「キリスト復活による決定的勝利」
2013年8月25日
マタイによる福音書第28章1~10節③
【さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」】
今朝、多くの方が玄関で、「おはようございます」と挨拶をされたことと思います。主イエスのご復活の物語を読んで、3回目になりますが、今朝は、この「おはようございます。」の一言の挨拶の言葉をめぐって、主のご復活の意味を学び、礼拝式を捧げたいと思います。
マタイによる福音書によれば、弟子たちのところに走り始めた彼女たちは、すぐ、行く手に立って、すでに待ち構えておられたお甦りになられた主イエスにお会いさせて頂きます。ご復活された主イエスは、マリアたちに語りかけられました。まさに、ご復活後の第一声です。それが、「おはよう」でした。もとの言葉は、「カイレテ」です。直訳すれば「喜びなさい」となります。しかし新共同訳は、「おはよう」と訳しました。この翻訳に対しては、おそらく賛否両論あるだろうと思います。わたし自身は、ある違和感をもってしまいます。まさに父なる神が、御子のご復活という究極の救いの出来事を起こされたそのときに、最初に主イエスが発せられたことばが、「おはよう」では、何か違うと思ってしまうのです。あまりに普通の挨拶で、どこか肩すかしをくらわされるような思いがしてしまうからです。ただし、このときは早朝なのです。朝に、人が最初に交わす挨拶は、何と言っても「おはよう」です。ですから、そう訳したわけです。
それなら、日本語の翻訳を比べてみたいと思います。古くは「めでたし」があります。「おめでとう」という祝福の言葉です。口語訳では、「平安あれ」です。新改訳になってからは、「おはよう」になりました。
もとより、主イエスが語られたのは、ギリシャ語ではありません。アラム語です。当然、ギリシャ語のカイレテと語られたわけではありません。主が挨拶されたのは、「シャローム」というヘブライ語であったはずです。そしてそのシャロームを直訳すれば、「神の平和」「神の平安」となります。だからこそ、口語訳は「平安あれ」と訳したのでしょう。ただし、このユダヤ人のシャロームという挨拶は、朝昼晩、いつでもどこでも同じ言葉を用います。
神の平和、それは、神と人間との間になんのわだかまりもない状態のことです。つまり、人間の救いの状態に他なりません。彼らは、常に、神との平和を求め続けているわけです。
さてここで少し、まわり道になるかもしれませんが、このカイレテの言葉が、マタイによる福音書には、他にどのような場面で用いられているかに注目してみたい、調べてみたいと思います。一つは、第26章です。イスカリオテのユダは、「先生、こんばんは」と挨拶しました。彼は、主イエスを逮捕しようとしたのは夜でしたから、人違いを避けるために、自分が接吻した人物こそ、イエスであって、逮捕する合図としました。ユダは、イエスさまにいつものように近寄って、「こんばんは」と言いました。実は、その挨拶が、「カイレテ」なのです。
もう一つ、カイレテが用いられるのは、ローマの兵隊たちです。このように記されています。「イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。」ローマの兵たちは、逮捕されたイエスさまに対して、暴力の限りをふるいましたが、言葉の暴力もありました。「ユダヤ人の王さま、万歳」の万歳が、カイレテです。直訳すれば、「ユダヤ人の王、おめでとう!」となるでしょうか。
マタイによる福音書が、主イエスのご復活の第一声を、ふつうの言葉、日常の言葉、普段の言葉としての「カイレテ」と記したのは、ある深いこだわり、そこにメッセージが強く込められていると思います。それだけに今朝、私どもはきちんと受け止めたいと思います。
本日は、午後に読書会の集会を持ちます。自民党の日本国憲法草案を皆さまと少しだけですが読んでみたいと願っています。しかも、このようなすべての市民と共有できる課題、すべき課題について、まさに教会以外の多くの方々と共に学べるようにと心から祈り、願っています。そして、教会がそのような場を提供し、そのような場を導くことができるまでに成熟したいと心の底から祈り続けています。
