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「洗礼の奇跡」

「洗礼の奇跡」
              2013年10月20日
マタイによる福音書第28章16~20節④
【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】

おそらく現代の日本人で、「洗礼」という言葉を聞いたことのない方は、ほとんどいらっしゃらないと思います。ただし、実際の洗礼とは何か、どのようなものであるのかを知っている方は、少ないと思います。今朝は、キリスト者として、あらためて洗礼について学びたいと思います。ただし、「洗礼とは何か」という教理の説教をするわけではありません。今、朗読した主イエスの大宣教命令において語られた、その文脈の中で、洗礼の恵みについて学びたいと思います。

初めに結論のようなことを申し上げます。私どもは、「洗礼」のことを考えるとき、「洗礼を授けなさい」とお命じになられた主イエス・キリストご自身の御心を深く悟らせて頂くことが何よりも重要です。うっかりすると、キリスト者になってだんだん年月を経て来ますとまったく基本的なことをおろそかにするという罠に陥ってしまいがちになるからです。

まず、そもそも、「教会とは何によって生きて行くことができるのか」について、確認いたしましょう。私どもが慣れ親しんでいる言葉を用いれば、「神の恵みを受ける手段、方法とは何か、どこにあるのか」ということです。もし、一言で捉えるとすれば、それは、「神とその恵みの御言葉」と言えるだろうと思います。私どもは主日礼拝式において、聖書に記された神の言葉の朗読とその説教によって神の恵みの御言葉に豊かにあずかります。それに加えて、「目に見える神の言葉」と言われる聖礼典も不可欠です。そして、今朝は、まったく触れませんが、「お祈り」のことを忘れることはできません。この三つこそが、教会をして教会たらしめるために、神からの恵みを注いでいただくために、神から与えられた恵みのパイプなのです。

今朝学ぶ、聖なる礼典とは、洗礼と聖餐の二つです。そして、今朝、改めてわきまえたいことがあります。それは、この二つの礼典を教会にお与え下さったのは、主イエス・キリストご自身でいらっしゃるということです。主イエスがご自身を教会に覚えさせてくださるために、これを行うようにと定められたのです。教会がここに確かに存在するために、まさに不可欠のものが洗礼と聖餐の礼典なのです。そして、この二つに共通することは、神の御言葉の朗読と説教だけではなく、洗礼の場合は水、聖餐の場合は、パンとぶどう液という物質が必ず用いられということです。まさにこの点に、礼典の一つの本質があります。それならいったい物質、つまり目に見え、手で触れる物が用いられる、必要であるということ、それは、何を意味するのでしょうか。

それは、そもそも、人間とは、体をもった存在であるということです。そして、信仰に生きる、信仰を生きるということは、生身の体をもって生きることに他ならないということです。そもそも、信仰を与えられ体をもって生きる私どものために、永遠の御子なる神でいらっしゃる主イエスは、ニカヤ信条で告白している通り、「聖霊によりて処女マリヤより肉体を受けて人とな」って下さったのです。そして、肉体をもった私どもの信仰生活を育み、慰め、力づけて下さるために、見える水や食べるパンや飲めるぶどう液、ワインを用いてくださるのです。

ここで知るべきことは、信仰とは、単に、心の問題に留まるものではないということです。キリスト教信仰とは、単に心の中だけ、つまり目に見えない人間の内面だけの問題では決してないということです。聖書が一貫して主張しているのは、信仰とは、人間の全存在をかたむけて取り組むべきものだということ、必ずそうなるものだということです。信じるということは、人間のすべての領域、人生のすべてをかけてなされるものなのだということです。
実は、この点で、世界のキリスト教会の中で特に、日本の教会、日本人キリスト者の陥りやすい罠、誘惑、危険性があるだろうと思います。実際に、世界のキリスト教界の中で、日本にだけ、内村鑑三で有名な「無教会」というグループ、団体があるのです。そこでは、洗礼も聖餐も教会という制度すらも、重んじられていません。無教会とは、聖書を中心に学ぶ集いであり、その聖書研究によってそれぞれの信者の信仰をいよいよ堅固にして行くということを目標にする集いだと思います。実は、私自身、信仰に導かれる前に、無教会の創始者の内村鑑三先生の書物に慣れ親しんでいました。そのせいもあって、主イエスに救われても、牧師から切りだされるまでは、洗礼を受けたいという気持ちにはならなかったほどでした。むしろ、洗礼は受けない方が、純粋なのだとすら考えていました。

