「いのちを受けるためのクリスマス」
2013年12月8日
テキスト ヨハネによる福音書 第10章10節~11節
「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
一昨日の晩、私どもの国は、特定秘密保護法案が参議院本会議で強行採決され、成立してしまいました。これは、恐るべき悪法です。民主主義の根幹を揺るがすものとなるでしょう。要するに、権力者が自分たちの都合のよいように国家、市民をコントロールできるようにするわけです。国家の秘密を、漏洩させる恐れがあれば厳しい処罰の対象となります。しかも、何が秘密なのかも権力者の都合のよい判断に基づいて秘密にされるわけです。おそらくこの法律は、人と人との間、信頼関係、人格的なすばらしい交わりを閉じさせる力を発揮することは明らかです。つまり、人と人との絆を壊し、心の深い部分の思いを分かち合うことを委縮させてゆくのです。この悪法は、国と国との間はもとより、やがて、遂には家庭の中でも、家族と家族の心にも壁をつくる危険性を秘めていると思われます。
ヨハネの手紙Ⅰの第4章18節には、こうあります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」日本は、このまま行けば、まさに戦争をするでしょうし、それを批判する市民を恐怖、処罰で押さえこみ、それは、この国から、加速度を挙げてお互いへの愛を冷まして行くことになるでしょう。今、この国に住む、特に若い世代、子どもたちにどれほど恐ろしい、暗い
社会を大人たちが背負わせようとしているかと思います。
そして、あの3:11の大震災。フクシマの現実があります。放射能の海水汚染、空間汚染がとまりません。放射線の線量が基準値を下回っているから、大丈夫と政府は言うわけですが、誰も信じていません。少なくとも内部被ばくを避けるために水道水を口に含む人はいないのです。そのような社会に生きている人々、特に若い世代が、自分は生きれるのかという生存の不安を越えた、自分はこの世界に生きていてよいのかという実存の不安を抱えて、生きざるを得ないというのです。人のいのちが軽んじられている、口では、いのちは大切と言いながら、行動では裏切っているわけです。子どもたちは、その事実を肌で感じてしまっているだろうと思います。人間のいのちがいよいよ軽んじられる時代になってしまった、そう思うのです。
今朝、何故、そのようにいのちが軽んじられてしまったのか、そして、どうすれば、いのちの重さを取り戻すことができるのか、何よりも、自分のいのちの重さ、自分の大切さ、自分と言うひとりの人間の尊厳を確信して、そして、この社会の中でいのちの真理、まことのいのちにあずかった者としての使命を改めて認識して、いよいよ岩の上にしっかりと立つ教会として整えられたいと願います。
さて、何故、いのちが軽んじられ、どうすればその尊厳を取り戻せるのか、その問いと答え、何よりもそれを解決する道は、いったいどこにあるのでしょうか。今は、待降節です。まさに、クリスマスにこその答え、解決があります。聖書は、言います。人が、いのちを重んじることができなくなってしまったのは、生ける神を知らないからです。言い換えれば、生ける神との正しい関係を失ってしまったからです。こう言っても良いのです。人が、いのちの重さを見失ってしまったのは、クリスマスを知らないからなのです。言い換えれば、クリスマスの主、イエスさまとの正しい関係を失ってしまったからです。
そもそも新約聖書が告げる、救いの出来事の始まりとはなんでしょうか。ルカによる福音書第2章にこうあります。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」救い主イエスさまの御降誕、イエスさまの誕生これこそ、「大きな喜び」、巨大な喜びの源なのです。永遠の神の御子でいらっしゃるイエスさまが、母マリアからお生まれになられたというクリスマスの出来事こそ、救いの始まりであり、大きな喜びの源なのです。
しかし考えてみますと、まことに不思議なことです。今やクリスマスは、お寺でも地域の子供会でも、どこでも覚えられています。どうしてお寺でもクリスマスなのだろうと思います。結局、サンタクロースの日になってしまうのか、確かに、キリスト者として、とても複雑な気持ちがあるのは否めません。そもそも、たった一人の人間の誕生を、何故、これほど大勢の人々、国々が祝うのでしょうか。何故なら、信仰者であろうがなかろうが、すべての人々に、クリスマスの喜び、その祝福は既に及んでいるからです。
今朝、その理由を一つだけに絞って考えてみます。クリスマスとは、人間がこの地上に生まれた意味や価値、皆さんがこの世に生まれた目的や使命、人間のいのちの尊厳、そのようなすべての人間の誕生の意味について、
