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「なお疑う者をも」

「なお疑う者をも」
              2013年9月29日
マタイによる福音書第28章16~20節①
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】

今朝から、いよいよ、マタイによる福音書の結びの言葉を学びます。およそいかなる文章も、とりわけ文学作品であれば、結びの言葉、最後の言葉は、著者がもっとも力を込め、考え抜いて書く個所だろうと思います。そして、この福音書も例外ではありません。わたしは、皆さまと共に、この御言葉は暗記したいと願っています。子どもの教会では、毎週、「暗唱聖句」を致します。これは、日本の教会の日曜学校の一つの伝統なのだろうと思います。日曜学校運動の源流のイギリス、欧米の教会では、分かろうが分かるまいが、とにかく子どもたちに御言葉を覚えさせることが大切だという、一つの教育観に基づくものだと思います。大人になって教会に導かれた方々も、少なくとも聖書の中のいくつかの重要な、鍵となる御言葉は、あるいはギリシャ語の単語でも、暗記してしまわれることは、信仰生活の上で、大切なこと、力になることかと思います。そして、今朝の御言葉はまさに、暗唱聖句の筆頭だと思います。キリスト教界においてこの御言葉は、「主の大宣教命令」という言い方で、多くの人に知られています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」主イエス・キリストご自身の、実に格調高いご命令の御言葉です。教会への高らかな勝利宣言であると同時に宣戦布告でもあります。命令であると同時に慰めの御言葉でもあります。

さてしかし、今朝は、この大宣教命令を学ぶ前に、短いけれども、とても気になる御言葉、しばしば読み飛ばされやすいこの個所を掘り下げて学びたいと思います。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」

先ず、主イエスが支持しておかれた山についてです。主イエスが弟子たちにご復活のお姿を示されたガリラヤの山とは、どこでしょうか。しかし、その場所のことは、あまり意味がありません。重要な事は、山であったということです。山とは、旧約の歴史以来、神がその民にご自身をあらわされる特別の場所を意味します。つまり、ご復活されたイエスさまとは、まことに「光よりの光、真の神よりの真の神」でいらっしゃるということが、つまり、信仰によってしか捉えることのできない生ける神ご自身に他ならないという真理が、まさに決定的にあらわにされる舞台なのです。

こうして、復活の主イエスにお会いした弟子たちは、主にひれ伏しました。つまり、もし人間が、神にお会いしたなら、もし人が、自分の救い主にお会いしたら、その人は、そのお方の前に、肩を並べるように向き合うことなど決してできません。そのお方を、単に研究してみたり、調べて批評してみたりするなどということは、あり得ません。人間が、神に向き合うことが許されたとき、とりえる態度は、本来、ただ一つのはずです。つまり、ひれ伏すことです。私どもの言葉で言えば、礼拝を捧げることです。礼拝を捧げるとは、自分自身の全存在をもって、このお方をこそ、自分の全存在以上に価値がある、自分のすべて家族や他のいかなるものにもまさって、大切なお方でいらっしゃると告白することです。遂に、弟子たちはここで、主イエスに対して本来あるべき態度をもって、つまり礼拝する対象として、向き合うことが許されたのです。

ただし、もしかすると、もう忘れてしまっているかもしれませんが、マタイによる福音書によれば、実は、弟子たちは、既に一度、イエスさまにひれ伏したことがありました。それは、第14章に記されています。弟子たちだけでガリラヤの湖の上を舟を進めていた時、嵐にあって行き悩んでいたとき、主イエスが海を歩いて近づいて来られたときのことです。最初、ペトロたちは、イエスさまを幽霊だと思って怖がりました。しかし、主イエスであることが分かると、ペトロは自分もまた海を歩いて、近づけるようにしてくださいと願いでました。主に促されて、ペトロもまた海の上を歩きはじめました。ところが、ペトロが強い風が吹いていることに気がついて、主イエスから目を離したそのとき、沈みかけ、溺れかけたのでした。そして「主よ、助けて下さい」と叫んだ時、主イエスは、ただちに手を伸ばして助けて下さいました。弟子たちは、この出来事を目撃して「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスさまを礼拝したのです。確かに、このときにもひれ伏していますが、それは驚くべき奇跡を目のあたりにしたからです。

