言してまいりたい。」このような言葉もあります。「キリスト者の存在、キリスト者の生きる姿勢が、キリストの御言葉と働きの正しいことを証明するのだと言われたのです。キリスト者の存在そのものが、熱い存在なのです。神の知恵によって踊りを踊る人なのです。熱い人なのです。」わたしは、上述した今日の私どもの教会の窮状の原因は、第一の単純明快な事実を挙げたいと思い明日。それは、会員云々ではなく、指導者にこの「熱さ」があるのかということだと思います。先生は、「物事に真剣に正面から取り組まない、物事を真剣にみようとしない。適当に生きているから、何が起きても驚かないのです。~伝道者が声をからして福音を語っても、聞かれない時代です。」と分析されます。今こそ、キリスト者全員が熱くならなければと思わされます。しかし伝道者が熱く声をからすところに、論より証拠、浜松の群れは今、いよいよ元気に、「明るく」主に仕えておられます。