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「主の御言葉を守る群れ」

主の御言葉を守る群れ」
              2013年11月3日
マタイによる福音書第28章16~20節⑤
【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】

ご復活されたイエスさまが、地上を去って、父なる神の右の座、神の玉座に昇られる前に、弟子たちに告げられた御言葉を学び続けています。大宣教命令と呼ばれる御言葉です。今日で4回目となります。

大宣教命令の構造は、考え抜かれています。先ず、ご自身がご復活後、天と地の一切の権能を授けられたことを宣言されます。このご自身の絶対的な権威をもとにして命令することが明らかにされます。そして、三つの命令が下されます。第一に、すべての民を弟子としなさい。第二に、洗礼を授けなさい。そして今朝学ぶのが第三の命令です。「あなたがたに命じておいた御言葉をすべて守るように教えなさい」です。この三つの命令は、弟子たちが立ち止まることなく、出かけて行くことによって果たされることも忘れてはなりません。最後に、主イエスは、このご命令を守る人々への約束、祝福の宣言、決定的な救いの宣言をもって結ばれます。見よ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」です。

先週、私は皆さまのお祈りを受けながら、松山の教会の伝道応援のために出張致しました。実は、出かける前に、NHKテレビの「八重の桜」を見ました。今、まさに日本のプロテスタント伝道のあけぼのの時代が描かれているようです。皆さまが、これを機に、あらためて日本の教会史に関心を持ってくださればと思います。日本で伝道し、教会を建てるためには必須の知識だと思うからです。さて、私が見た場面は、同志社を卒業した伝道者が、その任地として四国の今治に派遣されるシーンでした。おそらく彼は、熊本バンド出身だと思います。そもそも熊本バンドとは何か、ですが、1871年に設立された熊本洋学校で、その教師として来日していたジェーンズの感化を受けてキリスト者になった学生たちのことを言います。彼ら35名は、市内にある花岡山に集まって、決意書に署名したことは大変、有名です。その決意書は、「奉教趣意書」と言われています。教えに身を奉げるという意味です。その中身は、このようなものでした。「自分たちは生涯をかけて、この国にキリストの教えを告げて、キリストにある文明国にするために生きる、献身するという決意書です。学生たちはその決意書に署名したのです。彼らは、京都で始まったばかりの同志社に編入します。テレビをご覧になった方は、熊本洋学校で受けた学びが同志社のレベルよりはるかに高くて、先に入学した学生たちと軋轢が生じたということをご存知と思います。彼らは、信仰の志と同志の絆が深く、優秀でもあったわけです。そのような彼らが、東京や大阪、横浜だけではなく、最初から地方にも出かけて行きました。キリスト教を耶蘇教と呼び、その教えを邪教として嫌っていた人々の大勢いるところです。しかしそのような厳しい状況をものともせずに一生懸命、文字通り開拓伝道したわけです。今治だけではなく、松山にもその歴史、伝統を継ぐ教会があります。宿泊したホテルから教会までの道のりを、歩いている途中、ちょうどキリスト教主義の学校の前を通りました。その学校もすでに100年を越える歴史を持ちます。中学高校、そして大学まであるのです。近くには、大きな教会もありました。松山教会に向かう道すがら、先人たちが伝道してくれたことに対する感謝の思いを募らせられました。そして、同時に、まことに不思議な思いがしたのです。他ならないこの自分もまた、この松山の地に伝道の応援に出かけているということの不思議さです。30年ほど前、戦後に横須賀の町に建てられた一つの教会に足を踏み入れたことが、決定的でした。そこから、どれほど人生が変えられて行ったのか、です。天地の創造者なる神を知りました。御子、救い主イエスさまを信じて、救われました。栄光の富である主イエス・キリストの救いの知識、福音の恵みにあずかったのです。神の子とされたばかりか、伝道者としての奉仕へと召され、許されているのです。

