★ 2週連続、説教奉仕から離れるということは、25年の牧師の歩みの中で、記憶にないことのように思います。改めて、お支え下さいました皆さまに感謝致します。
☆ 8日は、岩手県の宮古コミュニティーチャーチで礼拝式を捧げました。当日は、岩塚牧師の説教ではなく、川崎の教会の宣教師の先生の説教を伺いました。既に、何度目かの支援とのことです。今回は、教会で奉仕者チームが組まれ、コンサートなどを、数日間なされるとのことです。私も、主日の午後、岩塚牧師とこのチームの皆さまのお働きを拝見させていただきました。その日は、宮古市の社会福祉協議会主催の大きな夏祭りが行われました。その中で行われた野外(駐車場)コンサートで、宮古教会が「トリ」を務められたのです。しかも、賛美は、川崎の教会自作のものが中心で、福音をストレートに語った詞でした。若い姉妹が、曲の合間に証や歌詞の説明をされました。実に、讃美歌が、このような場でなされるまでに、宮古教会の岩塚牧師を中心にして進められた被災地ディアコニアが積み重ねられたのです。震災以前は、地域との接点がなかった教会とのことでした。これは、東北のこの教会だけの課題ではなく、日本の多くの教会の現実だと思います。しかし今や、岩塚牧師は、社会福祉協議会のスタッフや被災者から、挨拶やらお礼を言われる姿を横で拝見することができました。震災の深い悲しみと痛みを担いながら、しかし、そこで教会の存在が地域社会に深く認知され、さらに感謝され、頼られている姿を拝見できました。大きな励まし、喜びでもありました。「ディアコニアに生きる教会」私どもが祈り求める教会の姿の一つの典型が、そこにありました。
★ 震災を機に、信仰に導かれた方が既に10名余、いらっしゃるとのことです。わたしも、ひとりのご高齢の姉妹が、喜びに溢れて、洗礼を受け、永遠のいのちを授かった喜びを、家内に一生懸命証し、感謝しておられるお顔を拝見しました。昔、東北のキリスト者は、洗礼を受ける人は少ないが、一度、信仰に導かれたら、堅固な、忍耐強い信仰者に育つと、東北出身の友人牧師に伺ったことがあります。被災地の教会とそこに生きる牧師と信徒の皆さまのために、いよいよ祈りたいと思わされて帰路につきました。
☆ 15日は、名古屋にある名古屋ハリストス正教会(オーソドックス教会・東方教会)の「奉神礼」、(主日礼拝式のこと)にあずからせていただきました。実は、17年ほど前に、ニカヤ信条を意識的に礼拝式で唱える教会としての問題意識と関心から、復活祭に参加させていただいたことがあります。それは、土曜日深夜から始まる4時間もの「奉神礼」で、私には、何冊もの礼拝学の専門書を読むより、大きな学びとなりました。その後、司祭さまと、ニカヤ信条についての何度かの文通の思い出があります。そして今回初めて、主日礼拝式に参加させていただき、大変、大きな喜びにあずからせていただきました。その第一は、司祭の説教でした。私どもの礼拝式は、説教と聖餐の礼典を中核とします。そして、聖書朗読と説教は、まさに、礼拝式の要です。しかし、肝心の説教が、どれほど福音の生命を証することが、できているのか。それは、今日の我々の厳しい自己批判です。ハリストス(キリストのこと)教会は、もとより「説教中心」ではありません。2時間の礼拝の中で、おそらく10分余であったと思います。しかし、福音書から、キリストの福音を、情熱を込め、まっすぐに語っておられました。その他にも、私どもが学びとるべき気づきは、いくつもあります。今、祈祷会では、「礼拝指針」の学びを行っていますから、少しずつご紹介できるかと思います。帰りがけ、司祭さまとしばし交わりの時を与えられ、高価な訳書を二冊も頂いてしまいました。当然、この教会で、ニカヤ信条(翻訳は異なりますが)を唱えながら、公同教会に繋がる絆としてのこの信条が、地上の立場を異にする日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所と名古屋ハリストス正教会とも、結び合わせる帯となっている現実を思い、主の御名を崇め、感謝しました。そして、私どもの教会が、改革された教会としていよいよ福音のいのちの喜びに溢れる教会となるために、ふさわしい礼拝式を捧げるべきこと、そのことを深く思わされました。
★ 先日、先の読書会の参加者の方が、教会をお訪ね下さり、私どもの読書会のレポートを掲載した機関紙を届けて下さいました。皆さまに配布致します。【牧師さんやその後に行われた信者の方々の発言を聞いていると、一時の感情や義憤でなく、「自民党憲法改正草案」を阻止することが自分たちの信仰上のたいせつなことなのだと捉えていることに新鮮な驚きを感じた。まさに、ここに私が思っている以上に事態を深く憂慮している人たちがいたのだ。私は今後活動していく上での新たな友軍を見つけた思いで、彼らから力をもらったことは確かだ。】と結んでおられました。本当に、嬉しい事です。相手の人格を尊重し、思想・信条の違いを受入れあいながら、共に事実(真実)を学び、議論することのできる場。それが、教会の可能性だと信じます。