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「世の終わりまで共にいてくださる主イエス」

「世の終わりまで共におられる主イエス」
              2013年11月10日
マタイによる福音書第28章16~20節⑤

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】

ついに、マタイによる福音書の講解説教が本日の説教で終わります。214回の説教になったようです。2008年12月から続けてまいりましたので、足掛け5年になります。これほど長く続くことになるとは、まったく思いませんでした。牧師としての25年間の歩みの中で、これほど一つの書物に集中して取り組んだことはありません。もしかすると残りの牧師としての人生においても、これほど長く続けることはないかもしれません。個人的な感想を申し上げることが許されるなら、わたし自身、この書物の圧倒的な存在感を身にしみて知ることができました。まさに、この書物が新約の劈頭におかれたことは、当然のことだと分かりました。そして地上の教会は、まさに世の終わりまで、この福音書と共に、この福音書に導かれて歩みを続けて行くのだと思います。そのようにして、神の民は、「御言葉の民」として整えられ、教会はキリストを頭とする教会、その御体なる教会として建てあげられて行くのだと思います。
 
 さて、いよいよ、主イエスの大宣教命令の最後の言葉、この一句に集中します。そして、これは、マタイによる福音書の結びの言葉に他なりません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」です。実に、マタイによる福音書のメッセージの中でも決定的に重要な言葉です。さらに言えば、旧約と新約を貫いて、ひとりの神、同じ神が語られるメッセージなのだと思います。旧約においても結局、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と神がご自身の民に宣言し、救いを約束されていたのです。それは、既に創世記において繰り返されたメッセージでした。ヨセフの物語の中で、主が共におられたので、ヨセフは危険から守られ、主が共におられたので災いから救い出された、主が共におられたのですることなすことが祝福されたと語られました。「主なる神は私どもと共におられる」まさに、この言葉こそ、聖書が明らかにする救いの事態、救いの現実なのです。それがどれほど私どもにとって恵みと平和、愛と慰めに満ちているのかを、今朝、深く味わいたいと思います。

 十字架で死なれ、その三日目にご復活されたイエスさまは、ご自身を裏切り、見捨ててしまった11人の弟子たちをガリラヤに呼ばれました。ガリラヤとは、彼らにとって主イエスに初めてお会いし、主イエスに従う歩みを始めたまさに出発の地、信仰の原点に他なりません。そして、彼らの故郷でもあるのです。その村は、大都市エルサレムから見れば、田舎そのものです。しかし、主は、この田舎の人々を弟子として選び、救い出されたのです。ところが、この弟子たちは、特別にいわゆる優秀な弟子であったわけではありません。隠れた逸材というわけではありませんでした。それはまさに、主イエスが十字架につけられる前に主を捨てて逃げてしまったことによって、もはや歴然となってしまったのです。ところがしかし、主イエスは、そのような彼らのことを、最初の愛、最初の信頼をもって愛し続け、信頼し続けておられるのです。主イエスの愛と信頼が彼らの裏切りや大失敗によってくじけ、失われてしまうことは、まったくなかったのです。主イエスは、最初から最後まで、そのすべてを見通したうえで、彼らのあるがままのすべてをご存知の上で愛し、選ばれたのです。

 おさらいになりますが、弟子たちは、ご復活のイエスさまにお会いして、ついに、神として礼拝します。あらためて弟子としての歩みの再出発を致します。しかし、同時に、それでもなお、彼らは、少なくとも彼らの中のある者たちは、疑う心を捨て切れなかったのです。信仰に徹底的に貫くことができなかったとマタイによる福音書は告げています。

