「空虚な墓」
2013年8月18日
マタイによる福音書第28章1~10節②
【さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」】
本日のテキストから2回目の説教となります。多くの日本人は、いへ、日本人だけでは決してありません、すべての人間は、キリスト復活の情報を初めて聞かされたときには、おそらくこのように言うだろうと思います。「確かに、キリスト教は、悪い宗教であるとは、思わない。ただし、キリストの復活とか死者の復活だとか、申し訳ないが、その点だけは、ついて行けない。やっぱり宗教というのは、非合理の世界ですね。」そうやって、キリスト者になる人、なれる人と言うのは、死者の甦りを、簡単に受け入れられるタイプの人なのだと思われてしまうこともあるかもしれません。しかし、まったくの誤解です。そもそも、そのようなことを、すぐに信じてしまう人は、むしろ、危ないとすら思います。四つの福音書を素朴に読むとき、キリストの復活を信じるということがどれほど困難であったのかということを、まさに、徹底して証しています。実に、主イエスの12弟子ですら、主イエスのご復活をまったく信じることができなかったのです。当然と言えば、当然なのかもしれません。それほど非科学的、非合理的なことが復活の出来事です。先週も学びましたが、ほんのわずかの婦人たちだけが、主イエスのご復活の予告の御言葉を信じたのです。
さて、今朝は、そのわずかの婦人たち、マリアたちと復活のイエスさまの出会いを学びます。彼女たちは、安息日が終わるのを待ちきれない思いで、おそらく夜明け前から家を飛び出したと思います。主イエスのご遺体を納めたヨセフの立派な墓を目指して小走りに歩いて行ったと思います。彼女たちの心の中には、しっかりと、主イエスが生前仰っていたようにエルサレムで殺され、三日目に起き上がるという約束の御言葉があったと思います。今なお、耳に響いていたかもしれません。ただし、三日目のお甦りについては、どうだったのでしょうか。わたしは、彼女たちですら、確信することはできていなかっただろうと想像いたします。おおよそ人類の歴史の中で、正義を貫き、抵抗する人たちが権力者に力で、ひどい目に遭わされることは繰り返されてまいりました。その意味では、主イエスが、ご自身がエルサレムで苦しみを受け殺されることになっているのだと仰ったとき、少なくとも彼女たちは、十字架の死の現実を、主イエスの予告通りであったのだと信仰をもって理解できたことでしょう。しかし、その彼女たちですら主イエスが、「三日目にわたしは起き上がる」、つまり、「復活する」という予告だけは、半信半疑の思いがあったのだろうと思うのです。おかしな表現ですが、「信じていながら信じられなかった」そのように思うのです。
その朝、彼女たちが墓に到着すると、大きな地震が起こります。おそらく、天使が巨大な墓石がごろごろと転がしたとき、地響きのような揺れを感じたのだと思います。天使は、墓石の上に座りました。大変、愉快な思いが致します。天使自身が、主イエスの勝利を最初から信じていて、こんな墓石など、イエスさまの前に、何の障害にもなりはしないということを、天使が石の上に座っているその姿からも見えて来るように思います。
さて、天使の姿は稲妻のように輝き、その衣は雪のように純白でした。天からの使いが、そのまま地上に来たのです。天の美しさ、栄光は、この地上では、異常なまでに美しく、清らかなものとして映るということでしょう。天が開かれるとき、当然のことでしょう。横道にそれますが、主イエスが人となられたとき、どれほど、謙られたのかを思います。天使とは比べることもできない栄光を、主イエスはお捨てになられなければ、地上でのお働きを進めることはおできにならなかったのです。
その光景を見たのは、マリアたちだけではありませんでした。番兵も見ました。ところが、番兵たちは、恐ろしさの余りぶるぶると震えあがってしまいます。それもまた当然のことだと思います。何よりも、彼らは「死人のようになった」というマタイの説明は、大変、深い意味があるだろうと思います。
