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「正々堂々と生きる」

「正々堂々と生きる」
              2013年9月22日
マタイによる福音書第28章11~15節
【婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。】

前回まで、マタイによる福音書の頂点となる主イエスのご復活の喜びの物語を四回に分けて学びました。さて、本日び説教のテキストとして、その直後に記された物語が与えられています。わたしは、この個所を読むと、何かとても嫌な気持ちがしてしまいます。今、朗読しましたが、ここで企てられ、実行したことは、人として、まことに嫌悪すべき行為ではないでしょうか。

さて、マグダラのマリアたちは、安息日が明け、日曜日の朝日が地平線から昇るのを、待ちきれない思いの中で、主イエスが葬られた墓を目指して走りました。そして、その墓で驚くべき光景を目撃します。彼女たちは、天使による神からの伝言と何よりもご復活の主イエスご自身からの伝言を受けました。ガリラヤで主イエスにお会いできるとのご復活の主の御言葉、また、目撃した数々の出来事を弟子たちに伝えるために走りました。マリアたちは、喜びに溢れ、一刻もはやく報告したいとの思いで走ります。

さて、そのとき、同じように走った者たちがいました。番兵たちです。彼らもまた、自分たちにゆゆしい、大変なことが起こってしまったことを告げるために、不安と恐怖にかられながら、自分たちを派遣した祭司長たちのところに急いで走ります。彼らの足は、女性たちより早く、エルサレム神殿にいる祭司長たちのところに到着しました。そこで「すべてを報告」します。

この驚くべき報告を受けた祭司長たちは、すぐに長老たちも集めて議論しました。さてそもそも彼らは、主イエスを殺した者たちです。それは、リンチではなく、裁判による合法的な殺人でした。しかし、裁判は形式上の事で、証拠不十分なものでした。不十分どころか、偽りの証言が採用されました。彼らは、主イエスを殺すことに最初から決めていたのです。

ここで、あらためて考えてみましょう。そもそも、主イエスを、どのような律法違犯の罪状で死刑を求刑し、執行したのでしょうか。主イエスの決定的な罪状とは、偽りの証言をしたというものでした。大祭司は、裁判の折、このように、いきり立って言いました。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」主イエスは言われました。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」このとき、大祭司は「神を冒涜した」と叫びました。イエスは、自らを神と称した。つまり、自分を神に置き換えるような偶像礼拝者であり、人を偽るとんでもないことを語った者だと断罪したのです。

第27章62節以下には、彼らの主イエスに対するまさに典型的な見方、評価が示されています。あらためて読んでみます。「明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。」実に、ユダヤの宗教指導者たちは、主イエスを「人を惑わす者」と呼んだのです。これほどの欺瞞があるかと思います。いったい、どちらが「人を惑わす者」なのでしょうか。どちらが「嘘つき」なのでしょうか。「自分は三日後に復活する」と主イエスがおっしゃったことは、実現したのです。権力者たちこそ、まさに「人を惑わす者」であり、「人をだます者」に他なりません。

彼らは、番兵の報告をどのように聞いたのでしょうか。言葉通りに信じたのでしょうか。結論を先に言えば、信じませんでした。確かに彼らは、番兵たちの興奮した様子や、報告を聞いて、これは、とんでもないことになってしまったと思ったはずです。しかし、肝心の主イエスに対する誠実さも真実も、まったく持ち合わせていませんでした。しみじみと思います。主イエスをその妬みにかられて殺してしまった彼らにさへも、まだチャンスは残されているのです。今こそ、主イエスに対して犯してしまったおそるべき犯罪、神への罪を認めたらよいのです。悔い改めたらよいのです。そのようにして、神に自らの罪の赦しを祈り願い出たらよいのです。今からでも決して、遅くはありません。今こそ、主イエスにすがって、主イエスをキリストと信じるべきです。

