「人間を再生するキリストの復活」
2013年9月1日
マタイによる福音書第28章1~10節④
【さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」】
今朝も、愛する皆さまと共に、礼拝式の恵みにあずかることができます事を心から感謝いたします。今朝も、ご復活された主イエス・キリストが、おひとりお一人をこの神の民の祈りの家である教会の礼拝堂にお招き下さいました。
最初に、先週のおさらいをしてみたいと思います。先週、学びましたのは、お甦りになられた主イエスが、まさにご復活の第一声として、マリアたちに「カイレテ・おはよう」とご挨拶されたことでした。そして、語りかけられているのは、あのすばらしい女性の弟子たちだけではなく、今朝、この聖なる礼拝堂に招かれたお一人おひとりにも、「カイレテ・おはよう」と語りかけて下さているということでありました。そしてこの「カイレテ・おはよう」の意味は、「あなたはわたしの十字架と復活の御業によって救われました。だから大いに喜びなさい。」という意味でした。あるいは、「あなた方は、罪が赦されました。おめでとう。」という意味も含まれていました。さらに、「あなたと私の間に平和が実現しました。だから、安心しなさい。神の平和はあなたにあります。」という意味も込められています。さらに、言えば、「あなたは、わたしのおかげで神の子とされています。めでたし!万歳!」という、イエスさまがもろ手をあげて祝福の言葉を掛けて下さるということでした。しかも、今朝は、主イエスの御言葉だけではなく、主の晩餐の食卓、聖餐のお祝いにも招かれ、主は、ご自身の霊的な祝福で満たそうと備えていて下さいます。心の底からおもいます。私どもは、なんという幸せ者でしょうか。主の御名を崇めます。
さて、この個所からの4回目の説教となります。そして、最後にしようと考えています。今朝は、主イエスが、主のご復活の第一の証人となったマリアたちに告げられたこの御言葉を通して学びたいと思います。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
これは、天使が告げた言葉とほとんど同じです。天使は、既に、「確かに、あなた方に伝えましたよ」と言わば、言わば、念を押しています。ところが、主イエスご自身も、ここで改めて念を押すかのように、同じことを仰ったのです。「ガリラヤに行くように、わたしの兄弟たちに言いなさい。そこでわたしに会える。」さらに申しますと、これは、最後の晩餐の夕べ、食事の後に、弟子たちが全員に告げられていました。どれほど、「ガリラヤ」という村が大切であるのか、これだけで分かるように思います。それなら、何故、ガリラヤなのでしょうか。
何よりも、先ず、私どもがここで覚えさせられることがあるだろうと思います。主イエスは、弟子たち全員が躓くことを、はっきりとご存知でいらっしゃいました。弟子たちにとってのイエスさまとは、ユダヤ社会の権力者やローマ総督をはじめとするローマ帝国の圧倒的な支配に対して、断固、負けることのない圧倒的な力をもつ、そのようなキリストなのでした。したがって、最後に躓くことは、当然と言えば当然の結果でした。
それなら、彼らは、いつの時から、そのようなイエスさま像を持っていたのでしょうか。それは、おそらくその最初の日から、既に始まっていたのだろうと思います。主イエスの最初の弟子となったペトロは、漁師でした。彼は、ガリラヤ湖のほとりで彼らが網を打っていました。日々の暮らしの真ん中で、主イエスは、いきなり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。漁師としての生活は、裕福とまでは行かなくても、生きて行くためには、まったく困らなかっただろうと思います。平凡かもしれませんが、落ち着いた暮らしを営めたはずです。しかし、もしかすると心の底には、人生の空しさや渇きがあったのかもしれません。