しかし、そのような私が、今や、どれほど福音主義教会として制度的教会が、この日本に必要であるのかについての確信に生きているかは、多くの方々が認めて下さることだろうと思います。目に見えない信仰と目に見える形、制度、組織、団体とを別のものとして分けてしまうことはできないのです。それは、本来の人間、本当の人間を、むしろ破壊することになるからです。人間は、目に見える体とそれを動かす目に見える心、魂とで成り立つのです。

先週の定期大会の会議上で、一冊のパンフレットを教会で購入しました。大会の宣教と社会に関する委員会が主催した「日の丸・君が代問題を考えるシンポジウム」の記録です。ぜひ、皆さまにも読んで頂きたいと思います。中部中会の集会でもお招きしたことのあるひとりの教師もパネラーでした。今、キリスト者の教師たちが君が代、日の丸を学校儀式において強制されている現実とそれに抵抗することのどれほどの厳しい戦いがなされているのかがよく分かります。日の丸に頭を下げ、君が代を歌うことを強制することがどれほど、日本の教育現場、ひいては日本社会を困窮させるのかを、私どもキリスト者だからこそ、よく見つめ、その危険性を見抜かなければならないと思います。日本が再び戦争する国とならないためにも、それぞれに遣わされた場所で、小さな信仰の戦いを積み重ねなければならないと、いよいよ思わされます。東京都や大阪府の首長さんや教育委員会が、学校の管理者を自分たちの都合のよいように動かせるようにと企てています。彼らは、教師、職員に職務命令を出して、起立して歌うことを強制しています。彼らは、このように言います。「自分たちは、あなたがたの信仰とか心の自由に立ち入ろうとしているのではない。ただ、公の学校の秩序と方針に従うことは、公務員として絶対に守らなければならないことではないか。心がどうであれば、形や態度だけでも和を保つようにすべきだ」そういう論理です。しかし、そもそも我々人間にとって、心と体とは別のものではないのです。心を体で裏切るなら心が痛むのです。心が痛むとき、ついに体にも悪い影響を及ぼしてしまうことになるのです。

それゆえ、キリスト教信仰とは心と体の両方を問題にするのです。つまり、人間のすべての面を問題にするのです。心ではイエスさまを信じ、口ではイエスさまを知らないと否定することはできないのです。反対に、心ではイエスさまを信じていないのに口先だけで信じていると言っても、それでは、信じたことにはならないということです。

さて、主イエスが、この山の上で弟子たちに、洗礼を授けるということをどれだけ重んじ、強調されたのかという理由の一つは、まさにそこにあります。弟子となるということは、具体的なこと、目に見えるある特定の形に、自らを合わせて行くという行動を命じるのです。その第一のものとして、洗礼を受けるという行動があるのです。
私どもは、いへ、ここでは私と申した方がよいかもしれません。牧師は、その人が本当に神を信じているのか、それを百パーセント見極め、見抜くことはできません。ただ、その人の告白を信じるだけです。もとより、だからこそ、慎重に洗礼を受けたい、教会に入会したいと願う人と学びを重ね、最後に試問して、洗礼を授けるのです。信仰とは、徹頭徹尾、神がその人の内面に、心と魂に働きかけて下さり、与えて下さる奇跡なのです。神の救いの御業なのです。ただしそれは、決して人の目には見えません。このことは、神ご自身が目に見えないように、人間の心や魂も目に見えないことに通じています。だからこそ、尊いのです。だからこそ、この心と魂とで神を認識し、信じることができるのです。そこにこそ、人間の尊厳の根拠があります。

そして今朝は、ここにポイントがありますが、しかしこの人間の尊厳とは、単に心と魂だけのものとして閉じ込められるものでは決してありません。むしろ、人間とは、魂と心で認識し、信じた通りに生きる、動く、歩むことができるものなのです。そのように者につくり変えるのが聖書の信仰、神が与えて下さる信仰の恵み、信仰の力、実力です。その意味で、その人が主イエスの弟子であるのかどうか、それを判断することは極めて単純明快です。その人が主イエスに言われた通り、洗礼を受けるか受けないかで、はっきりと判定することができるわけです。
ただし、敢えて補足すれば、この反対は通用しません。残念ながら、洗礼を受けた人は自動的に全員、キリストの弟子、キリストの信者となっているということにはならないのです。

この真理をはっきりと言い表したのが、やはり使徒パウロです。ローマの信徒への手紙第10章10節にこうあります。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」心と口は分離できないし、してはならないということです。口とは、目に見える部分なのです。パウロがここで言う、義とされることと救われることとは、本来、まったく一つのことです。義とされて、その後で救われるということではありません。しかしパウロはここで、心と口とが一つになる、それが、本来の人間のあり方、救われた人間の姿なのだと聖書の信仰を明らかにしたのです。