ところが、彼らは、まさに最悪の態度をとります。罪を悔い改めようとしない人は、いよいよ、神の前に罪に罪を重ねてしまうことになってしまうのです。彼らは、この世の権力者らしい、あまりにもこの世の権力者らしい行動をとります。お金で黙らせようとするのです。番兵たちは、あっけなく金の力に負けました。彼らは、祭司たちに命じられた通り、『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と嘘をつきます。偽証するのです。
ただし番兵たちは、ローマ総督ピラトにも、報告の義務があること、また、見張りの責任があることをわきまえていました。しかし、彼らは、自分たちがお前たちの身の安全を保証するから、言われたとおりにしろと約束します。

さて、いったい私どもは、この個所から、何を学ぶべきでしょうか。宗教指導者たちは、主イエスこそが偽メシア、人を惑わす者だと攻撃し続けました。しかし、今や、はっきりと本当に人を惑わす者は、彼らに他ならないことが明白になりました。主イエスを殺したのは、単に過失だとか、自分の弱さや愚かさであったと言い訳することは、もはやできないと思います。彼らは、一応、神を知っています。神に仕える身、少なくとも宗教家なのです。しかし、その彼らが、神の御前で、故意にユダヤの人々を騙すのです。人を惑わす偽りの報告をすることを決断し、実行するのです。

聖書は、この世の現実のおぞましさをまっすぐに見つめます。隠そうとしません。この世がどれほどねじ曲がり、真実を平然と曲げてでも、自分の利得、利権を守り、拡大しようとするものであるかを、描き出します。世界史を振り返れば、権力者たちが、自分たちのために権力を行使するとき、彼らは必ず、情報を自分たちの都合のよいように操作して流します。権力者が、権力とは市民の平和のために与えられたものだと理解しないとき情報操作をするのです。確かに、法律には触れないかもしれません。あるいは、法律を換えてしまいます。あるいは、その法律や外国との協定などの中身を、きちんと知らせないまま、法律をつくり、協定を結んだり、自動的に延長させます。要するに、自分たちの利権を得るために都合のよい情報だけを、しかも、市民の素朴な感情に訴えて進めるのです。素朴な感情とは、正義感だったり愛国心だったり、敵への恐怖心だったりします。

今こそ、私どもは、憲法改悪の企てのために、福島第一原発の過酷事故の対応のため、さまざまな情報操作が行われていることを見抜かなくてはならないと思います。かつての戦争も、どれだけの市民が戦争を望んでいたのでしょうか。そのように仕向けられてしまったから、戦争に突き進まざるを得なくなったのだと思います。そして、そのような実例は枚挙にいとまがありません。

しかもそこで、私ども自身の課題も見なければなりません。自分の立場を守るため、嘘はつかないにしても、すべての情報を出そうとしないということなら、どれほどあるかと思います。しかし、結局、そこで何が問われるのでしょうか。それは、結局、人目を気にしているということでしょう。神がすべてをご支配くださり、お裁きくださることを信じ抜けないということでしょう。だから、「倍返し」をしたくなるのだと思います。

もとより、正義と真理のためなら、人は、妥協してはならないはずです。まさに、私どもの問題、世界の問題は、市民が正義と真理のために、少しずつ、勇気を出せば、世界はガラリと音を立てて変って行くハズです。しかし、自分の立場、権益を守り、正義と真理を犠牲にすることが、どれほど多かったことでしょうか。権力の不正や横暴に対して声を挙げないということは、結局、消極的ですが、彼らに賛成することになってしまいます。聖書は、教会を真理の柱である教会と言います。その教会が、これまでも、いへ今こそ、深く問われているのです。私ども日本の教会が、どれほどこの点で失敗して来たことかと思います。しかしまさに今、声を高くあげ、大きな声を出すべき時が来てしまったのです。

著者マタイは使徒です。最初の教会の指導者の一人でした。彼が、この福音書を編んだそのとき、まさにユダヤ社会は、主イエスを殺したあの悪意や殺意をそのまま教会に向けてまさに総攻撃を加えていたのです。「あの十字架で処刑されたイエスの死体を、弟子たちは盗み出した。墓は空っぽ、イエスは復活したなどと愚かなことを言いだし、人を惑わし、社会を騙して混乱させるとんでもない輩だ」当時の教会は、社会秩序、ユダヤ国家を転覆させ、破壊する者たちだという濡れ衣をかぶせられていました。実に、主の復活の福音伝道は、そのような厳しい迫害状況のただ中で始まったのです。