130年前、熊本バンドの青年たちは、花岡山で、自分たち決意をあらわした文書に署名し、伝道への献身を確かめ合いました。しかし、はるか2000年前に、主イエスは、ガリラヤの山の上で、ご復活のお姿、勝利のお姿を現して下さいました。主イエスは、11人の、あるかなきか分からないような小さな信仰と、どこから見ても世界に名を残すような能力も立場ももたない漁師を中心とした集団でしかない一握りの者たちをみもとに招かれました。そして、彼らに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」とお命じくださったのです。
そして、ここが肝心です。彼らは、主のこの大命令に従ったのです。ここからこそ2000年の教会の歩みは、始まったということです。彼らが、主イエスにお従いした結果、熊本に、北海道に、そして横浜に福音の種がまかれたのです。さらに、ここ名古屋の街にも福音の種が100年以上も前から蒔かれたのです。1994年には、この町にも、神の教会が起こされたのです。

つまり、主イエスの大宣教命令を受けたのは、ただあの11人だけではないということが分かります。11人の弟子たちは、やがて聖霊を受け、文字通り、外に出かけて行きました。従ったのです。弟子たちは、主イエスのご復活の証人となって、神の国の福音を宣教しました。従ったのです。弟子たちは、主イエスを信じた人々に、洗礼を施しました。従ったのです。弟子たちは、そのようにして主の弟子をつくり、育てて行ったのです。そのために、御言葉の教育の業に勤しんだのです。この大宣教命令に生きたのです。それは、彼らにとって生きることそのものとなったからです。主イエスにお従いすることが、弟子にとって生きることそのものなのです。

歴史は証明しています。主イエスの大宣教命令は、弟子たちをして新しい弟子を育て、またその弟子たちが、新しい弟子たちを育てて行くその連鎖、そのサイクルを生みだしたということです。2000年間、途切れることなく続いているのです。だからキリストの教会が世界に広がり、神の国が拡大するのです。ここで、まさに明らかになる事実があります。それは他でもない、このようにお命じになられた主エスご自身が、今も生きて働いていらっしゃると言うことです。主イエスは、十字架の上で御血を流して、ペトロをはじめすべての弟子たちの罪を償い、彼らを死と滅びから贖われました。そして、彼らに聖霊を与え、信仰を授けて下さいました。主イエスは、そしてその信仰者の集いを、主イエスの教会、神の教会、ご自身の体として建てて下さるのです。つまり、主イエスは、ご復活後、天に戻られてからも、いへ、その意味では、天に戻られることによってこそいよいよ、弟子たちのために働かれ、弟子たちと共に働いておられるということです。マタイによる福音書第16章18節にある通りです。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」天に戻られた主イエスは、教会を建て、教会と共に生きて働いておられるのです。それ故に、この御言葉を冠した私ども名古屋岩の上教会も、ここに存在し、生きることが許されているのです。復活され昇天された救い主は、今、教会を通して、ご自身の父の国、神の国を拡大しておられるのです。私どもは、その主イエスに招かれ、救われ、ここで、あの弟子たちと同じように厳かに、大宣教命令を聴いているのです。主イエスのお働きに参加するように招かれ、命じられているのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」そして、主イエスは、あのあるかないかわからないような小さな信仰の弟子たちを偉大な使徒として変容させ、育て続け、彼らを通して世界宣教を実現し、教会の土台を据えられたのです。私どももこの主イエスの変わらないご命令、この変わらないご命令に込められた変わらない愛と真実をもって、招かれています。あの十字架の肉体的な、霊的な恐るべき御苦しみを耐えてくださった主イエスの愛の実りとして私どもは救われ、イエスさまの弟子とされ、他ならないこの弟子たちを通して、主イエスのお仕事を継承させていただいているわけです。私どもは、主イエスご自身と主イエスの弟子たちの尊い愛の労苦の中で、救われ、生かされているのです。私どもは、私どもに福音を告げてくれた教会、人々との繋がりをさかのぼって行けば、イエスさまと繋がることができるのです。そして、今、私どももまた、この尊いご命令のバトンを手渡され、これを隣人に手渡す務めを担うことが許されています。何と言う光栄でしょうか。

