「天と地のあるじ-神を小さくするな-」
2013年10月6日
マタイによる福音書第28章16~20節②
【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】
今朝は、いよいよ、先週、学びました「主の大宣教命令」と呼ばれる個所を学びます。先ず、大宣教命令の冒頭の一句、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」に集中致します。これは、主イエスの言わば、勝利宣言です。そして、この宣言を言い換えれば、こうなるでしょう。「わたしは、天地の主なのである。」「わたしこそが、天と地の主権者なのだ」ということです。
この勝利宣言を聴くときに、おそらく、わたしどもはすぐに、ニカヤ信条の言葉を思い起こすだろうと思います。「我らは天と地と、すべての見えるものと見えざるものとの創造者にして、すべての主権をもちたもう父なる、唯一の神を信ず」です。この個所は、父なる御神への信仰告白です。創造者であって、すべての主権を持っておられるのは「父なる、唯一の神」だと、ニカヤ信条は告白します。その次に、ただちに「我らは唯一の主、イエス・キリストを信ず」と、御子なる神でいらっしゃるイエスさまについても、告白し、賛美します。つまり、御父の権威や尊厳と御子の権威と尊厳は、まったく等しいことが告白されているわけです。いずれしろ、ニカヤ信条は、父なる神の主権、御子なる神の主権を合わせて告白しているわけです。
今朝、私どもが集中して学ぼうとする「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」という御言葉は、まさに、このようなすばらしい信条を直接生みだした御言葉であると思います。それだけに、今朝は、これまでの説教以上に、特に、イエスさまのご本質についての言わば神学的に掘り下げて学びたい、学ばなければならないと思います。そして、それがどれほど、私どもの信仰生活を豊かにするのか、私どもの人生に莫大にすばらしい影響を与えるかを共に味わいたいと思います。まさに、これを知ると知らないとでは、私どもの生き方が変わります。生き方に大きな差が出てしまうと言っても、言い過ぎではないと思います。
大学生の時、「あなたの神は小さすぎる」という書物を読んだことがあります。詳しいことは忘れてしまいましたが、この題名のインパクトだけは、残っています。今朝の説教題には、副題として「神を小さくするな」とつけました。わたしどもの主なる神を、小さな神にすることがないようにと心から願います。
さて、私どもは、これまで四年に渡って、マタイによる福音書を読んで礼拝式を捧げてまいりました。そこで学んだ主イエスとは、どのような主イエスでいらっしゃったのでしょうか。それは、復活前のイエスさまでいらっしゃいます。おとめマリアから肉体を受けて人となられ、時至り、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と神の国の福音伝道を始められ、十字架につけられるまでのイエスさまでいらっしゃいます。今何故、あえて、そのような当たり前のことを改めて確認したいのかと申しますと、それは、ご復活前のイエスさまとご復活後のイエスさまとでは、そのご本質においては、確かに、まったく同じご存在でいらっしゃいます。しかし、はっきりと異なる点も生じました。
それは、イエスさまが死んで三日目にご復活されたからです。主イエスの十字架と復活の御業が成就したということは、ニカヤ信条で言う「我ら人類のため、我らの救い」が、今や、成就したということだからです。つまり、我々人類の歴史にとって、決定的な出来事が起こったということです。
そして、主イエスのご本質におけるこの変化が、世界に、つまり人類にとっても、まさに決定的な変化、根本的な差がそこで生じたのです。どこかのテレビ番組で、「その時、歴史は動いた」というキャッチコピーがあります。人類の歴史が本当の意味で動いたのは、まことに主イエスが十字架で死なれ、お甦りになられたこの時なのです。
たとえば、3:11の大震災前と後では、日本の社会は異なっていると思います。政治の世界や経済の世界では、これをなかったかのようにふるまうことが、実にたくさん出てきています。しかし、少なくとも、環境において、自然界においてあの福島第一原発の大事故による放射線の被害は、なかったことになどできません。それは、福島県の一つの町で起こりましたが、日本中を、さらに言えば、世界規模で自然界に決定的な傷、損傷、汚染を今なお、もたらし続けています。歴史において巨大な事件が起これば、それに無関係で生きれる人など誰もおりません。日本人にとってだけではなく世界中の人々にとって、究極の事件とは何でしょうか。
教会は、歴史を数えるとき紀元前と紀元、BCとADとに分けて考えます。その区切り、ポイントにしたのは、イエスさまのご降誕でした。しかし、今朝は、クリスマスの出来事を学ぶのではありません。主のご復活を学んでいます。ご復活は、紀元30数年の出来事であります。主のご降誕ではなく、主のご復活を、歴史の転換点、ポイントにしても良いように思います。しかし、今朝、私どもは、この点だけを確認しておけば十分です。主イエスがまことの神でありながら、マリアから肉体をとってお生まれになられたという信仰に立つことができたのは、いったい、いつであったのか、どの時点だったのでしょうか。それは、クリスマスのその時ではありませんでした。ご復活のイエスさまにお会いした、その後のことです。つまり、イエスさまがどなたでいらっしゃるのかが、本当に分かる、理解できたのは、甦られたイエスさまにお会いし、礼拝した時なのです。