おそらく、彼らは、こんな自分でもこのお方について行けば、偉い人間になれるのではないか。すごい人間になれるのではないかという期待、希望がたちまち湧きあがったのだろうと思います。そして、実際に、主イエスについて行く歩みの中で、彼らは、驚くべき奇跡を行われるイエスさまのキリストとしての力を目撃して行きます。イエスさまに対する期待は、いよいよ膨らんで行きました。そして、まさに、そこにこそ彼らの躓きの理由がありました。つまり、主イエスは、ユダヤの政治的な指導者になられるべきお方、ローマ帝国からユダヤ社会を独立させる政治的な王になるべきお方だと考えが固まって行ったのです。こうしてついに、主イエスが逮捕され、裁判にかけられ、死刑宣告を受けてしまったその時、彼らのキリスト像、イエスさまへの思いは、木っ端みじんに打ち砕かれて、崩壊してしまったのです。それ故に、彼らは主イエスの十字架について行けなくなったのです。主をひとり置き去りにして、逃げ去ってしまったのは、当然の結果だったのです。
マタイによる福音書をはじめとし四つの福音書は、もとより主イエスの公のご生涯とその教え、何よりも十字架とご復活の救いの出来事を中心に編まれています。しかし今朝、しみじみと思わされます。福音書とは、主イエスが神の国を地上で打ち建てられた物語です。しかし同時に、弟子たちの挫折と失敗の物語でもあるということです。弟子たちの無理解、頑なさ、愚かさが福音書を織りなす横糸となっているように思います。
しかし、まさにその弟子たちこそが、主イエスの使徒として立ち上がらされ、教会の土台となり、世界の歴史を転換し、歴史を形成する主体として用いられて行くと言うことです。漁師たちが中心になって、世界の歴史を転換し、造って行くなどということがかつてあったでしょうか。ありません。しかし、ペトロたちがそれを事実始めて行くのです。そしてそのために、主イエスは3年間をかけてくださったのです。そして、最後の最後に、まさに、この弟子たちを育て、立ちあがらせるために主イエスは、彼らに集中なさるのです。そこに、主イエスが、マグダラのマリアたちよりも、この12弟子に心を配られる理由があったのです。大胆な言い方ですが、主イエスは、出来の悪い弟子たちにこそ、御目を注がれ、心を配られるということです。主イエスは、ここでももっとも小さな者、最も弱いもの、最も傷ついた者、倒れた者を「顧みて」おられるのです。
主イエスは、弟子たちを「あなたを人間をとる漁師にする」と約束されました。キリスト・イエスさまにとって、この約束は、必ず実現しなければなりません。ただしこの時点で分かっていることは、ペトロたち弟子の人選は、見事なまでの失敗だったということになります。しかし、主イエスにとって、彼らの躓きや裏切りは、想定外のことではまったくありませんでした。最初から、ご存知でいらっしゃったのです。
裏切った弟子たちへの恨みとかつらみを主イエスは一切お持ちではありません。むしろ、彼らの主を裏切った心の傷にすら、憤りの思いなどまったくなく、むしろただただ深い憐れみの御心をもって癒したいとの思いがあふれたのです。ご復活後のイエスさまは、これまで通りの、憐れみの心、スプランクニゾマイのお心に溢れていらっしゃるのです。
それを、たった一言で、言い表すのが、このような弟子たちを、「わたしの兄弟たち」とお呼びした言葉です。「わたしの弟子たち」ではありません。兄弟です。兄弟とは、弟子よりもっと深い関係にあることを言い表す表現です。彼らが、この一言を聞けば、ただちに主イエスが、どのような思いで自分たちをご覧になっておられるのかが分かると思います。「ああ、自分たちは、イエスさまに愛され、赦されているのだ。」そのような理解が与えられたのだろうと思います。
いったいガリラヤ湖とは、どこでしょうか。何を意味するのでしょうか。それは、彼らの故郷であり、何よりも、主イエスと初めてお会いした場所に他なりません。つまり、主イエスは、弟子たちをこのガリラヤ湖のほとりに戻す、帰らされるということは、もう一度、彼らを弟子としての原点、救いの原点に戻されるためだったのです。
