過去の投稿2013年8月18日

8月18日

★  中日新聞の読者の方は、夕刊、朝刊に掲載された○○委員の記事をお読みでしょうか。(月報後記参照)テレビ取材も放映済みとのこと。そのすべてを見ていないので、大変、申し訳ありません。主の導きであることを信じています。教会員の喜びは私どもの喜び、そして悲しみは私どもの悲しみ。共に喜び、祈ります。

☆   8月の読書会は、私どもの教会にとっては、特に重要な学びを重ねてまいりました。報告にある通り、 未信者のお知り合い、契約の子たちにも大切な学びとなると思います。

★   厳しい暑さが続きます。くれぐれも熱中症他に気を付け、ご自愛ください。日々、お祈りしています。

☆   皆さまに下記の文章を読んで頂く必要は、あまりないかと思います。しかし、ある事情で、掲載を断念したこともあり、記載させて頂きます。次週は、読書会です。残念ながら前回も、90分の枠のなかで、学ぶことだけでほとんどの時間を使い果たしました。それでも、皆さんに、牧師として、「参院選後のこの日本がどのような道に進むのか、教会にとっては、「信仰告白的事態」となる時代に入っていることを共通認識にしてほしい。そのために、今一度、これまでの教会の学びを「継承」し、「整理」し、「深化」させたい。そして、まさに丁寧な語りあい、熟議を重ねて、教会としてどう立つべきかを、読書会を利用して進めて行きたい。」と申し上げました。その意味で、下記に、歴史(時代)認識、現代日本をどう捉えるのかについて、記載致しました。先週、敗戦記念日でした。少なくとも教会は、この時期だけ、先の大戦について感傷的あるいは感情的に「思う」だけではならないと思います。次主日は、読書会です。自民党憲法草案を学び、語りあいましょう!

【     「教会は『3:11』で変わったか?」     】
神の教会は、神ごじしんが保持してくださることを、私どもは確信しています。同時に今、中会議員の多くが中会は深刻な危機に陥っている、何かを変えなければ…との認識を共有しておられると思います。
私たちの教会は、日本国憲法によって信教の自由が保障され、自らの信じるあるべき教会形成の筋道を鮮明にして出発しました。つまり、敗戦を契機に創立されたわけです。日本キリスト改革派教会の創立者たちは、この教会を形成することこそは、「新日本」の建設をその根本から支え、実現するために必須のことであり、その中心を担うとの気概と自負を持っていました。

しかし、現実には、「旧日本」の基本構造はそのまま継続され、今や、「3:11」によってその構造は白日の下にさらされています。さらに、今回の参院選挙の結果をみれば、多くの市民もまた、地震と津波による大震災、何よりあの福島第一原発の爆発事故をなかったかのようにしようとしているとすら思います。私は、『3:11』を「第二の敗戦」と考えています。わたしの考える第二の敗戦とは、第一の敗戦の固定化、深刻化によってもたらされている現実のことです。

さて、私は、教会もまた第二の敗戦を体験しつつあるのではないかという危機感を抱いています。いったい、「3:11」によって教会は、どのように変わったのでしょうか。変わりつつあるのでしょうか。万が一にも、教会内に、日本社会の空気と同じものが漂うのであれば、教会はほとんど「死に体」になってしまうと思います。今、「新日本」建設のビジョンを高く掲げる教師や長老方、指導者は少ないように思います。当然と言えば当然かもしれません。みずからの教会形成において果敢なる進軍どころか現状維持すら厳しい現実のなかにあるからです。いうまでもなく、伝道者の責任です。万一にも指導者たちが、時代や神の「せい」にすれば、議論は終わりです。しかし、高神派東釜山老会の牧師たちと並ぶとき、伝道者たちの精神的、霊的な疲弊ぶりは隠せないと思うのは、私ひとりだけでしょうか。(その一つの克服の道は、おそらく単純で明らかです。何よりも会員からの愛と尊敬、暖かな理解と励ましです。次に同志としての交わりです。先ず、牧師が精神的に何よりも霊的に元気にならなければならないはずです。)

大震災前の教会、そしてキリスト者ひとり一人の姿は、震災によって顕在化させられて行くのだと思います。「教会は、3:11で変わったのか」これは、神からの問いではないでしょうか。しかし、牧師や役員をただ批判していても何も始まりません。神の御前で、みんなでもう一度、福音に生かされる教会のあるべき姿(体質・福音理解)を、神の七度の七十倍の赦しの眼差しの中で考え続けたいと思います。『3:11』は、少なくとも、その重要な手掛かりになるはずです。

隣人に「なる」教会、ディアコニアに「生きる」教会の方へと。今こそ、神と恵みの御言葉によって改革される教会へと、共に変えられて行きたいと願います。