しかし今、彼らが礼拝したのは、ただ復活されたイエスさまにお会いして、ただそれだけのことでした。しかし、その復活者でいらっしゃるイエスさまにお会いしたとき、まさに、これまでのすべての誤解、過ち、不信仰が溶かされたのです。それは、目の前にいらっしゃるイエスさまを、確かに、かつてと同じ人間のお姿であることは、変わりがありませんでした。しかし、その人間イエスさまを、「光よりの光、まことの神よりの真の神」でいらっしゃるお方として信じたのです。

逆から言えば、ご復活の出来事は、まさに、イエスさまの神性、イエスさまが神の御子でいらっしゃることを明らかにした出来事でした。そして、人間の究極の敵、最大の敵、絶対的な力をもった圧倒的な敵である死を、ご自身の死をもって滅ぼし、死からの甦りによって死に打ち勝った神の御子、究極の勝利者、主権者、救い主でいらっしゃるイエスさまにお会いすれば、人は誰でも、ひれ伏す以外に、つまり礼拝を捧げる以外に本質的な選択肢はあり得ません。

さて、ところが、マタイによる福音書は、「しかし、疑う者もいた。」と、さらっと付け加えるのです。いったい、この一文は、マタイによる福音書にとって不用なものではないか、そう思ってしまう方はいらっしゃらないでしょうか。つまり、この情報は、教会にとって、キリスト教にとって、決してプラスにならないと思うからです。しかも、この事実は、11人の弟子たちだけが知る事実なのです。ですから、敢えて書く必要などないのではないかと思います。削除した方が、将来のためになるのではないかとすら、余計なことかもしれませんが、思ってしまいます。しかし、当然のことながら、神の御言葉に無駄な言葉、削除すべき個所はありません。

いかがでしょうか。皆さまの中で、この「しかし、疑う者もいた。」という文章をお聞きになって、ただちに、ひとりの弟子の名前を思いだされる方も少なくないと思います。それは、トマスです。ヨハネによる福音書が、このトマスが、弟子たちのなかでひとり、イエスさまが復活されたという情報を信じなかったのです。彼は、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。そして、遂に、彼は、ご復活されたイエスさまにお会いして、こう告白したのです。これは、ヨハネによる福音書のクライマックスです。「わたしの主、わたしの神よ

ですから、このマタイによる福音書の記事を読むとき、ああ、これは、トマスのことを、ここでマタイなりに記しているのだろうと理解されるかもしれません。ところがマタイによる福音書は、「疑う者」と記された言葉は、複数形になっているのです。つまり、なお疑っていたのは、一人、トマスに限定していないのです。これこそは、重大な事実ではないでしょうか。主イエスが特別に選ばれた11人の弟子たち、弟子たちの中の弟子たちとも言うべき彼ら、後に、「使徒」という特別の重みをもった職務として、呼ばれる人々です。その使徒たちの中で、少なくともトマス以外にもう一人、なお疑った者がいるというのです。いったい、これは、誰なのでしょうか。そして、繰り返しますが、何故、そのようなことを書かなければならなかったのでしょうか。

一つ、このような仮定、想像することができるかもしれません。マタイによる福音書が編まれた時点で、既に11人の弟子たちのなかで、死に至るまで主に従い抜けなかった人がいたという推測です。その人のことは、教会のなかで、すでに知られている事実なので、ここでマタイは、「あの躓いて、主に従い抜けなかった指導者は、本当のところ、ここでなお疑っていた人なのです。つまり、最初から、あの人は、信仰の指導者、弟子であることはできなかったのです」と、自分の福音書で、種明かしをしたのだというものです。しかし、これは、歴史の事実からも否定されるはずです。教会において、11人の弟子たちは、全員、殉教した人たちだと言い伝えられてきたからです。