いったい何故、番兵たちは「死人のように」なってしまったのでしょうか。死人のような姿、それは、第一に、神との正しい関係が築かれない人間の姿そのものの姿が描写されたということです。つまり、このときが初めてではないのです。もともと、番兵たちは、神さまとの関係においては死人のようになっていた、つまり、死んでいたということなのです。しかも、それは、番兵たちだけの姿ではありません。神に敵対し、神の真理と主権、主イエスの愛と平和に服従しない人間の姿、生き方は、神の前には死んでいるも同然だということです。これまでの事実、生き方、あり方が、主イエスのご復活によって鮮明にされてしまったということです。
第二に、人は誰でも、どれほど同じ救いの事実、恵みの事実に接していても、信仰によってそれらを理解し、信じて接するのでなければ、結局、喜びといのちにあずかることができないということです。いったい、神の愛とは、信じている人だけに注がれているのでしょうか。神の恵みは、信仰者だけに与えられるものなのでしょうか。まったく違います。すべての人の上に、太陽が昇り、雨が降ります。神の守りなしに、人は、生まれることもできず、この地上を生きて行くこともできません。ただし、それを当然のこととして受けとめるのか、神の恵みとして受け止めるのか、そこで信仰が問われるのです。
私どもは、毎主日、主イエス・キリストを通して、聖霊によって父なる神を礼拝しています。信じて礼拝しているからこそ、ここで、豊かないのちの恵みと祝福を受け、立ち上がれわけです。もしも、番兵のような気持ちでここにいれば、次第に、むしろ死人のようになってしまうはずです。この礼拝式で、同じこと、同じ神の御業が起こっていても、信仰によって理解しなければ無駄になってしまうのです。自分の頑なさ、自己中心、自己絶対化の罪の故に、むしろ、ますます頑なになってしまうということが起こるのです。心が硬直してしまうわけです。
ただしもしも、皆さまの心の中で、「ああ、説教はよく分からない。聖書を読んでもピンと来ない。けれども、教会っていいところだなぁ。教会の人たちも良い人たちだなぁ。礼拝それじたいも、悪くはないなぁ。」そう思っていらっしゃれば、それは、もうすでに、このマリアたちの側に立っているのです。それに気づいた時には、速やかに聖書の教えを牧師から個人的に学んで下さればと思います。
次に、天使はこう言います。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」マリアたちには、主のご復活への信仰と期待があったのです。しかし、天使が、「イエスは、ここにおられない。主イエスがかねて何度も予告しておられたとおり、ご復活なさったのだ」と強調したとき、彼女たちは、心底、驚かされたと思います。同時に、自分たちが復活信仰に力強く立てなかったことを恥じたと思います。さらに言えば、神の前でそのような信仰に突き抜けることができなかった不信仰さを恐れたとも思います。しかし今、天使は、彼女たちにその弱さや足らなさを指摘するために来たのではありません。今、それは、重大な事ではなくなっていると言わんがばかりのように思います。天使が彼女たちに告げること、彼女たちにどうして欲しいのかというと、それは、主が御言葉どおり、ご復活して、ここにいらっしゃらないという事実を見せることです。
聖書を読むとき、主イエスがご復活したその瞬間を目撃した人は誰もいないということが分かります。ご降誕のときは、母マリアと父ヨセフが立ち合いました。そこには、馬、動物も立ち合いました。しかし、主イエスのご復活は、まさに神秘です。誰も知りません。確かに、ご復活の後の主イエスのお姿は、多くの人々が目撃します。しかし、端的に言えば、主イエスがご復活なさった事に対する、自然科学的な根拠、証拠は一つもありません。
わたしは、これまで何度もイエスさまのご復活にお会いすれば信じると言う言葉を聴きました。もしかすると、そのように仰る方は、マリアたちは、復活のイエスさまを見たので信じたのだと考えているのかもしれません。しかし、そうではありません。彼女たちは、第一に空の墓を見て、それによって主イエスのご復活を決定的に信じたのです。彼女たちが復活のイエスさまとお会いするのはその後のことです。これは、極めて大切なことです。最初の復活の証人、第一の復活の証人のマリアたちですら、主イエスの復活のお姿を目撃して信じたわけではないのです。主イエスの預言に基づく、天使の言葉で信じたのです。