次に、命令の三番目に位置する、「教えなさい」に集中します。マタイによる福音書は、自分の福音書の結びの言葉をどうするのかについて、明確な意図をもっていたはずです。その上で、主イエスのこの大宣教命令を置くことにしたはずです。最後の命令は、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」でした。教えることです。教育です。「わたしがあなたがたに命じておいたこと」つまり「主イエスの御言葉の教え」です。しかもその「すべて」と記します。そこに込められたメッセージをはっきりと受け止めたいと思います。

先ほど、この御言葉は、弟子を生み、その弟子がさらに新しく弟子を生んで育て、その弟子たちがさらに弟子たちを生んで育てて行く連鎖、サイクルがあると申しました。マタイがここで、いへ、マタイによる福音書全体で明らかにしようとしたことは、その弟子造りのまさにトップバッターとしてのイエスさまです。主イエスこそが、御言葉の教師、神の国の教師としてお働きになられたのです。この事実を最後にもう一度印象付けるのです。この結びの言葉を読むと、あらためて、最初の記事にもどされるような思いが致します。

マタイによる福音書の特徴の一つに、主イエスの一連の説教集とも言える、いわゆる「山上の説教」が、冒頭に置かれているということがあります。しかも、それは、山の上でなされたとされるのです。実は、ルカによる福音書では、説教の場所は、平地です。そこにマタイのこだわり、メッセージが込められています。第5章の山上の説教は、こう始まります。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」マタイは、ここで厳かな教師としてのイエスのお姿を読者に印象付けます。

新約には、四つの福音書が収められています。全部で27巻の文書が収められています。その冒頭に、マタイによる福音書が置かれています。これは、決して偶然ではありません。旧約を終えて順序どおりに読むと次は、新約のマタイによる福音書です。そこで、主イエスが神の言葉、旧約を新しく解説してみせてくださったのです。それは、聴きなれている言葉でありながら、斬新なものでもあったのです。しかも、その教えは、「幸いなるかな」と語り出されるのです。そこに、律法の教師でいらっしゃるイエスさまの特別の位置があります。主イエスは、モーセの律法を継承しつつ、しかし、それを乗り越える律法を語られたのです。それは、新しいキリストの律法です。山上の説教の第5章17節で、こう宣言されます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」旧約の律法を完成するのです。今、そのようなお方からの説教を弟子たち、つまり私どもは聴いているというのです。第7章28節では、マタイがこう説明して、山上の説教を閉じます。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」24章35節で、主イエスご自身が、こう宣言されています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」つまり、マタイは、主イエスご自身とその御教えこそ、旧約の成就なのだということを明らかにしたいのです。およそ、人が神に従って生きようとするなら、神の教え、御言葉を正しく聴くことが必要です。マタイは、そこで、そのように生きるためには、このイエスさまの教えに基づかなければならないのだと言うのです。まったくそのとおりです。主イエスの説教は、神の御子、主権者、救い主の教えだからです。旧約のすべての御言葉は、つまるところ、このイエスさま、神からの御言葉であり教えなのです。そうであれば、もはや、この主イエスの教えを抜きにして、旧約を語ることはできないはずです。
ですから、マタイによる福音書は、自分が記した福音書が後に聖書となることを考えたわけではなかったと思いますが、しかし、主イエスの語られた教えは、旧約においてモーセの律法がその中心、中核を構成するように、主イエスが、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」とお命じになられたのは、当たり前のことであると言うわけです。

私どもは、イエスさまを主と信じ、告白する限り、主の御言葉を守るのです。その「全て」を守るのです。ただし、誤解してはなりません。このすべてとは、すべてを守るから、それを条件にして、救われるとか、イエスさまが一緒にいてくださるということでは、まったくありません。主イエスを主とするのなら、弟子となるなら、「すべて」以外にあり得ないからです。つまり、主イエスのすべての教えの中で、私どもの価値判断とか好き嫌いとかで選んではならないということです。この御言葉は、すばらしいから守る。心に蓄える。しかし、この御言葉は、理解できないし、むしろ、おかしいから守らない。無視する。そのような態度は、弟子の態度ではありえないはずです。だから、ここで「すべて」と仰るのです。そのようにして、主イエスは、私どもにご自身を主とすることが命じられ、弟子となることへと招いて下さるのです。弟子であるとは、私どもが主の教えをすべて守れているかどうかにあるのではありません。勘違いしてはなりません。もともと、守れないからこそ救われたのです。しかし、救われた者として、あるがままで弟子とされた者として、主の教えのすべてを守りたい、守ろうとの志に生きることが求められ、命じられているです。祈り求めることです。