確かに、人間は、過去の時間をリセットすることはできません。犯した罪や過ちをなかったことにはできません。しかし、本当にそうなのでしょうか。
主イエスは、弟子たちを再び立ちあがらせるため、正確に言えば、真実に弟子として立ち上がらせるために、ガリラヤを選ばれるのです。それは、これまでの3年あまりの歩みが決して無駄なこと等ではなかったことを、彼らに悟らせるためです。あの3年の歩み。弟子として最も大切で、その真価をはっきすべきそのところで大失敗して、これまでの歩みのほとんどすべてを無意味にしてしまい、何よりも主イエスとの関係を壊してしまったかのうに考えられるあの日々。しかし主イエスは、仰るのです。「そんなことはないのだ」と。ガリラヤ湖での最初の出会いから、復活のイエスさまとのそこでの出会いは、すべて繋がっているのです。すべて神の愛の御業のなかで、繋がっているということです。主イエスが弟子として選ばれたのは、間違いではなかったのです。わたしは、誤解をおそれずにこのように、はっきりと言いきった方がよいと思っています。つまずいた彼らこそ、これから教会の土台となり、柱となれるということです。何故でしょうか。それは、まさに福音の恵みを、彼らがその魂のもっとも深いところで聴き取り、体験させられるからです。つまり、主の真実の弟子であるためには、もともと持っている能力だとか、人柄だとか、家柄だとかなんだとか、一切、通用しないということです。むしろ、それを誇りにしたり、頼ったりするなら、無駄にすらなるということです。私どもに求められているのは、「わたしは罪人の頭なのです」という自己理解です。これは、あの、使徒パウロの言葉です。しかしおよそ、主イエスの弟子たち、主イエスに用いられた人々が等しく、告白する、自己理解なのです。こんなに罪深い人間が、赦された。愛された。だから、その人が、教会において、赦しと愛を語り、平和と愛を語り、憎しみではなく赦し、憾みではなく感謝に溢れた共同体、交わりを築くことができるのです。そのためには、ガリラヤです。復活のイエスさまにガリラヤでお会いいただけるということは、つまり、これまでのすべてを赦され、受け入れられたということが、まさに、そこでこそはっきりするからです。
次に、主イエスが呼びかけられる「わたしの兄弟」、に触れます。ペトロは、冒頭で申しましたように、主イエスから躓きの予告を聞いた時、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いのけたのです。まさに、自信満々の姿があります。それが、古いペトロなのです。そして、そのようなペトロの自己認識、自己理解は、自分は人一倍、主イエスへの愛と信頼が強いというものでしょう。主イエスへの信頼、信仰は誰にも負けないのだという自負心です。自惚れと言ってもよいでしょう。いずれにしろ、彼は、そして彼らは、自分たちは、弟子であり、強い人間だと言う理解です。自分たちは、人をすなどる漁師、人の上に立って、信仰を導き、主イエスを王とするあたらしいユダヤ社会、国家の大臣として、一般の人々や、これまでの権力者たちを従えるべき人間つまり、強い人間であるというものです。
しかし、主イエスは、彼らを「わたしの兄弟」と呼びます。ここには、とてつもなく深い意味が込められています。マタイによる福音書第25章に、三つの譬えが記されています。その最後は、すべての民族を裁かれるという小見出しがつけられていますが、最後の審判の物語です。一部分だけしか引用できませんが、その中でこうあります。
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
このとき、弟子たちは、自分のことを、どう考えながら聴いていたのでしょうか。明らかに、自分は、小さな者ではないと理解したはずです。むしろ、自分たちは、飢えている人、渇いている人、宿なしや着るものもなく、病気になり、牢屋に入れられている人を助ける側の人間、大きな人間だと考えていた事と思います。