さて、今の日本において、多くの人々がはっきりと気づき始めていることがあるだろうと思います。福島第一原子力発電所の過酷事故の後、ひとりの歌手、ロックンローラーがインターネットのユーチューブに、ご自分の持ち歌の替え歌を発表して話題になりました。その方は、「みんな嘘だったんだぜ」「ずっと嘘だったんだぜ」と歌います。「この国を歩けば、原発が54基。教科書もCMも、言ってたよ、安全です。ずっとうそだったんだぜ。原子力は安全です。」そのような歌詞です。これは、大変、勇気のいることだろうと思います。正しいことをなすには、勇気が必要であることがよく分かります。この勇気の花を咲かせることができないところで、おそらく人間の社会はいつまでたっても、一部の人々の力の前に、不自由を強いられ、悲しい目に遭わせられるのだろうと思います。
さて、おそらく心ある人が共通に自分の課題、問題と自覚しておられることがあるだろうと思います。それで、いつも悩んだり、傷ついたりしているのではないでしょうか。それが、言葉の問題です。自分の言葉と自分のやっていることとが、分離する、裏切っているということです。自分の言葉通り、考え通りに行えないということです。この問題は、良いとか悪いとかを越えて、まさに人間の生身の姿に他なりません。これは、開き直るために申しているのではありませんが、私どもは、先ず、そこから始めるしかないと思います。その現実を、きちんと受け入れることです。言いかえれば、先ず、自分を許してあげることです。ただし、そこで座り込んだり、へたりこまないことが大切なのだと思います。そこから始めるのです。キリスト者なら、始められるはずです。
さて、言葉の問題で、本当に恐るべきことは、「嘘」だと思います。嘘の言葉です。偽りの言葉です。原子力発電は、絶対安全と言われてきました。もっとも経済的、もっとも効率的。人類の将来に必須の科学技術。人類にとって夢のエネルギー、まさに、ありとあらゆる美名のもとに国策によって、建設され、稼働されてきました。しかし、原子力発電は既に、チェルノブイリの過酷事故によって人類にとって安全でも安心でも、豊かな将来を約束するエネルギーでもまったくないことが、世界に知れ渡りました。しかし、それでもなお、いへ、だからこそ、日本では、いよいよ「安全」であるということが宣伝されてきたと思います。
政治家、官僚、財界の方々、権力をもった一部の方々は、どうかすると国益だとか、国民のためだとか、平和だとか安定だとか成長だとか正義だとか、まことに耳に心地よい言葉で、政策を宣伝します。ところがその裏で、恐るべきことが着々と進めて行かれます。確かに、騙される方が悪いということも、言えなくもありません。しかし、かつて国家の力で教育を国家の権利として、国民の義務として強いることによって、軍国少年、軍国少女を生み育てた歴史があります。それは、今日の視点から見れば、ほとんど「犯罪」と言えるのではないでしょうか。しかし、ほとんど誰も責任を取ろうとしませんでした。子どもたち、青年たちが、大人や教師が責任をとらないのであれば、これからはもう自分たち個人の生活が大切でだと、まさに反動としての悪い意味での個人主義へと落ち込んで行ってしまうのも当然のことかもしれません。そして、その巻き返しとして、全体主義への強力な運動が、今や、私たちを覆ってしまおうとしているように思います。いささか、長くなりましたが、これらの課題は、午後の読書会にゆずらなければなりません。しかし、ここで、私どもキリスト者が見抜くべきは、言葉の問題です。言葉は、漢字で言の葉と書きます。葉っぱのようにひらひら落ちて行く、力ないもののイメージです。
しかし、聖書は「神の言葉」です。ヘブライ語で、言葉は、ダーバールと言います。その意味は、実現する言葉です。イザヤ書第55章には、ダーバールである言葉の意味が典型的に表現されています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」神の口から出る神の言葉は、必ず、神の望まれることを成し遂げ、実現し、主なる神の使命をその言葉で必ず実現させるというのです。これこそが、聖書の言葉の本質なのです。神の言葉の威力です。