その意味でも、大阪市の教育委員会は、教師がちゃんと君が代を歌っているのか、口が空いているかどうかをチェックすることを、管理者、校長に命じました。これは、ものすごいこと、おそるべき人間の尊厳と自由の侵害であることが分かるだろうと思います。

さてしかし、そこでこそ、私どもの課題、悩みが深まるのだろうと思います。実に、私どもが日々、悩んでいるのは信仰と生活とが一致しないという問題だからです。日々、聴いている御言葉、主の日のたびに聴いている説教での御言葉と週日の生活とがぴたりと一致しないという苦しみであり、悲しみです。私どもは、今朝も、心から自分の犯した罪と、その罪深い自分の存在を心の底から嘆き、悲しんでいます。

昨日の豊明教会の修養会で、ひとりの兄弟が、ご自身のキリスト者としてのディアコニアを分かち合って下さいました。彼は、自分が、そのような活動に従事することによって、実は、いよいよ自分の中の罪深さが分かってくると証されました。自分は、よいことをしているという自己満足ではないわけです。自分の足らなさ、弱さ、罪を示されるのです。

しかし、わたしは、まさに、そこに恵みがあるとも思いました。彼も、いへ、彼ひとりではなく、私どもは全員、今朝も、心の底から、「主よ、憐れんで下さい」と叫び、主によりすがっています。それ以外にない、罪人の集いなのです。しかし同時に今朝ここで、そのような私どもの罪を赦してくださり、神の子として下さり、キリストの弟子としてなお忍耐深く用いて下さる主の憐れみ、主イエスの恵みの広さ、大きさ、深さ、高さを思って、赦された喜びに溢れ、湧きかえることができます。赦された喜びに押し出されて、毎日を生きて行き、主の弟子らしい歩みを何度も挑戦し続けることができるわけです。

さて、そのような恵みを豊かに受ける手段、方法として、主イエスは、教会に洗礼を与え、教会に洗礼を施すようにお命じになられたのです。洗礼とは、ただ単に、自分の信仰を公に告白する方法、教会員として加えられるための儀式なのではありません。むしろ、洗礼の礼典そのものの中に、神の恵みが注がれるのです。それならいったいその洗礼の恵みとは何でしょうか。主イエスご自身が、ここでこう宣言されました。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」「父と子と聖霊の名」という言葉が、言わば、唐突と申しましょうか、突然に出てまいりました。しかし、これは、まさに教会の信仰にとって決定的な意味を持つ言葉です。その後、300年の後、三位一体という教会の言葉、教理の言葉が諸教会において一致して告白されるようになります。ニカヤ信条が告白する父と子と聖霊の交わりをもっておられる唯一の神への賛美と信仰です。その三位一体の根源になる御言葉がご復活のイエスさまの口から語られたわけです。まことの神とは、父なる神と御子なる神でいらっしゃるご自身、そして聖霊なる御神なのです。そしてこの三者というまさにかけがえのない固有のご存在でいらっしゃるそれぞれの神が、しかし、まったく一つの交わりをもってご存在なさるのです。この、まさに人間の理性では、完全に理解することが到底できない生けるまことの神が、人となられた御子イエス・キリストにおいて啓示されたわけです。そして、この洗礼を授けるということは、なんと、御父と御子と聖霊の交わりの中に、受洗者、洗礼を授けられる者が入れられるわけです。神の交わりの中に、罪人が招き入れられるということは、三位一体を理解するより、さらに困難なことでもあります。しかし、主イエスは、洗礼においてその奇跡、その驚くべき圧倒的な奇跡を、信じる者たちに与えて下さるのです。主イエスが、弟子としなさい、弟子でありなさとお命じになられたことは、この世の考え、論理を当てはめて考えるわけにはまいりません。つまり、師匠、先生に弟子入りするための十分な資格を整えた後で、その暁に、やっと弟子入りが許されるということではないのです。弟子になりたい人に、洗礼という驚くべき恵み、三位一体の神の交わり、言葉を換えれば愛の中に、招き入れられるということです。これを、この世の事例で譬えるならば、すばらしい家族、愛と信頼と喜びに満ち溢れた家族の中に、天涯孤独の孤児が、養子として受け入れられ、その家族の正式な一員としてその家族の愛と信頼と喜びを味わわせていただけるということです。それが、救われるということなのです。神に赦され、主イエス・キリストとの交わりを持つということなのです。その手段が、洗礼なのです。単なる水道水を、しかし、父と子と聖霊の御名でそのお水を頭の上に垂らされるとき、そこで、いったい何が起こるのでしょうか。そこで、父と子と聖霊の交わりの中に受け入れられ、神の永遠の愛の中に結ばれるということが起こるのです。そして、まさに、その神の愛の交わりに支えられた者だけが、弟子として育まれるのです。主イエスの弟子になる自信があるかないか、自ら真剣に問うことは、尊いことです。わたしは、必須のことだと思います。しかし、どんなに真剣に、誠実に問うてみても、結局のところ分かるのは、こんな自分では、主イエスの弟子にふさわしくないと言う一点のはずです。しかし、同時に、分かるのは、ああ、だから、赦されなくてはならない、弟子にふさわしくない罪人である私には、どうしても救い主イエスさまが必要だ。どうしても、父と子と聖霊の愛の交わり、恵み、支えなしに生きて行けない、弟子になれないだから、洗礼を受けたいし、受ける以外にない、これが、多くのキリスト者が通る道のはずです。

