過去の投稿2013年11月20日

11月18日

☆   先週は、男性の会が開催され、あっという間に終了予定の時間を30分超過してしまうほど、よい交わりの時が与えられました。司会者のプログラムによって、ひとり一人、近況と課題を分かち合いながら、左隣の方がそれに応答するという形でなされましたが、その「くくり」を飛び越えて、自由にコメントしあいながら話が膨らんで行きました。それだけで、予定時間になってしまったとのこと。なかなか、このように集まっての交わりの開催が少ないだけに、来年度は、もう少し多く開催できたら、楽しいのに・・・と思わされました。

★  最後に、「男性の会」として、教会奉仕の道を話し合うことになりました。するとひとりの兄弟が、すぐに、「皿洗い」を提案されました。ほとんど毎週のように奉仕者がお昼の準備をしてくださいます。(これは他の教会では珍しいことです)それだけに、お皿洗いまでお任せするのはいかがなものか・・と。皆さん、まったく異論なく賛成しました。これは、今回の集いの一つの目に見える形としての「成果」ではないでしょうか。この奉仕が、かえって姉妹方のご迷惑にならないように、責任をもって「きちん」としたいと思います。若い世代は、家事に率先して参加するようです・・・。ここで「女性役員論」を論じることもありませんが、先ず、改めるべき点をここに見出すことは、主の導きのように思わされます。

☆  週日の祈祷会にどうしても出席できない・・・。これは、社会(組織)で現役に働かれる方の少なくない状況です。しかし、それだけに、「一年に一度だけでも・・・・全参加は無理でも、最後のお祈りの時間だけでも」と、出席者は祈り続けています。ひとりの兄弟が、「男性の会」で「学び」ができないかと提案されました。これは、深い求めの声だと思いました。現在は、午後の月一度の読書会が、まさにそのような貴重な集いです。次主日は、その冠となる全体研修会です。

★  その後に、「政治規準」の学びを致しました。残念ながら委員方が中心になりましたが、初回のこの学びこそ、もっとも大切なものとなったかと思います。なぜなら、教会政治の「本質」について、学んだからです。そもそも、日本キリスト改革派教会には憲法があります。「憲法」なき地上の教会は、結局、キリストの支配・主権を貫くことはできません。人間の支配に転落せざるを得ないのです。それほどまでに人間は、キリスト者は、罪人だということに他なりません。徹底的に堕落した存在である人間、しかし、罪赦され、聖霊の宮とされた私どもです。しかし、罪の「残滓」を完全にぬぐえる人は、ただのひとりもいません。残念ながら、率直に申しますと、未信者との差が「歴然」「判然」としないくらいに教会の指導者たちの「罪深さ」は、深いと思います。(もとより、他人事ではありません。)残念至極ですが、長老主義教会を標榜する日本キリスト改革派教会は、他の教団、教会より優れているとは、まったく言えないのです。それなら、長老主義など「絵に描いた餅」ではないか・・・。それくらいに深刻な課題です。しかし、わたしはなお、地上の教会、悪魔と罪との壮絶な戦いの中を生きる「戦闘の教会」である私どもにとって、彼らと戦うすべとして、憲法が必須であると確信します。そして、それが歴史的なキリストの教会の確信でもあり、歩んだ道でもあったのです。そして、そのために、古代教会は、クレドー(信条)とオルドー(教会職務制度)を整えて、キャノン(聖書・正典)の権威を確立し、御言葉に規範される教会の道を整えたのです。教会の改革者たちは、「この道」が正しく機能しなくなった教会を批判し、改革したのです。それは、このクレドーとオルドーを無視したり、軽視したりすることとは真逆でした。彼らは、この道をいよいよ、「整えた」のです。それなしに、教会を正しく建てなおすことはできないと確信していたからです。つまり、教会政治の本質とは、生けるキリストの支配、主権を現実の教会において正しく現わすことです。キリストの統治に教会が真実に服する筋道を整える道、それが教会政治です。その意味では、地上の具体的な教会が編んだ「政治規準」なるものは、キリストの教会にとって本質そのものではないのです。しかし、同時に、地上の教会にとっては不可欠のものなのです。この言わば、相反する関係、あるいは緊張関係の中で、政治規準をふさわしく解釈し、運用することが、教会政治に担い手である「長老」の務めです。しかし、これを長老だけがよく知って、研鑽すればよいわけではありません。教会員もまた、このようなキリストの生き生きとした支配、言いかえれば、聖書による教会の統治のために、ある弁えをもって頂くことが大切です。紙数が足りません。後は、全体研修会で・・・。

☆  マタイによる福音書講解説教が終わりました。 「大宣教命令」、暗唱できるようになったでしょうか?わたしは、今回、「見よ」の御言葉を黙想しながら、「ほぉら、わたしが言った通りになっているでしょう」とのイエスさまの笑顔(ユーモア)を仰ぎ見せて頂いたように思います。いつも主イエスとともに歩める私どもの幸福!!