それなら、この「なお疑う人」、そのように言わば情けない人とは、誰のことなのでしょうか。わたしは、今回の説教の準備の黙想の中で、初めて、この問題に気づかされ、そして、その人のことを想像してみました。その意味で、これは、わたし自身の個人的な推測でしかありません。しかし、わたしは、この「なお疑う者」とは、トマスの他に、自分自身ではなかったかと思うのです。その理由は、トマスのことは、誰もが知っていた事実です。しかし、彼以外のことで、誰が、なお疑う人だと、他の弟子たちのことをあてこするような、言い方ができるだろうかと思うからです。そのようなことを、はっきりと書けるのは、疑っていた当の本人だけではないでしょうか。

ただし、大切なことは、誰が疑ったのかという犯人探しをすることではありません。人間とは、本当に、疑い深い者だということが、聖書によって、まさにはっきりと記されているということです。つまり、聖書は知っているのです。言葉を換えれば、神はご存知なのです。人間は、まことの神を正しく信じるということが、どれほど難しいことであるのか、ということです。神を礼拝するということが、どれほど困難であるのかということです。実に、主イエスのご復活を目撃しても、なお、これをまっすぐに信じ、受け入れることは、人間の理性では極めて難しいのです。人間のさかしらな理性、愚かな知性、頑なな精神では、神を信じ、礼拝することは、ほとんど不可能だということです。

しかし、今朝の説教で、最も大切なことがあります。ここを、聴きとらなければ意味がありません。それは、なお疑うマタイ、なお疑うトマスのような人であっても、主イエスは、偉大な使徒に変容することができるということ、その事実です。実は、トマスの名を持って書かれた福音書があります。もとより、それは、聖書ではありませんし、そもそも、トマスが書いた者と信じる人はおりません。しかし、このトマスが、はるかインドまで伝道に行ったということは、教会の伝承として言い伝えられ、これは、ほぼ歴史的な事実と言えるかと思います。まさに、偉大なる伝道者になったのです。そして、言わずと知れたマタイは、このマタイによる福音書の著者となりました。彼らもまた、私どもの信仰の偉大な教師であり模範です。しかし、その彼らが、ご復活のイエスさまを前にしてもなお、頑なな思い、自分の全存在を捧げて、イエスさまを主、神として礼拝できなかった時がなおあったのだと告げるのです。

さて、次に、私どもは何よりも、このような弟子たちに向き合ってくださったイエスさまのお姿、御言葉にこそ、しっかりと心を向けましょう。向き合いましょう。主イエスは、山の上で、なお疑うこの弟子たちのあるがままの姿を受けとめていらっしゃいます。イエスさまは、誰が、疑ったのかをご存知なかったわけでは決してありません。ところが、主イエスは、すべてをご存知で、お見通しの上で、こうお命じになられたのです。大宣教命令を宣言されたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」このご命令そのものによって、決定的に明らかにされている真理があります。それは、そのようなあなた方であっても、いへ、そのようなあなたがただからこそ、復活のわたしのことを世界中に出かけて行って、すべての民をわたしの弟子とすることができる。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けることができる。キリストの弟子たちを教育し、訓練し、指導できると言う、弟子たちへの徹底した信頼です。
 
私どもは、信仰において悔い改めるということがどれほど生命的に重要であるかを学んでいるはずです。信仰と悔い改めとは、コインの裏表であって、切り離せないものであることを、学んでいると思います。しかし、マタイによる福音書は、この28章において、弟子たちが、裏切りの罪、主イエスに対して犯した究極の罪について、いわゆるどこで、主イエスに懺悔し、悔い改めたのかということが、記されていません。これは、不思議ではないでしょうか。あまりに当たり前のことだから、記されていないと言う理解も成り立つでしょう。ここに、福音書の力があると思います。あえて人間的な表現を用いれば、福音書の魅力があるように思います。

ご復活されたイエスさまは、ご自身を裏切った弟子たちを、誰よりも愛し、心を配っておられることは、これまで学んだ通りです。一分一秒でも早く、彼らに、ご自身のご復活の事実を告げるようにと、マグダラのマリアたちにお命じになられました。そのような主イエスの赦しのメッセージは、すでに弟子たちの心の琴線に触れているのは疑えません。ですから、彼らもまた、なお、心にわだかまりを覚えつつも、ガリラヤに赴き、命じられた山で、主とお会いしたのです。自分たちのした不信仰と無理解の事ごとを、心から悲しみ、懺悔していることは、明らかだと思います。ですから、主イエスは、彼らに徹底的な赦しの福音をもって向き合われたのです。