最後にいささか蛇足になるかもしれませんが、触れておきます。主イエスは、教会とキリスト者がなすべきことは、出て行って伝道して、洗礼を施し、弟子とするために教育に励むとおっしゃるだけで、ディアコニアへの命令はなかったのかと不思議に思われる方もいるかもしれません。しかし、主の御言葉を守ると言うことの中に、山上の説教で描き出されたディアコニアの教えもすべて含まれているのです。彼らは、山の上で主の命令を聴きながら、かつて同じ山の上で、語られた説教も思い起こしたのではないでしょうか。「ああそうだ。これからは、自分たちがイエスさまの代わりに、すべての人々を弟子とするために、福音を伝道し、信じた人に洗礼を施し、主イエスの教えを守るように教えなければならない。そのために、自分自身がさらにふさわしい弟子となるべきだ。そのためにも、地の塩、世の光として、隣人となり、彼らを愛し、仕えるのだ」

今日は、ディアコニア委員会の後に、定例の伝道所委員会もあります。11月は、すでに来年度の事業計画を考えるべき時期です。来年度は、開拓伝道開始20周年の記念すべき年となります。教会は常に、伝道の計画を立て、そして学びの計画を立てながら進んで行きます。それを、中心的に担うのが、長老の務め、小会の責任です。今の自分たちにどのような伝道の企て、学びの必要性があるのかを適切に判断し、それを実行するわけです。しかし、改革派教会は、そこでも揺るぎない伝統があります。教会は、出て行って、福音を宣べ伝え、洗礼を施し、主の弟子を育てるために、何をするのでしょうか。常に、聖書の学びに集中するのです。そのために、教理、カテキズムを学び続けるのです。再臨のその日まで、繰り返すのです。2000年を越えて、この学びの連鎖のなかで、教会は存続し、神の国は拡大するのです。教会のことを、学びの家と呼びます。私どもは開拓当初、学びの家ということを、強調しました。御言葉の学校とも言います。学ぶことのない教会は、自分が何を、どうすればよいのか分からなくなるのです。

そのために、読書会という集会を設けています。祈祷会もまた、そのような学びと祈りの修錬の集会でもあります。教会は、いのちの御言葉を聴く場所、学ぶ場所、またそれを先ずお互いに実践し合う場所、家として与えられてもいるのです。そして、この学校の唯一の、まことの教師はイエスさまです。同時に、その主イエスご自身が、教会に教師という務め人を与えておられます。

これからもみんなで、この大宣教命令をここで実践する教会を形成してまいりましょう。共に励まし合って、主の言葉を守る群れとしての歩みを続け、いよいよ成長させて頂きましょう。私どもは、熊本バンドの青年たちのように趣意書にサインはしていません。しかし今、主イエスの弟子としての喜びと感謝を込めて、聖餐の礼典にあずかりましょう。聖餐のパンと杯を頂くそのときこそ、その行為こそ、私どもの主イエスに対する愛と感謝と献身の最高の告白となるからです。

 祈祷
 私どもに尊い御言葉を教えて下さり、どのように生きて行くべきかを示し、導き、励まして下さいます主イエス・キリストの父なる御神、その幸いと特権を心から感謝致します。どうぞ、私どもの群れが、主の御言葉をすべて守る群れとしていよいよ整えられ、成長することができますように。そのためにも、御言葉を教える者そして聴く者に真理の御霊を豊かに注いで下さい。そして、御言葉の恵みに深く憩わせ、驚かせ、感謝と喜びの内に使命に立ちあがることができるように、祝福してください。アーメン。