☆ 本日は、全体研修会として、今年の中部中会信徒研修会の講演原稿(袴田康裕神学校教授)「中会とは何か」から学びます。今回の講演は、長老主義教会を標榜する私どもの教会でありながら、正面から、「中会」について語られることが少ない状況の中、本当に幸いなものでした。この講演を、午後の時間だけで要約して学ぶことはかなり困難と思います。わたしは、この講演への応答として、しかも名古屋岩の上伝道所としてどのような教会形成を目指すべきかをお話してみたいと思います。
★ 地上にキリストの教会が、つまり私どもの名古屋岩の上教会が存在していること。これがどれほど絶大な価値であるか・・・。そのことが、牧師はもとより現住陪餐会員全員に深く認識されて行くこと。これを、私は一貫して祈り求めてまいりました。このためにまさに人生を賭ける、全存在をかけるにまさにふさわしいことだと確信しています。それは、生ける神のみが、人生の目的、生きる根拠であるキリスト者にとって当然すぎる真理でもあります。したがって「教会形成」(いまあるこの教会をいよいよキリストの主権に服し、その支配に生きる教会として、御言葉によって建てあげること)こそ、私どもの生きる目標そのものに他なりません。牧師はもとより、現住陪餐会員はその召命を受けた者なのです。何のために教会のメンバーとされたのか。言いかえれば、何のために信仰に導かれ、救われたのか、ここが明瞭にされ続け、深められて行くことが、わたしの祈りであり、奉仕の決定的な目標です。
☆ そのために、教会は常に「御言葉」と「教理」(教会規程・政治規準の学びも広くとらえればこの範疇です)と「歴史」(この歴史の中には、当然、現代社会、いまこの瞬間の世界も含まれます)を学び続けます。教会でしか学べない真理、教えられない世界の真理があります。そして、この学びによって、私どもは自分の考え方、生き方が変えられます。学んだ事柄によって変化しないような学びは、ホンモノとは言えないでしょう。そこに苦しさと、しかし真実の喜び、楽しさがあります。
★ 先週は、いずみ教会の特別伝道礼拝式と午後の懇談会の奉仕にあずかりました。今回は特に、午後のことがありましたので、いずみ教会の12そうであれば「お門違い」の人選です。私どもは、「教会のことば」に記したように、徹底的に神の主権にこだわり、使徒的、公同的教会の形成、狭く険しい改革派路線にこだわり続けて今日に至っています。しかし、むしろそのことによって、皆さまに少しでも励ましとなったように、後から田中牧師に励まして頂きました。確かに、伝道集会をしなくても新来者がある、地のりに恵まれた教会もあります。しかし、わたしどもはそうではありません。いずみ教会もまた同じです。いへ、その厳しさは、今は、私どもの比ではないと思います。しかし、それでも開拓伝道に献身する会員、とりわけ役員の方々の信仰とご労苦を思います。そして、心の底から主の励ましとねぎらいを祈らされます。そして、私どももまったく同じ状況に立っていると思います。日本伝道は、容易ではありません。忍耐の信仰が求められます。しかし、信じ続け、御言葉と教理の基本に徹底してこだわり続けることが要です。開拓伝道の教会として遣わされた各々の場所で、これからも共に志を高くして、祈りに覚えつつ主の業に勤しみたいと思います。
☆ 今週末、福島県の相馬市と南相馬市にまいります。原発事故の被害者の皆さまの過酷な仮設暮らしの方々に仕えにまいります。その悲しみ、怒り、絶望・・・。じっくりと耳を傾けたいと思います。もとより、亘理・山元地区の方々のためにも祈り続けます。しかし、フクシマの現実を、教会としても悔い改めをもって、見続け、隣人とならなければと思います。教会のディアコニアとして、いよいよ祈りましょう。
年、13年の年報を熟読させていただき、備えました。いずみ教会は、1992年5月、青葉台教会と横浜教会の協力開拓伝道として伝道を開始されました。以来、21年間、賃貸ビルの一室での開拓伝道を担っておられる群れです。私どもも、かつて開拓当初の9年間、ビルでの開拓伝道を担いました。ビルでの開拓伝道が、どれほど、困難であるのか、それは、わたし自身の実体験でした。私どもは、自給開拓で、いずみ教会には、横浜の二つの大きな親教会が協力しての、つまり人材、経済の面での後ろ盾が整っている点等など、まったく異なっています。そもそも、一つひとつの教会は、まさにそれぞれ別個の教会です。ひとり一人が、同じ人間、同じ男性であっても違っているように、教会もまた、一つ一つに個性があり、歴史があり、かけがえのない存在です。(と、わたしは信じています。)ですから、教会を単純に比較することは、極めて乱暴なことになります。後から伺いましたが、わたしどもの言わば「成功」したアイデアや取り組みからいろいろ学べるのではという思いが、役員の皆さまにはあったのかもしれません。