マタイによる福音書は、はっきりと告げます。主イエスは、他ならないそのようなふがいない弟子たちに大宣教命令をくだされたというのです。つまり、主イエスのご愛は、弟子たちの性格や性質、彼らの品性とかこの世的な能力とか可能性をもっていたので、愛されたのではないということです。彼らが弟子とされたのは、ただ信仰のみ、ただ恵みのみ、ただ神の主権にもとづく選びによるのだということを明らかにしているはずです。それは、彼らの後に弟子とされた私どもにとってのメッセージです。11人の弟子たちは、主イエスによって使徒とされ、主イエスによってつくり変えられ、育てられ、まさに私どもの信仰の模範となります。その模範としてのすばらしさのすべては、主イエスの恵みと力によるものなのです。その意味では、彼らは私どもの模範というよりは、見本と言う方が近いように思います。こうして、彼らは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」との命令に生きて行きます。もはや、自分たちの能力に頼らず、ただ神の恵みの力に信頼し、それに委ねて、しかし自分の全力をもって、彼らの真実の限りを尽くしてこの命令を果たそうと努力し、励んで行きます。

 さて、この福音書が書かれたその時には、既にキリストの教会は、地中海沿岸の地域、当時のユダヤの人々にとっては、まさに世界中と言ってもよい範囲に建てあげられていました。つまり、あの命令を受けた彼らは、そのご命令に見事に答えて見せているということです。何よりもそのゆるがぬ証拠は、ここにこの書物、マタイによる福音書というこの福音書の存在があるということです。いったいかつて徴税人であったマタイが、これほどまでに見事な書物を書いたということは、まさに、驚くべきことではないでしょうか。彼は、お金の勘定、計算はお手の物だったと思います。しかし、このような福音書というキリスト教文学を書きあげることなど、自分でも想像できなかったのではないかと思います。主イエスの御言葉を信じ、従った自分の歩みの結果に驚かされたのではないか、そう思います。

 わたしは、こう想像するのです。マタイは、そのように自らを省みて、驚いた時、自分の福音書の結びの言葉は、こうだ、この主イエスの御言葉にしようと決めていたのではないか、そう思うのです。そして、マタイと同じようにわたしも思います。主イエスの福音、つまり神の驚くべき恵みとは、結局、この主イエスの約束、祝福の御言葉に尽きるということです。それが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」です。マタイは思ったのです。「ああそうだ、イエスさまがわたしと、私たちの教会と共にいてくださったから、わたしもまた、使徒とされ、主の弟子のひとりとされたのだ。そうして、人間をすなどる漁師とされたのだ。確かに、主の御言葉に押し出され、人々に出会うために出かけて行った。そこで誤解や迫害、あなどりや敵意を受けた。しかしその壁を乗り越えて、出会った人々を愛することができたのだ。しかも、主の救いの福音を宣べ伝えたら、多くの人が信じ、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けることができたのだ。そして、こんな自分が、主イエスが語られた教え、なさった御業を福音書という文書に書き残すことができた。そうだ、すべては、イエスさまがいっしょにいてくださったおかげなのだ。」これこそ、マタイの本心、本音なのです。

 まさに、自分たちが従った結果のすべての実りは、結局、主イエスの最後のこの御言葉「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この祝福と約束の御言葉に尽きるのだということです。結局、主のご命令を担い、主のすべての教えを守ることができたのは、いついかなるときもイエスさまが私たちと共にいてくださったから、だから担えたのだ、ということです。つまり、主イエスの命令が進み行き、神の御国がいよいよ拡大して行った原因は、主イエスが共にいて下さったおかげなのです。同時に、彼らが主に従った結果、だから、主イエスが共にいてくださったということも、できます。そして、それは、別々に考える必要もなく、もう主イエスと洗礼によって結ばれ一つとされたキリスト者たち、教会の業と言ってよいのです。

 マタイによる福音書を振り返ってみます。マタイによる福音書の冒頭、第一章に、マタイにしか記されていない旧約聖書、イザヤの言葉があります。23節です。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」マタイにとって、この御言葉は、主イエスのご降誕の意味と目的、主イエスがまことの神でいらっしゃりながら、私ども罪人の救いのため人となられたクリスマスの御業を明らかにする御言葉です。もっと単純に言えば、イエスさまとはどのようなご存在でいらっしゃるのかを、一言で言う言葉なのです。インマヌエルです。神は我々と共におられる。私どものニカヤ信条の言葉で言えば、こうです。「主は、我ら人類の為、我らの救いのために天よりくだり、聖霊によりて処女マリヤより肉体を受けて人となられ」たということです。