 ですから、洗礼を受ける資格を得られたと自信を持つ洗礼入会志願者は、少なくとも私どもの教会では洗礼を受けることはできないはずです。そうではなく、神の前に本当の意味で悔いくず折れて、謙虚にさせられて、砕かれて、謙遜にさせられて、こんな自分でも主がお救いくださるばかりか、弟子としてお招きくださっている光栄に感謝して、洗礼を授けていただくのです。

 そしてそのような人に、まさに洗礼の奇跡が起こされ、つまり、神のまったき救いが保証され、しるしづけられ、私どもの信仰を世の終わりまで、死に至るまで支え続ける恵みの力となるのです。ここには、既に洗礼を受けている仲間たちが大勢いらっしゃいます。今朝、あらためて、この洗礼盤を見つめて下さい。何度も申し上げることですが、礼拝堂に洗礼盤が常に設置されるのは、まだ、日本キリスト改革派教会の中では、多数ではありません。しかし、これは、私どもにとって必須の家具です。洗礼盤を信仰をもって見つめる時、こう語りかけて来るように思います。「あなたは、洗礼を受けた人だ。あなたは、洗礼を打受けて父と子と聖霊の交わりの中で愛されている人だ、あなたは、罪を完全に赦され、きよめられ、神に捧げられた人だ」そうです。これを、語り出したらもう時間がまったく足りません。キリスト者の信仰の歩みとは、自分が受けた洗礼の奇跡、救いの恵みがどれほどすばらしいものかを、少しずつ知って行くその歩みなのです。洗礼を受ける前に全部を知る人はいません。だから、まだ洗礼を受けていない方は、急いで欲しいのです。一日も早く、洗礼を受けて欲しい、これこそが主イエスの御心です。だから、教会は、何をするのでしょうか。その洗礼を施すために、伝道するのです。

ここで、契約の子どもたちの中で洗礼を受けていない子たちのことについて、その親の責任について触れて終わります。彼らは、確かに洗礼の奇跡の中に、なお、入れられていません。洗礼を受けていないと言うことは、今朝の説教から言えば、主イエスの悲しみとなっていると思います。しかし、だからと言って彼らに、父と子と聖霊の恵みが洗礼を受けていない子たちに劣っているとか、少なく注がれているというようなことをまったく意味しません。しかし、洗礼を授けなさいとの主イエスのご命令に込められた御心は、明らかです。ですから、いよいよ、祈らなければならないでしょう。信仰の教育に励み、家庭において彼らと共に祈る必要があります。そして、教会は、その親と共に協力して、契約の子らに信仰の喜びを教え、また背中でみせるのです。背中で見せなければ、子どもたちをがっかりさせるでしょう。そして、そのとき、くどいですが、親は、どこにたちかえるのでしょうか。親自ら、そこでこそ、自分が洗礼の恵みの奇跡にすでにあずかった者であるという決定的な事実に目を留める事です。そのときに、親の背中が光ります。神が光らせて下さいます。それを信じます。 

私どもの教会には、幼児洗礼を受けて、なお信仰告白をしていない契約の子も多いのです。しかし、親は信じましょう。第一に、自分が洗礼の恵みの奇跡を受けた者であるという事実です。第二に、彼らもまた、洗礼の奇跡を受けた者だという事実です。そのとき、幼児洗礼を受けさせていない親とまったく同じことが求められます。祈ることです。主の契約によりすがって、信じて祈ることです。

 祈祷
 私どもに父と子と聖霊の御名による洗礼を授けて、教会の交わりに加え、あなたとの交わりに迎え入れて下さいました救いの奇跡を心から感謝致します。どうぞ、私どもの教会が、洗礼をひとりでも多くの選びの民に、授ける教会となれるように、いよいよ祈り、主イエスの弟子となりますように。アーメン。