聖書には、主イエスの復讐とか倍返しとかがありません。主イエスは、弟子たちを、極みまで愛されたのです。だから十字架につかれたのです。彼らを愛しておられなければ、十字架に赴くこともなかったのです。その意味で、最初から最後まで主イエスは、まさに真実に彼らに向き合い続けておられます。そして、それは、私どもにおいてもまったく同じです。主イエスが、今朝、ここに招かれた私どものことをどれほど、愛し、信じ、期待しておられることかを、深く、心に刻みましょう。わたしは、ここで、すでに洗礼を受けておられる会員に限定して語っているつもりはありません。まだ、洗礼を受けておられない方々もまた、主イエスは、その最初から愛と真実とをもって、向き合っておられます。そして、信じることを待っておられます。

いわんや、信じていてもなお疑う、本当に、申し訳ない弟子である私ども、いへ、これは、「私ども」と申してはなりません。そのような「わたくし自身」をも、愛し、赦し、信頼し、この世界でもっとも大切な働きに他ならない福音の伝道へと、呼びだしていてくださるのです。

私ども教会とキリスト者の存在理由である、伝道するということは、復活の主イエスにお会いした者たちが、等しく命じられたこと、命じられていることです。聖書は、洗礼を受けたキリスト者と伝道するということを、決してわけて考えていません。キリスト者とは、なお疑う者であっても、しかし、そのままで、キリストの復活の証人とされる道が約束され、開かれているのです。

そこで大切なことは、二つです。それは、弟子たちの共同体から離れないということです。弟子たちは、11人全員で山に登ったのです。これこそが、第一に重要なことです。この山とは、現代の私どもにとっては、教会です。主日礼拝式です。ここにおいて、ご復活の主イエスからのいのちと力を注がれることが、私どもが主の弟子であることに不可欠なのです。つまり、ここで、主の恵みを豊かに受けることです。すべてはそこから始まります。

第二は、御言葉に従う一歩を踏みだす事です。行動です。伝道へと、主を証するために、自分の殻を打ち破って、隣人となる一歩を踏み出すことです。そのとき、わたしは世の終わりまで、あなた方と共にいるとの主の約束が、事実、分かるからです。洗礼を受けたキリスト者は、いつ伝道するのでしょうか。いつかではありません。自分が、自分で納得できるような信仰者になったと思うその日ではありません。私どもが洗礼を受けたということは、公的に伝道する資格を付与されたと言う意味なのです。もとより、誰でも最初からうまくできるわけがありません。先輩の真似をするようにして、試行錯誤を始める以外にないでしょう。しかし、キリスト者とは、ご復活のイエスさまを信じ、従うところから出発するのです。伝道する自分自身が、なお疑い、なお落ち込み、先週でいえば、ノックダウンされてしまうことすらあるのです。しかし、それでも、かまいません。その自分を、信頼し、愛して立ちあがらせて下さるそのイエスさまを証するのです。ここで、キリスト教会の歴史が始まるのです。そして、教会の歴史とは、この主イエスの大宣教命令に従う者たち、一歩踏み出した者たちによって担われてきたのです。私どもも、今朝、心新たに一歩踏み出せるのです。

祈祷
主イエス・キリストがご復活されたことが、まさに、あなたからたまわる信仰によってのみ理解することができることを思います。そのような救いの信仰を、聖霊によって与えて下さいました幸いを、今朝も心から感謝致します。しかし、信じてなお疑うことのある私どもであります。主よ、憐れんで下さい。しかし、そのような私どもに、大宣教命令をお与え下さいます。あなたのわたしどもへの赦しの愛と信頼の深さに、心から驚かされます。父なる御神、どうぞ、あるがままの私どもの信仰と志をもって、今週も、どれほど小さく、拙い歩みであっても、主の御教え、主のご命令に生きる歩みをなさせて下さい。聖霊なる御神よ、私どもを力強く導いて下さい。この一週間、あなたが共に歩んで下さるその確かな事実を深く味わい、喜ぶことができるようにして下さい。
アーメン