もしかすると、ある人は思うかもしれません。天使など介在しないでイエスさまが、お墓からすっと出て来られたら、もっとわかりやすいのにということです。しかし、大切なのはここでも信仰なのです。つまり、信仰とは、空っぽの墓を見て、信じるということなのです。逆に申しますと、空っぽの墓を見ても信じない人たちは少なくないということです。つまり、神を信じること、主イエスを信じることと言うのは、目で見て確かめるということではなく、神の言葉を信じること、神ご自身を人格的に信頼するということなのです。
ただし主イエスのご遺体のない空っぽの墓の存在は、無意味ではありません。この空の墓、その墓を見るということには極めて大切な意味と役割があったのです。それならやはり、現代の私ども、エルサレム旅行に行けない私どもは不利なのでしょうか。そんなことはありません。現代の私どもにとっても「空っぽの墓」があるからです。その墓は、エルサレムにではなく、ここにあります。つまり、キリストの教会のことです。あるいは、キリスト者の存在です。いったい私どもキリスト者はどうして、どのようにして復活のイエスさまを信じることができたのでしょうか。自分でも不思議です。聖書は、言います。神の選びであり、聖霊が注がれて、その選びが間違いなく当てはめられた、だから信じることができたのです。まったく、その通りです。ただし、さらに丁寧に言わなければなりません。私どもが信仰に導かれたのは、私どもより先に信じた先輩キリスト者がいたからです。先に、教会共同体があったからです。今日のキリスト者で、ほとんど誰ひとりの例外もなく、教会の存在なしに、主イエスのご復活を信じ、主イエスにお会いできた人はいなかったはずです。
わたしはイスラエルに行ったことがありませんが、主イエスのお墓出会ったと言われる場所に教会堂が建っています。学者たちに言わせれば、そこが本当に主イエスの墓であったかを特定できないそうですが、長い歴史があるようです。その墓に降りて行く穴の上に、「主はここにいまさず、甦られた。」と英語で記されたプレートが掲げられているそうです。わたしはそのプレートを見たこともありませんが、高校生のとき、はじめて教会に行きました。大学生になって、積極的に礼拝に参加させていただきました。そして、やがてその交わりの中で、私は主イエスにお会いしたのです。もし、教会がなければ、教会に行かなければ、わたしは今も主イエスから離れたままだったと思います。
現代において「空になった墓」の役割は、教会が担うと申しました。ただし、教会とは、建物、教会堂のことではまったくありません。教会とは、キリストの体であり、私ども神の民の祈りの家、共同体です。教会とは、主の日にこそ、手で触れ、目で見えます。つまり、教会とは神を礼拝する共同体のことです。その教会が、空っぽなはずがありません。礼拝式には、復活されたキリストが聖霊によって臨在しておられます。キリストは地上に不在となってしまったとか、神の御業は終わってしまったということではまったくありません。今こそ、どの時代よりも神の国の働きが前進し、拡大するそのような時代なのです。
そのことが分かれば、皆さんと私とはもう、同じ使命と同じ志をもっていただけるはずです。教会の形成です。この町には圧倒的に多くのキリストの復活の事実とその恵みを知らないままの方々がおられます。その人たちに、私どもの存在そのものが、マリアたちにとっての空の墓になるのです。つまり、キリストが復活した証拠です。教会なくしてキリストの復活の証言はありません。逆に言えば、キリストの教会が地上に存在していること以上に、キリストの復活の確かなる証拠はないのです。
それなら、教会は、キリスト者とは、何をもってキリストが復活したことの証拠、証人となれるのでしょうか。空の墓の役割、機能をどのように果たすのでしょうか。それは、信仰です。ただ信仰のみです。その信仰を、鮮明に表現すれば、復活信仰と言えるでしょう。そして、復活信仰とは、第一に、イエスさまが復活したということを信じることを意味しますが、それと同時に、言わば、私どもの復活信仰があります。私どもの復活信仰とは、何を意味するのでしょうか。