ユダは、「主イエスに、平和がありますように」と口づけました。裏切る彼が、そのような心にもない言葉を使ったのです。本当なら、「イエスよ、あなたは、今まさに、逮捕されますよ。そのために、この挨拶をしているのですよ」などとは決して言いません。彼は、偽りの言葉を語ったのです。嘘をついたのです。そこに、罪があります。
もう一か所のローマの兵隊たちの言葉は、こうでした。「ユダヤ人の王イエスよ、喜びなさい。おめでとう。」もとより、ただからかっているだけです。皮肉を言って嘲笑しただけです。
さてこのように、実に、人間の言葉とは、どれほど無力で、また偽りに満ちているものであるかを思います。最初に申しましたように、他人事ではありません。相手の言葉を正しく聴きとることも、極めて難しいのです。相手に理解してもらえるように語ることも極めて難しいのです。あのバベルの塔の物語について、触れる暇はありませんが、これが、人間の罪の世界のありのままの姿です。
しかし、遂に、復活の主イエス・キリストが、ここで神の言葉を発せられます。神の御言葉は、言の葉とは、まったく違うのです。ここで、主イエスが、公のご生涯を始められたとき、その最初に発せられた言葉を思い出したいと思います。マタイによる福音書第4章17節、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」天国とは、神の支配とその領域のことです。そして神の支配とは、恵みと愛に満ち溢れたご支配に他なりません。そしてそれをこそ、神の平和と言うのです。つまり、愛と平和がある領域のことを神の国、天国というのです。そして、ここで、もっとも大切なことを確認しなければなりません。この愛と平和の国は、人間の努力によって打ち建てられるものでは「ない」ということです。「ラブアンドピース」これは、世界の多くの人たちが等しく願っている世界です。憧れの生活です。愛と平和に満ち満ちた日々、いへ、一瞬でもよいのです。そのようなすばらしい時を味わいたいと願っていると思います。しかし、聖書は、言います。それは、イエスさまを抜きにしたら、成り立たないということです。神を、無視したり、神をないがしろにしたところでは成り立たないという真理です。何故なら、天の国とは、愛と平和を実現なさったイエスさまご自身がおられる場所のことだからです。
主イエスは、まったく良心に恥じることなく、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣言されたはずです。主イエスのお心には、嘘偽りがまったくないからです。天の国は近づいたと宣言されたとき、それは、真実なのです。つまり、天国の主でいらっしゃるご自身がこの地上で福音を語り始めたからです。ただし、それを人間的に見れば、やはり、不確かである、と言えるかもしれません。そうは言っても、本当なのかという疑問や批判が当然、湧くはずです。しかたのないことです。そのようなことを言いだした人は、何もイエスさまだけではないからです。だからこそ、確かに主イエスは、奇跡を行われました。現実に、神の国が始まったということを人々に見せられたのです。
しかし、それだけでもなお足りません。何故でしょうか。確かにイエスさまが、人々の目の前で、天国の力を見せられたことは、まぎれもない事実です。しかし、主イエスは、なんとユダヤ人の宗教的権力者に逮捕され、ローマ総督に死刑にされてしまわれたのです。だったら、神の国が始まっただなんて、やはり、彼は、自分たちを騙していた、偽っていたと批判されても、仕方がないと言えるかもしれないからです。
しかし、主イエスは、死者のなかからお甦りになられました。父なる神は、御子イエス・キリストを復活させられたのです。そして、その十字架の死によらなければ、罪人の罪を償い、贖い、赦すことができなかったのです。つまり、十字架の死もご復活も、神のご計画のど真ん中、いかなる奇跡などもくらべようもない究極の奇跡なのです。救いの御業の頂点なのです。