神が肉体と受けて人となられたその出来事が、インマヌエルです。そして、それは、ただ一度、そのときだけそのようなお姿になられたということでは、決してありません。永遠の神、永遠の父なる神の独り子、御子なる神でいらっしゃる方が、永遠に人となられたのです。そのお方が、人間イエスさまでいらっしゃるのです。このイエスさまにおいて、神と人とが永遠に一体化されていらっしゃるのです。神と人とは、もはや、離れることができないまったく新しいご存在となってくださったのです。これがクリスマスの恵み、救いの神秘です。秘儀です。この神秘、この秘儀によって、人類は救われたのです。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」このインマヌエルでいらっしゃるイエスさまご自身が、世の終わりまで、あなたがたと共にいるのだぞと、約束し、祝福の宣言を高らかにとどろかせて下さったのです。

さてここで、新共同訳の翻訳でとても残念に思うことがあります。それは、「見よ」という言葉を訳さなかったということです。昔の聖書は、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と訳しました。「イドウ」というギリシャ語は、「見よ」とか、「ほーら」とか「さあ」とも訳せるものです。わたしは、この強調の言葉は、とても大切だと思います。とにかく、この一語を何故、訳さなかったのかは、まったく理解できません。

 わたしは、主イエスが、ここで見よと、強調されたとき、ある余裕というか、ユーモアの思いを聴きとることができました。「ほらね。わたしが言う通り、そのとおりになっているでしょ」というニュアンスです。主イエスが直接語られたあの山の上での御言葉から30年、「ほらね、このわたしは、今この時も、あながたといっしょにいるでしょう。だから、洗礼を施せたでしょう。わたしがあなたと共に働いたから、あなたは、外に出かけて行く愛と力、勇気と喜びに満たされたはずですよ。そうせざるを得なかったはずですね。ほら、わたしの約束どおりになったでしょう。私が、あなたがたの教会に共にいるから、わたしが教会に臨在して、今も、はたらきつづけているから、わたしの弟子は、あなたの教会にも、こんなに増えているでしょう。ほーら、わたしの約束の言葉は真実でしょう。」マタイは、福音書を書き終えるとき、「主イエスよ、本当にその通りです。」そう思って心から感謝したと思います。いよいよ主と御言葉に対する確信は深まったと思います。

 マタイによる福音書の第12章で、ファリサイ派の人たちが、主イエスが悪霊につかれて苦しんでいた人に、悪霊を追放し、癒されたその働きを見て、彼は、サタンの力によって奇跡を行っているにすぎないのだと、こう批判しました。それに対して、28節で、こう反論し、宣言されました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」つまり、「私は、父なる神の霊によって悪霊を追放しているのだ。その意味するところは、このわたしは、神の御子、神の皇太子であって、そのわたしがこの地上で働いているのだから、もうすでに、神の国はここに始まっている、神の国はここに来たのだ」こう言うことです。そして今、いよいよはっきりした真理、事実があるのです。それは、ご復活のイエスさま、そして天に戻られた後のイエスさまも、あの地上におられたときと同じように、いへ、それよりはるかに激しく働いておられるということです。主イエスが始められた神の国は、今は、キリストの教会によって地上にいよいよ現わされ、ご自身の教会をとおして世界中に拡大しているからです。

最後に、主イエスは、「世の終わりまで一緒にいて下さる、世の終わりまで教会は、神の国は拡大し続ける」と約束された、その「世の終わり」とは、何を意味するのでしょうか。第一に、主イエスが再び地上に目に見えるお姿で再臨されるときです。つまり、この世界、被造物が完成されるときです。私どもは、その日まで、主イエスといっしょに生きることができるのです。そして、主イエスと共に生きると言うことは、主イエスのご命令の中で生きることに他なりません。主イエスのご命令を守って生きることです。