キリストの復活、それは、世界に何をもたらしたのでしょうか。それは、神の愛の勝利です。神の赦しの勝利です。希望です。
この日本の中に、放射線の量が高くて防護服で身を包まなければ、宇宙にでも出かけて行くような装備をしなければ、入れない町、地域が出来てしまいました。それは、絶望の町です。大変申し訳ない表現になりますが、まさに死の町です。来週の読書会で学びたいと思いますが、もし日本の現状を冷静に、徹底的に分析すれば、おそらく、もはやのぞみなし、手遅れという現実を見いださざるをえないのではないか、わたしはそう思ってしまいます。ところがそのような私じしんは、なお、諦めてはいないのです。私ども教会は、諦めないのです。神が人間のために与えて下さったこの美しい世界、主イエスによって神の国とされたこのすばらしい世界が、現実には、人間の罪によって、赤ちゃんも子どもも、青年も壮年も高齢者も、男性も女性も火に焼いて、血を流させ、いかなる地獄絵図よりなお恐ろしい現実としてしまった世界があります。長いものには巻かれろと、自分の目先の幸福を選択する小さな罪とそれを重ねたことによって、神の国を汚している現実があります。しかし、私どもは諦めないのです。その根拠を、教会は与えられました。それが、キリストの復活です。死を打ち破る、墓を打破する、これは、地上において、奇跡の中の奇跡です。しかし、神は、この世界を、死では終わらせられないというご意志を、主イエスのご復活でお示しくださり、宣言なさったからです。そして、復活信仰とは、この神が今も生きて働いておられるということを信じることです。復活信仰とは、わたしという個人の生涯もまた、どれほど墓に、死の世界に閉じ込められるよう嘆きの試練の日々となっても、そこで崩れないで生きる力です。復活を信じる。それは、他でもない、全能の神、主権者なる神を信じる、信じ抜くことなのです。教会とキリスト者は、単なる楽観主義者、理想主義者であってはならないでしょう。厳しい現実を見ます。おそるべき現実を見て、分析して、しかし、その上でなお諦めないのです。そのしたたかな生き方、心が、キリストのご復活によって与えられるのです。
教会の歴史を見れば、この日本においてもまことに息の根を止められるかのような歴史に例のない大迫害がなされました。宣教師の全員が殺されるか国外退去になりました。しかし、それでも信仰はなくなりませんでした。20世紀、ソビエト連邦時代の教会は、日本のキリシタン迫害には及びませんが、なお厳しい迫害の時代を生き延びました。今のロシアは、キリスト教なしにはあり得ないはずです。共産圏のさまざまな世界で起こった事実はつい数十年前の実例です。今日の中国ですら、数億人がすでに信仰に導かれているという情報があります。現代でも、空虚な墓の実例に満ち満ちているのです。
私どもも、空虚な墓を見て、信じ続けたいと思います。いへ、私どもは、こう祈り、考えます。私ども名古屋岩の上教会は、現代社会にむかって、日本社会にむかって、まだお会いしたことのない大勢の選びの民に対して、空の墓、空虚な墓になりたいのです。なるべきです。そのために、ご復活されたキリストが、今なお、力と愛と平和の内にその主権を現わしておられることを、教会の存在によって証することです。そのような教会を形成することが、私どもの使命、責務なのです。その方法は、神の国の伝道です。神の国の福音を伝道し、みずからの存在と実践によって証することです。教会が愛と平和に生きることです。とりわけ弱くされている人々の隣人となることです。
祈祷
主イエスを死者のなかからよみがえらせてくださいました父なる御神、小さなことでくよくよ悩み、落ち込んでしまう私どもです。どうぞ、その度に、復活されたキリストを仰ぎ見、あなたがその力をもって私どもの人生にもこの世界にもかかわり続け、勝利してくださることを信じさせてください。復活信仰に生きる者の幸い、力を味わわせて下さい。そのことによって、この神に反抗し続ける死の世界に向かって、そのただ中で、私どもの存在を、キリストの空虚な墓として用いてください。世界の希望の根拠として用いて下さい。アーメン。