しかし今、彼らの自惚れは吹き飛ばされてしまいました。もはや、顔を挙げて生きて行くこともできないような状態になっていると思います。しかし、だからこそ、主イエスは、まさにそのような弟子たちだからこそ、「わたしの兄弟」と呼ばれるのです。つまり、「立派な弟子」だからではありません。立派になる可能性があるから、兄弟と呼ばれるのではありません。彼らが、主イエスにとってまさに、「最も小さい者」だからです。だからこそ、主イエスは、この弟子たちに、仕えて下さるのです。それが、主イエスのディアコニアなのです。弟子たちは、自分たちが、この最も小さな者であるという自覚、しかも、そのような者をこそ主イエスが愛し抜いておられることを、ガリラヤの湖で、ご復活のイエスさまによって身にしみて教えられることになるのです。
もう、時間がありません。残念ながら、語りきることは、まったくできません。彼らは自分のしてしまった裏切りによって自ら傷ついています。しかしそれは、もはや、単なる傷ではありません。この傷によって、主イエスと深く結ばれることができる、接点とされるのです。そして、主イエスが十字架で受けられた傷によってこそ、彼らの傷は癒されるのです。しかも、癒されても、その傷痕がまったくなくなってしまうのではありません。この魂の傷は、傷痕がはっきりと残るのです。そして、この傷痕によって、主イエスの愛と憐れみを深く信じることができるようにされるのです。
さらに、主イエスの弟子として、かけがえのない者とされます。つまり、自分自身が最も小さな者として、主イエスに顧みられたので、最も小さな者への憐れみの心が植えつけられるからです。確かに人間は、愚かですから、彼らもまた、その後、高慢になるときもあるかもしれません。実際に、ありました。しかし、その度に、彼らが、主イエスの傷によって癒された自分の傷痕を見れば、言いかえれば、復活のイエスさまに再び出会っていただいたガリラヤに、その度に戻ることができれば、何度でもやり直し、悔い改めることができます。つまり、自分こそ、もっとも小さな者であること、だからこそ、主イエスの兄弟とされていること、だからこそ、じぶんもまた最も小さな者に仕えなければならないことを、繰り返し悟らされるのです。
今朝は、復活の主の日です。私どもは、礼拝堂におります。今朝も、2000年前の物語を読みました。しかし、この物語は、同時に、今を生きる私どもの物語でもあります。主イエスは、あれから2000年、ご自身の弟子たちを、「人間をすなどる漁師」として育て、養い続けておられます。そして、そのために、「ガリラヤに帰りなさい、あの場所に戻りなさい、そこで会おう」と招いておられます。それなら、私どものガリラヤとはどこでしょうか。私どもの信仰の出発点、原点。それは、教会です。教会に帰ることです。こここそ、私どものガリラヤなのです。
先週の歩みのなかで、どんなに惨めな信仰生活であったとしても、私どもは、ここで主に新しく出会って頂きます。主イエスが先回りして、待ち構えていて下さいます。しかも今朝、主イエスは、いのちの食卓で、聖餐の礼典をもって、もてなして下さいます。私どもは、こうして、主の日の度ごとに、罪の赦しを新しく受け、何度でも立ちあがることが赦されて行くのです。そして、ここから私どもも出かけて行きます。人間をすなどるためです。人々に主イエスを紹介し、主イエスに導くこと、お連れすることです。小さな者に仕えるためです。主の愛を分かち合って共に生きることです。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、今朝も、主イエスがここで先回りをするかのようにして、ここで待ち構えて、私どもに罪の赦し、いのちの糧を豊かに与えて下さいました。自分自身がもっとも小さな者であり、それゆえに主イエスの兄弟とされたこの原点に立ち留まらせてください。そして、そこから人間をあなたへとすなどる伝道の働き、また隣人になるための奉仕の働きへと、私どもの教会を導き続けて下さい。主の復活のみが、人を癒し、救い、立ちあがらせることができることを、大胆に証させて下さい。アーメン。