余すところなく説き明かしてくれるからです。
それなら、イエスさまの誕生とわたしの誕生とは、どのような関係があるというのでしょうか。もう一度、天使のお告げを聞きましょう。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」
確かに、ここには、イエスさまの誕生の意味、その目的、その結果が示されているわけで、私どもの誕生の意味、その目的、その結果が示されているわけではありません。しかし、本当にそうなのでしょうか。
聖書を読んで行くと、あることに気が付きます。だんだん、気がついて来るのです。それは、人がこの地に生まれ出るということは、単に父と母の意思によるものではないという決定的な事実です。つまり、私をこの世に生まれ出させたのは、神のご意志、神の御心だということです。つまり、わたしが生まれたことは、神の喜びだったのです。神の喜びなしに、いのちはあり得ないのです。つまり、神の御心にもとづく、私どものいのちなのです。この事実、この真理を明らかにする古風な表現があります。しかし、決して失ってはならない表現です。授かりものという言い方です。人間のいのちとは、完全に授かりものなのだということです。今、若い世代の夫婦は、子どもを作ったと言うことが多いと思います。しかし、いのちは、つくれません。授かるものです。それなら、誰がお授け下さったのでしょうか。聖書を読めば分かります。わたしが、生まれたといいうことは、いのちなる神、いのちの源でいらっしゃる神が働かれたということなのです。つまり、わたしという存在は、自分のものではなく、神から授かったものだということです。しかも、その存在は、たとい誰が喜んでくれなくても、感謝してくれなくても、お祝いされなくても神の大いなる喜びがあるのです。神は、イエスさまのご降誕において、決定的に私たちにお示しになられました。
さてしかし、私どもはキリスト者、教会です。このいのちの喜び、誕生は、そこで終わらせてはならないのです。それは、まだまだ途上のものです。はじめの一歩にしかすぎません。目的地に向けて出発したにしかすぎません。
主イエスは、ヨハネによる福音書第10章10節で、こう語られました。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」羊とは、私ども人間のこと、人類を意味しています。そしてここで私と宣言されたイエスさまこそ、羊飼いでいらっしゃいます。この羊飼いは、このように自己紹介して下さいました。私が、この地上に来たのは、羊にいのちを授けるためである。しかも、豊かに授けるためである。
ここでのいのちを受けるとは、何でしょうか。それは、言わば、父と母を通して神から受けた肉体的な命のことです。この肉体のいのち、漢字で書けば「生命」となるでしょう。私どもは、この羊飼いでいらっしゃるイエスさま、神の御子から生命を受けたわけです。生命とは、先ほど確認しましたように、このイエスさまからの授かりものです。神の御子から受けたものなのです。おそらく、他の宗教や、宗教をお持ちでない方でも多くの方が、授かりものというこの根本的な事実を受け入れて下さると思います。
しかし、そこで留まってはならないのです。その先まで、つまりゴールまで行かなければなりません。目的地まですすまなければならないのです。主イエスは、「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため」で終わらせられません。さらにこうお続けになられます。「しかも豊かに受けるためである」この一言で、ご自身の特別な使命、ご降誕の特別な目的を明らかに示されるのです。それなら、この「いのちを豊かに受ける」とは、いったいどのようなことでしょうか。長生きをするということなのでしょうか。違います。どこにも障がいがなく、完璧に健康な生命を維持し続けるということ、死ぬまで病気一つしないで暮らせるということでしょうか。違います。
「豊かないのち」とは、神のいのちそのもののことです。つまり神の永遠のいのちそのもののことなのです。したがって、もし、私どもがここまで行かなければ、生まれて来た意味が達成されないのです。この尊いいのちを授かるまで、この神のいのち、神からの永遠のいのちを授けられるまでは、本来の誕生の喜び、大きな喜び、巨大なわたし自身の誕生の喜びが成就しないのです。
主イエスは、私が来た目的とはと、イエスさまのクリスマスの意味をここで宣言されたのです。クリスマスとは、私どもに神のいのちを授けるためのもの、私どもが永遠のいのちを受けるための出来事なのです。したがって、神のいのちを受けないままで死んでしまうなら、生まれて来た甲斐がないと言っても言い過ぎではありません。