確かに、主イエスのご復活前もその後も、2000年前も、今このときも、空の色は変わらずに青く、雲は白いままです。しかし、主イエスの十字架とご復活によって世界は変化したのです。マタイによる福音書は、まさにその巨大で劇的な変化をあらわそうとして、あらん限りの驚くべき事象が起こったと告げています。それが、この御言葉でした。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」
今朝、私どもは、改めて、主の十字架とご復活とによって、世界は、どのように変わったのかを、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」この御言葉にだけ集中して、学びたいと思います。
旧約をひも解く時、丁寧に言い換えるなら、旧約だけをひも解く時、神の御救いに約束されていたのは、ユダヤ人という限定があったと言うように読めるだろうと思います。異邦人の救いの可能性は、きわめて限定的なものであったと思います。何よりも、日本に生きていた人々にとっては、そもそも、天地の創造者なる神、天と地のあるじでいらっしゃる神という概念、神観はなかったのです。我々が考えていた神々は、まさに人間に近い神、人間の営みを反映して存在でしかなかったのです。
日本に住んでいた人々だけではありません。人類は、主イエスの福音を知る前まで、罪を贖う救い主がどなたでいらっしゃるのかを知りませんでした。異邦人たちには、神との正しい関係に生きる救いの道は、開かれていませんでした。それゆえ世界は、人間が神に犯した罪の責任と悪魔の働きの中に言わば、奴隷のように閉じ込められていたのです。異邦人たちは、神も希望もないままに、空しく生きていたのです。
しかし今、その時代は完全に終わりました。なぜなら、主イエスがご復活されたからです。主のご復活によって空中の権を持つ悪魔は撃沈したからです。人間が犯した罪は贖われ、神と人間、人類の和解の道が開かれたからです。確かに主イエスは、人となられる以前から神の御子でいらっしゃいました。その意味で、永遠の初めから、世界の主権者でいらっしゃいました。しかし、言わば、私どもの救い主ではなかったのです。それは、ユダヤ人の罪はもとより、異邦人の罪を完全に赦し、罪から救い出すなどということは、その時点では、まったく、かなわなかったということです。実に、主イエスが人となって下さり、その主イエスがわたしの身代わりに死んで下さり、その主イエスがわたしのためにお甦りくださったこの決定的な救いの御業が成就したことによって、主イエスは、私どもの救い主とまでなって下さったのです。
これまで、全人類は、とりわけ異邦人は、罪人として生まれ、具体的に神に罪を犯していました。それゆえ、悪魔の力の奴隷、虜となっていました。サタンの力の中に封じ込められていましたその悪の力へと強烈に、圧倒的な力で引き込む力とは、死の力でした。しかし実に、主イエスは、ご自身の死によって、この死の力を破壊なさったのです。ご自身のご復活によって死の力を打ち破って、いのちを、永遠のいのち、神のいのちを信じる者たちに与えて下さったのです。この十字架とご復活とによって、死の力のなかで、一生涯、罪の奴隷、死の恐怖の奴隷になっていた私どもを、完全に解き放って下さったのです。
そして、ニカヤ信条は告白するのです。この圧倒的な力、権力、究極の主権を、付与することがお出来になるのは、すべての主権をもっていらっしゃる父なる御神のみです。そして、同時に、その権威、権能、主権をお受けすることができるのも、御子なる神のみなのです。そして、その二つの出来事、主権を与え受ける出来事が、主イエスのご復活によって、起こったのです。既に起こったのです。それこそが、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」というご復活の主イエスの勝利宣言だったのです。
今朝は、この御言葉一句に集中すると申しましたが、やはりどうしてもエフェソの信徒への手紙第1章をも読みたいと思います。そこには、使徒パウロの祈りが記されています。ちなみに、私どもは、祈祷会において毎週、教会員ひとりひとりの名前を挙げて、執り成し祈っています。その祈りの務めは、特に、牧師や長老たち、そして執事たちにも与えられた務めです。しかし、兄弟姉妹のために、どのように、何を祈るべきなのかを、私どもはこのパウロの言葉によって教えられています。先ず、その祈りを聴きましょう。15節以下です。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」実にすばらしい、霊的な祈りです。そして、パウロは、神を深く知ることができるようにと祈った後で、ただちに、その神が起こされた御業、あの十字架とご復活においてなさった出来事をこのように明らかにします。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
さすが、神学者、使徒パウロの力だと思います。主イエスの「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」との御言葉を、パウロが丁寧に解説してみせている、そのようなものとして読むことができると思います。今や、父なる神は、御子を甦らせ、さらに父の右へと引き上げられて着座させられました。そして、すべての支配、すべての権威、すべての勢力、あらゆる領域の主権の上に置かれました。父なる神は、すべてのものを、キリストの足元にしたがわせられたのです。