そして、本当に騙しているのは、誰であるのかを教会は知っていました。そして、当然のことですが、首謀者じしんも分かっていました。まことに確信犯です。これは不思議と言えばまことに不思議に思います。何故、人間はそこまで悪を犯し、神と正義、真理と愛を裏切り、破って平然と生きて行こうとするのでしょうか。しかも問題は、権力者ではありますが宗教家たちがしたのです。聖書は、人間の罪の深刻さを正直に、あるがまま、まっすぐに記します。聖書はここではっきりと記してはおりませんが、確かに、サタンが働いているのです。悪魔は、人間の罪の心を足場にして、神への反抗、悪を犯し続けているのです。神の国の進展、拡大という教会の伝道の戦いは、決して「バラ色の世界」の中でなされているのではありません。エフェソの信徒への手紙第2章にあるように、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者」つまり悪の霊との戦いのなかでなされているのです。

今朝の物語を読みながら、つくづく、昔も今も、教会が置かれたこの世界の現実は変わらないということを思わされます。私どもは、堕落したこの世界のただ中で生きて行かなければならないのです。主イエスは、マタイによる福音書第10章で、こう予告をして、私どもを励まして下さいました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」まことにこの世界は、神の民にとって、バラ色の世界ではなくむしろ「狼の群れ」なのです。しかも、そこに派遣されるのは実に羊なのです。羊が狼に勝てるはずは、まったくありません。ただし、例外があります。羊には必ず羊飼いが共にいてくださるという一点です。その羊飼いこそが主イエスです。そして、父なる神であり、神の霊、聖霊なのです。この聖霊の守りの中で、私どもは、「蛇のように賢く、鳩のように素直」になることが命じられています。この賢さとは、神の知恵をもって生きることです。この素直さとは、神にまっすぐに向き合って、神に委ねる信仰の姿勢です。羊飼いが共にいて下さる場所、それこそ、まさに神の国ですが、その地上に始まった神の国に留まる限り、私どもは、まさに、復活のイエスさまがお命じ下さったとおり、「恐れることはない」のです。

結局、この世やサタンとの戦いとは、私どもの戦いではなく、神ご自身の戦いに他ならないことを、忘れてはなりません。そして、十字架と復活後の今を生きることが許されていること、それを、忘れてはなりません。つまり、キリストの復活の勝利は起こったということです。そして、キリストのご復活は、私どもの勝利、教会の勝利であるということです。だから、心配しないでよいのです。恐れてはならないのです。

確かに、教会の将来、日本の教会の将来を、真剣に考える人は、誰でも、深刻にならざるを得ないと思います。しかし、もう希望も可能性もないと、諦めるのであれば、それは、不信仰でしかありません。反対に、このままでも大丈夫と楽観して言うだけの人は、もしかすると偽預言者になってしまうのかもしれません。教会は、キリスト者は、いつの時代も、この二つの間、その真ん中を生きるのです。

マタイの時代は、「イエスの復活は偽りだ、作り話だ」と偽りの噂を流されました。「キリスト教徒たちは、国家を転覆させようとしている危険な団体だ」と、ネガティブキャンペーンをはられて、迫害を受けていました。何よりもこの頃には、既に、ローマ帝国からの迫害も本格化していました。
先月の読書会で学びましたが、今日の私どもの状況も、自民党の憲法草案によって日本国憲法が破棄されてしまえば、大変なことが起こることは、日の目を見るより明らかです。キリスト者や教会は、公の秩序、公共の福祉を阻害し、国益を損なう者たちだと、言われることになってしまいかねないからです。