十字架で死んで下さってご復活されたイエスさまのおかげで、まさに、天国が確立したのです。しかも、いくら私たちが天国に入りたいと願っても、罪深いそのままでは、決して入れません。天国が地上に始まっても、罪人たちには、絵に描いた餅、はるか遠い世界でしかないのです。しかし、主イエスは、その罪人たちを招き入れるために、十字架で死んでくださったのです。そして、その死が、救いのための死、勝利の死であることを、父なる神が、御子を甦らせたことによって宇宙大に、勝利が宣言されたのです。その意味で、イエスさまのご復活の第一声が「カイレテ」であることは、まったくふさわしいのです。カイレテ、つまり「喜びなさい!」という命令です。「おめでとう、めでたし」という祝福の宣言です。「あなたは、天国に入れる人になりましたよ。あなたは、死んで滅びることはありませんよ。神の怒りと裁きは、はるか昔のことになりましたよ。おめでとう、私と一緒に喜びなさい。」それが、カイレテの意味です。
また、カイレテは、「あなたは、万歳!」という意味でもあります。それは、そうでしょう。どんなとき、人は、万歳と叫びたくなるのでしょうか。自分の心の奥底にある願いが適った時だと思います。私どもは、自分の心の底の底にある願い、憧れを掘り起こさなければなりません。その奥底の思いとは、救われることなのです。罪赦され、神との間に平和があって、愛があって、愛に包まれることです。主イエスのご復活は、その願いがかなったということです。だから、主イエスは、「マリア、万歳!」と、私どもひとり一人の名を呼んで、共に喜ばれるのです。それは、「伸郎よ、おめでとう!」ということでもあります。めでたし!です。しかも、それは、イエスさまご自身がメデタシではなく、私どものことを喜ばれたのです。
今朝、互いに、おはようございますと挨拶しました。後で、また、挨拶なさるかもしれません。しかし、主日礼拝式の幸いとは、毎週、ここで、説教を通して、聖餐の礼典を通して、礼拝式全体で、「おめでとう。喜びなさい。万歳」と主イエスの御言葉の宣告、いのちの宣言を聴けることです。
最後に、私どもに残っていることは、ただ二つのことだと思います。ほとんどの方は、第一のことは、なされたと思います。その第一のこととは、主イエスのこの祝福の宣言を信じて受け入れることです。「アーメン、ハレルヤ、感謝いたします」と素直に、聴きとることです。こうして、私どもは、今朝もまた、主の民としてのいのちに満たされるのです。
第二のこと、それも、既になさっておられることです。この祝福の宣言を、今度は、私どもがイエスさまの代わりに、隣人に告げることです。カイレテ、シャロームの挨拶をすることです。「あなたに主の恵みがありますように。」このたった一言を聴きたいと願っている方がどれほど多くいらっしゃることでしょうか。被災地で、「神さまの恵みがありますように」とご挨拶して、涙を流される方がいらっしゃいます。「おはようございます。」あるいは「こんにちは」でもよいのです。そこから伝道は始まります。
くどいかもしれませんが、申します。自分の言葉が、行いを伴わないから、伝道しない、御言葉を証しないということでは、困ります。先ほど、確認しましたように、言葉と行いがかみ合わないそのところから、始まるのです。そのまま、始めてよいし、始める以外にないのです。私どもは、自分ではなく、神の言葉が働いてくださることを信じるだけです。こうして、キリスト者の奉仕によって、証、伝道によって神の国の前進は進められてまいります。主イエスの復活後の第一声を、教会として、キリスト者として、私どもの隣人に告げましょう。全ての人にとっての決定的勝利、救いが、主イエスのご復活によって起こったからです。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、御子を甦らせたもうたことによって、地上における天国、神の国を確立してくださいました。言葉にいのちが吹きいれられ、聖書の御言葉、あなたの生ける御声を聴く者を、御言葉の約束通り、完全にお救い下さいます。心から感謝致します。どうぞ、これからも御言葉により頼んで、御言葉を道の光として、歩ませて下さい。そして、私どもの言葉もまた、あなたの御言葉をお乗せするものとならせてください。隣人と共に、「めでたし」の言葉を聴きとらせて下さい。わたし自身が、その言葉の語り手として、今週も、用いて下さい。アーメン。