さて、しかし、この世の終わりは、新しい天と新しい地がもたらされ、この世の完成の時に他なりません。それなら、神の国が完成された暁には、主は私どもと離れてしまうのでしょうか。そのようなことは、まったくあり得ません。この世とは、アイオーンという言葉がつかわれています。これは、永遠という意味も含まれています。つまり、完成した天国においてこそ、まさに主は私どもと共にいてくださるのです。当たり前のことです。ついに、何の妨げもなく主イエスと私どもとが一つにされる栄光の世界が始まるからです。インマヌエルが完成されるのです。そしてその究極の勝利の日まで、主イエスは、いついかなる時も、毎日毎日、毎時毎時、共にいてくださると言葉をかさねて下さったのです。それが、「いつも」という意味です。

主イエスは、その日、世の終わりを目指しておられます。その日を誰よりも主イエスが楽しみにしておられるということです。私どももまた、その日が待ち遠しいのです。ですから、待ち続けるのです。しかし、もっとも待ち焦がれていらっしゃるのは、主イエスご自身です。父なる神ご自身です。

そしてその日を待っている私どもには、ただ何もしないで、座り込んでいればよいのではありません。むしろ、出て行くのです。走るのです。主イエスは、その体なる教会の頭でいらっしゃいます。そして、私どもは体の一部なのです。それは、主イエスの手となるということです。主イエスの足となるということです。そのようにして、主イエスに奉仕する、神に仕えるのです。主イエスのお働きに参加することです。この大宣教命令とは、まさに、主イエスのお働きに共にあずかれ!共に、働きなさいと言う招きなのです。共に仕事をしようという呼びかけです。だから、弟子たちに語られたのです。そして、祝福されたのです。

 したがって、教会もまた「世の終わりまで、いつも」働くのです。時が良くても悪くても伝道するのです。確かに調子のよい時もあれば悪い時もあります。教会の存在にとって社会的な状況が良い時もあれば、悪い時もあります。しかし、それにかまわず、主の働き、奉仕の業に勤しむことが私どもの使命であり、特権なのです。

 主イエスは、この福音書を読み終える私どもにも語られます。「さあ、これからあなたがたの時代が始まる。もう始まっている。今日も、明日も、明後日も毎日、わたしはあなたと共にいる。あなたのすることを祝福して、実らせる。わたしが働くからだ。そうして、あなたがたは、この世界を完成させなさい。その方法は、伝道して洗礼を施し、弟子を育て養うために、御言葉を語り聞かせ、教え育むことにあるのだ。そのとき、この私が、この世をみごとに仕上げて見せる。神の国を完成させる。だから、そのときまで、わたしとあなたがたとは、一つに結ばれたものながら、共に生きて行こう。」

 マタイによる福音書が、最後に、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との主イエスの約束で結んだことは、まさに、神の霊の導きによるものです。私どもにとって、これ以上の慰めはありません。今、讃美歌を歌います。「み恵みを受けた今は、われらに恐れはない。み力により頼んで、主のために進み行こう」と歌います。私どもは、今日も主イエスと共に歩くのです。私どもの力に頼るのではありません。主の恵み、つまり主イエスご自身に生かされるのです。言いかえれば、主のすべての教えに基づいて生きることです。日とり日鳥には、それぞれに与えられた賜物、持ち分、それぞれに示されている走るべき行程があります。その道を走るのです。そのとき、神は、主イエスによって、ご自身の霊を教会に注いで下さいます。父なる神は、御子の教会を通して、ご自身の歴史を完成し、神の国をしあげて行かれるのです。

 祈祷
 私どもに尊い御言葉を教えて下さり、どのように生きて行くべきかを示し、導き、励まして下さいます主イエス・キリストの父なる御神、その幸いと特権を心から感謝致します。どうぞ、私どもの群れが、主の御言葉をすべて守る群れとしていよいよ整えられ、成長することができますように。そのためにも、御言葉を教える者そして聴く者に真理の御霊を豊かに注いで下さい。そして、御言葉の恵みに深く憩わせ、驚かせ、感謝と喜びの内に使命に立ちあがることができるように、祝福してください。アーメン。