しかし、マタイは、困難のただ中で、確信を込めて、福音書を編んだのです。「私たちは、ご復活の勝利の後を生きている。それ故に、主イエスの体なる教会の勝利、神の国の完成もまた確定している。キリスト者の将来は確かなものと定まった。偽りのこの世のただ中で、蛇のように賢く、鳩のように素直に、正々堂々と生きて行こう。そして、神の国の完成のために復活の証人となり、愛と奉仕に生きて行こう」そう、宣言しているのです。その理由を、福音書において提示したのです。つまり、十字架に死んで下さった主イエスは、お甦りになられたからです。確かに、この世に、絶対と言えるものはないかもしれません。しかし、主の約束の御言葉だけは絶対です。神の御業に反抗し、神の御業に勝利できる人間も、サタンもいません。主イエスは、人をだます者ではなく、主を殺した者たちこそ、騙す者であり惑わす者です。歴史の審判は、すでに出ています。最後の審判で、すべては決着します。私どもは、この先輩たちの信仰の確信にもとづく戦いを今日に受け継ぎたいのです。

先月の読書会で、これは、礼拝式では歌わない讃美歌なのですが、「わたしたちは勝利する」を歌いました。20世紀の有名な、反戦歌です。マルチン・ルーサー・キング牧師の自由を求めた戦いに同伴した歌です。
ここでの私たちとは、誰のことでしょうか。確かに、自由と平和、愛と正義を求めて戦ったすべての民衆のことだと思います。しかし、私は、単なる民衆の勝利ではないと考えます。この歌は、神の約束、神の勝利を信じるからこそ歌える歌だと思うのです。その実現のために戦う人たちは勝利すると信じる時、歌えるのだと思うのです。つまり、キリストの復活を信じないところでは、歌えないと言うことです。それゆえ私どもは、この歌を歌えるはずです。

マタイによる福音書を読み終えようとする今、そして、この国がいよいよ崩壊し、後戻りできない危険な状況にある今こそ、みんなで、祈りのスクラムを組みましょう。祈りのあるところに、必ず道が開かれます。私たちは勝利します。神の国が、この世の偽りの力に負けるはずがないからです。私たちの戦いは、必ず実ります。教会は、前進します。名古屋岩の上伝道所は、必ず、いかなる壁をも乗り越えて進みます。何故か、私どもは神の教会だからです。キリストの体であるからです。神の民とされ、この弱い羊たちを導かれるのは、復活された大牧者でいらっしゃるイエスさまだからです。私たちは、必ず勝利します。ですから、正々堂々と生きて行きましょう。

そのために、一つ、弁えましょう。自分の生活、自分の人生の計画を優先するまさにその誘惑に抵抗しましょう。そのまったく小さな一点において、サタンは、教会を破壊し、福音の喜びに生き生きと明るく生きることを妨げます。皆で祈りのスクラムを組んで、突破して行きましょう。キリスト者である私どもが、信仰に立って、信仰の勇気をもって生きることです。選び取ることです。それによって、この世界もまた、勇気をもって立ちあがるでしょう。
確かに、私どもはそうは言われても、「既に何度も、自分の弱さや過ち、罪の故に倒れてしまった。」と言いたくなるかもしれません。しかし、論より証拠、そこで終わらなかったはずです。大牧者イエス・キリストが、私どものガリラヤ、つまり、教会の交わりの中で、何度も立ちあがらせて下さったはずです。主イエスと結ばれた者たちは、ノックダウンすることはあっても、決っしてノックアウトされることはないのです。サタンは、主イエスの勝利の前に既に、敗北者なのです。サタンの勝利という偽りの情報に、騙されてはなりません。主イエスの勝利は、私どもの勝利です。私どももまた、必ず、勝利します。神の国は、この地上に完成し、わたしどもの奉仕は、一つも無駄にならずに、豊かに実ります。

祈祷
主イエス・キリストがご復活されたことは、ただ信仰によってのみ理解することができます。その救いの信仰を、聖霊によって与えて下さいました幸いを心から感謝致します。どうぞ、この信仰によって私どもをいよいよつくり変え、新しくしてください。立ちはだかる困難の壁を乗り越えて進ませ、倒れてももう一度立ちあがる力を与えて下さい。偽りのこの世の中で、戦い破れ、諦めて、長いものに巻かれて生きようとする人々が大勢います。彼らのためにも、私どもに勇気を与え、権力にもお金の力にも負けずに進ませて下さい。主のご復活の証人の一人として、残された私どもの生涯を尊く用いて下さい。アーメン