ある政治家が、「ひとの命は地球よりも重い」と言ったことがあります。すばらしい考え方です。ただ残念ながら、どうしてそれほど重いのかという理由、根拠は示されませんでした。しかし、聖書を読めば、納得できるだろうと思います。
すべての人間のいのちとは、他のいかなる動物のいのちとも比べることができません。いのちの尊厳とは、厳密に言えば、人間のいのちの尊厳なのです。なぜなら、人間は、すべての被造物、いのちの冠として、その最後に創造されたものだからです。何より、神に似せて創造され、神の息を吹きいれられた存在だからです。人間とは、決して、単に、もっとも知能に秀でた動物なのではありません。人間とそのいのちの尊厳とは、神がそのご意志に基づき、祝福をもって、神の喜びをもってこの地上に生きることをよしとされて、そこにあるものだからです。
ちなみにわたしどものウェストミンスター大小教理問答、子どもカテキズムの問い一に、人生の主な目的とは何かを問い、こう答えます。「人の主な目的とは、神の栄光をあらわし永遠に神を喜ぶこと」これです。神の栄光をあらわすとは、Soli Deo Gloria!のことです。私どもは、この真理を、いつも小難しいこととしてしまいがちです。神の栄光のあらわれとは何でしょうか。それは、端的に言えば、人間そのものです。人間がそこにある、人間として存在するところに神の究極の栄光があらわされるのです。そして、その人間とは、単に、肉体上の生命に生きるものではありません。言うまでもありませんが、動物にもいのちがあります。そのような生き物の生命のことをギリシア語では、ビオスと申します。バイオという言葉の語源です。それに対して、主イエスがここで仰ったいのちのことを、ギリシア語では、区別して、ゾーエーと申します。人間本来が生きるべき本物のいのちのことです。人は、誰でもこの神のいのちによってこそ生かされるもの、生きるものなのです。すべての人間とその生命は、永遠のいのちを受け継ぐために与えられたものなのです。だから、尊いのです。
使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙第2章1節においてこう申します。「あなたがたは、以前は自分達の過ちと罪のために死んでいたのです。」私どもは、かつては罪のために死んでいたというのです。この場合の死とは、言うまでもなくビオスの死ではありません。バイオロジー、生物学で扱う次元の事ではありません。
有名な主イエスの放蕩息子のたとえを思い起こしたいと思います。弟は、放蕩三昧をして、父のもとに帰って行きます。あの個所で、主イエスは、父のもとに帰ってきた息子の事を「死んでいたのに生き返った」と表現しました。死んでいたとは、肉体の生命のことではありません。父親との正しい関係、あるべき関係を失っていたことを意味しております。つまり、主イエスは父なる神と正常な関係にない者を死んだ者と呼ばれるのであります。つまり、主イエスと正しい関わりをもっていない状態は、ビオスとしては生きているけれども、本来の人間のいのち、つまり、神のゾーエー、神のいのちを受けていない命として死んだ者、霊的に死んでいると、示されたのです。
そして、まさにそのように、神との正しい関わりを失って、死んでいた私どもを生き返らせるために、神はその独り子の主イエス・キリストを、この地上に送って下さったのです。イエスさまは、地上に来臨されたのです。
今年の中部中会の教会学校教師研修会は、安積力也先生にお越しいただき、まことにすばらしい講演を伺いました。安積先生は今、山形県にあるキリスト教主義の全寮制の高等学校の校長をしておられます。高校生たちとまさに寝食を共にしながら、人格教育、人間教育に全身全霊をもって取り組んでおられます。はだかの高校生とまさに先生ごじしんが裸になって魂と魂とがぶつかりあうような、そのような厳しい、そしておそらく楽しい日々を過ごしていらっしゃるのだと思います。
私が、この先生のことを存知あげたのは、ひとりの会員から、NHKのラジオ深夜便の録音テープを貸していただいたことによります。本当にすばらしいものでした。また、岩波ブックレットやNHKテレビでもお話を伺っていました。いつか、皆さんにも直接に聴いていただきたいと願っていましたが、不思議な摂理で可能となりました。いつもの出席者より多くの方々が集まられました。予想通り、まことに深いお話でしたし、わたし自身は今なお、心の中で反芻しながら、考え続けています。