そして、パウロは、こう結びます。これは、新約聖書の中でも、決定的に重要な御言葉の一つとすら言えるでしょう。「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」実に、キリストの教会は、キリストの体であり、主キリストがその頭としてご支配くださり、キリストが聖霊によって満たしておられる場なのです。
そして、このような使徒パウロの教会理解をさかのぼれば、主イエスのあの、御言葉に行きつきます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
この御言葉を最初に聴いたペトロもその他の弟子たちも、その時には、それが何を意味するのか、まったく分からなかったに違いありません。「いったい、教会ってなんだろう」きょとんとして聞いていたと思います。しかし彼らは、今こそ、分かり始めるのです。この主イエスの大宣教命令に従う中で、いよいよ分かってくるのです。「ああ、教会とは、自分たちの交わりのことなんだ。私たちには、力はないけれども、イエスさまが、共にいて下さる。教会は、イエスさまの体であって、イエスさまがいつもご支配くださって、導かれるのだ。たとい、陰府の力、死の力であっても、教会をつぶすこと等決してできないのだ。確かに、自分たちの伝道は、決して楽ではない。既に、殉教の血すら流してしまっている。けれども、どのような国家権力の横暴と迫害に遭っても、教会の前進、神の国が拡がって行くことを阻めるような権力などありはしないのだ。天地のあるじ、世界の主は、私たちの神、主であるイエスさまお一人なのだ」つまり、彼らは、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てると言われた時には、まったくちんぷんかんぷんであった御言葉の真理を、ご復活のイエスさまにお会いし、礼拝し、お従いするなかで、少しずつ、一歩ずつ分かって来たのです。
いったい、当時の彼らにとって、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」という主の勝利宣言が、どれほど信仰の勇気を湧きあがらせ、隣人を愛する愛を励ますものとなったのかと思います。「そうだ、大丈夫。恐れてはならない、怖がってはならない。ちぢこんだ考え方や生き方では、ならない、勇気をだそう。」こう考えたはずです。皆で、愛と祈りのスクラムを組んで、励まし合ったはずです。「イエスさまは、天地のあるじでいらっしゃる。そのイエスさまは、私たち教会と共にいてくださる。死の力も国家権力の力も、自分たちの経済の問題も、健康の問題も、家庭の問題も、結婚のことも、老後のことも、いかなる問題も、この主権者、あるじでいらっしゃる主イエスに導いていただこう。主の導きに任せてしまおう。そして、自分に頼らず、しかし、主に期待し、頼って、挑戦して行こう」このように、彼らは、歩みを始めます。これが、教会の出発となったのです。
最初に、「あなたの神は小さすぎる」という書物のことを申しました。私どもは、いかがでしょうか。聖書に証され、ニカヤ信条などで告白されてきた生けるまことの神、天地の主でいらっしゃるイエスさまを、そのままのイエスさまとして、信じ、そのように生きているでしょうか。私どものイエスさまは、単に宗教の世界、心の世界だけの、小さな、ちっぽけな「主」などではありません。イエスさまは、世界の宗教界のナンバーワンなどでは断じて、ありません。主イエスは、教会の頭でいらっしゃるだけではありません。天と地の主でいらっしゃいます。その主が、直接、教会の頭、統治者でいてくださる、ここに教会とこの世の差があるのです。私どものこの頭でいらっしゃるキリストの体の一部分とされているのです。
詩編第46編で、詩人はこう歌います。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。」たとい、地が姿を変えて、山々が海の中に移るような大震災においても、それでこの世が終わるわけではありません。天と地のあるじを知る者たちは、腰を据え、腰を落ち着けて、教会を建てあげることに、つまり神の御国を拡大する奉仕に専心できるはずです。そうすべきです。たといまだ、多くの人々が、教会が何をして、何のために、礼拝を捧げ、伝道するのかを理解して下さらなくても、わたしどもはなおひるまず、日曜日を主の日、イエスさまを「主」と告白し、証し、生活のすべての面で、イエスさまが主でいてくださることを、映し出せるように励みたいと思います。
今、教会の主、教会の頭でいらっしゃるイエスさまは、ご自身のいのちの食卓の主として、私どもをもてなし、仕えて下さいます。この主のご奉仕を感謝をもってお受けいたしましょう。そして、教会の頭でいらっしゃるイエスさまと深く結びあわされ、また、その体を構成する私ども同士も深く結びあわされましょう。
祈祷
教会の頭でいらっしゃるとともに全世界、この宇宙の唯一の主でいらっしゃる主イエス・キリストの父なる御神。あなたの御子の恵みと平和の支配の中に、私どもは招かれ、キリストの体なる教会のひと枝とされている光栄と幸いとを心から感謝致します。あなたを信じながら、御子主イエス・キリストを信じながらも、まるで、小さな教会のなかでしか通用しないかのような力のない神、小さな世界の主であるかのようにあなたを小さく、狭く閉じ込めてしまうことのなんと多いことでしょう。主よ、赦して下さい。今、もう一度、心を高く挙げ、あなたの右に天地の主であられ、救いを成就し、これを今も選びの為にあてはめ、救いの御業、神の国の完成を成し遂げ続けておられるイエスさまを正しく仰ぎます。そして、あなたの勝利とあなたに従う者に約束されている勝利を信じ、私どもの奉仕の現場であるこの教会において、いよいよ、忠実に、忍耐深く、あなたに仕える者とならせて下さい。アーメン。