さて、最後に、冒頭で御紹介した安積先生のお話の続きをさせていただきます。先生は、高校3年生の一人の男子との対話を、分かち合って下さいました。彼は、いつも大変な作業も率先してやっていて、否定的なことを言わず、後輩たちを励ますリーダーシップのある子です。そんな彼が、ある日、安積先生の校長室を訪ねて来たて、こう言うのです。「僕は今、やるべきこと、そしてやりたいことをやっています。そして、充実して生きています。それなのに最近、一日のすべてをやり終えて、寮のベッドで一人っきりになると、とてつもなく疲れ切った自分を感じるのです。こんなんで生きている意味ってあるのでしょうか。生きていて良いのかって思ってしまいます。」彼は、キリスト教独立学園に来て、自分の努力で一生けん命頑張ってやって来たのでした。ところが今、自分の努力では、生きて行く力がなくなってしまったと訴えるのです。彼は、こう言ったそうです。「今まで、死にたくなったことなど、一度もありませんでした。」「最後は、自力で頑張るしかないと思って、とにかく生きよう。そうすれば、願っているものにいつかたどり着けると信じて来ました。」「けれどももう限界です。どうしていいかわからない」「もう、死ぬしかない」「この世界で生きて行くことはできない」とまで追い詰められてしまったのです。
そのとき、安積先生は、心のなかで祈ったそうです。「神さま、この子を殺さないでください。」彼の顔つきから、自殺を考えていることが分かったからです。先生は、真剣に彼に向き合われました。いへ、本当のことを言えば、霊的な真理を申しますと、安積先生を通して、神さまが彼に向き合って下さったのです。続く対話の中で、彼は、こうも言ったというのです。「僕にはしたくてもどうしてもできないことがあります。それは、他の人の胸にすがって、心の底から泣く、そういうこと。」
ここが安積先生の教育者の力だと思います。先生は、こう問いかけられました。「自力が尽き果てた時に、人間になお、一つだけできることが残っている。それが何だか分かるか。」これは、すべての人に問いかけられるべき問い、問うべき問いです。
ただし、わたしは、この最も大切な真理は、自殺を考えるまで、ギリギリまで考え抜かなければ、分からないものだとは、決して思いません。幼い子どもたちにも、私ども教会は教え続けていることです。人生の目的とは何かを、聖書から、神によって教えているのです。
人間が、本当の人間となること、つまり、いのちを豊かに受ける、神のいのちを受けること、そのために、人間に一つだけできること、残っていることとは何でしょうか。それは、あの放蕩息子の譬えのように、神にすがることです。祈ることです。主イエスに、よりすがってまことのいのちを授かること、その命で生きること、生かされて行くことです。あの高校生は、誠実なのです。大人は、そこまで突き詰めないまま、ビオスだけが人生さ、と開き直っているかもしれません。しかし、そのような偽りの思い、不誠実はやめてよいのです。ただちにやめるべきです。
どうして大人は、逃げるのでしょうか。人間が、本当のいのち、永遠のいのちで生きるなど無理だとよく考えないまま、諦めているからではないでしょうか。実は、このいのちを受けるとは、まったくたやすいことだからです。クリスマスを、その意味を信じる、ただそれだけです。主イエスが、わたしの生命を授け、喜んで下さった、そして、それは、永遠のいのちをさずけるためであったのだと認め、感謝して、受け入れるだけです。
ただし、わたしは、今、神との関係において本来のゾーエーを失っている、死んでいる、自分の力で自分を支えようとして、それができず、むしろいよいよ本来の自分とはかけ離れた生き方、惨めな生き方をしていることを認めることは、絶対不可欠です。惨めな自分を悲しむことです。悲しんで諦めてはなりません。また何よりも開きなおってはなりません。あの放蕩息子のように、父なる神のふところに飛び込めばよいのです。神にすがりついて、祈ればよいのです。そのとき、毎日、クリスマスの喜びが続いて行きます。神のいのちに生かされ、神の愛の交わりに生かされる本当の自分が生まれるのです。そのとき、たといこの国がどれほどの恐ろしい時代を迎え、人間を人を殺す狼や、感情を失ったロボットのように、恐るべき国民教育を強制されようとも、それに対抗して立ちあがるまことの人間を生み出すことができるはずです。そのためにも、今年のクリスマスを深く喜び、深く祝いましょう。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、真理ではなく偽りに惑わされ、人間として、人間らしく生きる道を失って久しいこの日本、この時代であります。どうぞ、いのちの道を歩む特権にあずかりました私どもが、ますます力強い歩みを御前になしてまいる事ができますように。その私どものいのちの歩み、天国への行進によって、私どもの教会に、ひとりでも多く救われる人を招いて下さい。