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「大きな喜びを与えるクリスマス」

「大きな喜びを与えるクリスマス」
ファミリー礼拝式
2013年12月15日
テキスト ルカによる福音書第2章8節~20節
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

今日は、親子合同礼拝式として捧げています。そしてクリスマスについての物語を読みました。イエスさまがお生まれになられたその夜、神さまはその出来事をある人たちに特別にお教えになられました。それは、羊飼いたちでした。この人たちは、ふつうの羊飼いではありません。夜だけ働く羊飼いです。正確に言うと、夜だけしか働くことができない羊飼いたちです。

私たちが生きている今の時代は、夜でも蛍光灯が明るく部屋を照らし、道路を照らしています。コンビニは、深夜でも開いています。夜に働く人は、珍しいことでもありません。しかし、2000年前のこの時代、夜に働く人は、ほとんど誰もいませんでした。そのまさに例外のような人たち、数少ない人たちが、この羊飼いたちでした。彼らは、何も、好き好んで夜に仕事をしていたわけではありません。お昼に仕事をしたくても、する仕事がありませんでした。仕事をさせてもらえなかたのです。理由があります。この人たちは、昔、犯罪に手を染めて刑務所に入っていたのです。刑務所から出て来た彼らの働く場所は夜の仕事しかありませんでした。彼らは、狼が羊を食べようと狙って来る最も危険なその夜に、羊飼いの仕事を任されたのです。

いつものように寒々とした夜、彼らが羊の番をしていたその夜に、イエスさまは、馬小屋の中でお生まれになられました。不思議ですが、ここにも動物が登場します。馬です。畑を耕す馬は、とても大切でした。おそらく馬は、家畜として家族といっしょに暮らしていたのだと思います。そうは言っても、やはり馬小屋は人が寝るところではありません。ところが、イエスさまは、その馬小屋でお生まれになられました。しかも餌箱に藁を敷いて、それをベッドにして眠られました。その夜、その馬小屋に羊飼いたちが駆けつけて来たというのです。ということは、羊たちもいっしょです。想像してみるととても楽しい感じがします。イエスさまのお誕生をお祝いしたのは、この羊飼いと羊たち、母マリヤとヨセフそして馬たちだったと言うのです。私たちの礼拝式でよく歌われる詩編第36編に、こうあります。「主よ、あなたは人をも獣をも救われる。」人と獣とを救う主の愛が賛美されています。まさに、その救いの約束がここに起こっていることを私たちは認めることができます。神の御子のイエスさまは人々から顧みられなくてさびしく悲しい思いを抱いている人たち、さらに動物たちまで救うために来られたのです。ある人は、この羊飼いに飼われていた羊たちは、エルサレム神殿で捧げられる羊、いけにえの羊だったのではないかと言います。もしそうであれば、わたしはこんなことを想像してしまいます。羊たちは、イエスさまを見てもしかすると心の中で、「もう私たちは、エルサレム神殿で人間の罪を償ういけにえにならなくてもよいのですね」とお礼を言ったかもしれません。

それはさておき、少なくとも確実に言えることがあります。羊飼いたちは、天使が告げた通り、飼い葉おけの中に眠っている赤ちゃんを見たとき、「ああ、この赤ちゃんがやがて自分たちを救ってくださる主メシアなのだ」と信じたはずです。そして、心に大きな喜びが湧きあがったはずです。

彼らは、天使たちの賛美の美しい歌声を一生忘れなかったと思います。その歌声は、こう歌っていたのです。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』

いと高きところとは、天です。天のお父さまがいらっしゃる場所のことです。「天には栄光が、神にのみありますように。」これは、当たり前のことだと思います。少なくとも聖書を読んだことのある人は、神は栄光に包まれ、栄光そのもののお方です。天使たちは当然のことを、当然のこととして、しかし、心を込めて歌ったのです。しかし、次の言葉はどうでしょうか。「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上には、御心に適う人たちに平和があるように。これも、ある意味では、当然のことです。神さまの御心に適って生きる人たちには、神の平和が与えられるべきでしょう。しかし、羊飼いたちは、そこで、本当に驚いたと思います。何故なら、自分たちは、周りの人たちから後ろ指を指されて生きて来たからです。「あんな犯罪者は、自分たちのところから出て行って欲しい、目ざわりだから、近寄らないで欲しい。あんなやつらは、神さまからもっとも離れた悪い人だ。」そんな風に言われ続けてきました。ところが、天使は、他でもない、そんな自分たちのことをなんと「御心に適う人」と呼びかけているのです。つまり、神さまは、この夜に働く羊飼いたちを、御心に留め、御心に適った人だと宣言されたのです。神の御心に適っている人だから、イエスさまの誕生を他の誰でもなく、自分たちに告げて下さったわけです。

天使は、最初に羊飼いたちにこう告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」恐れるな!と天使が呼びかけたのは、無理もありません。羊飼いは、非常に恐れたのです。彼らは考えました。こんな犯罪者だった自分たちに天使が現れるというのは、神さまの怒り、神さまの裁きがついに下るのかと恐れたからでもあったと思います。ところが、そのような理解は間違いでした。天使は言いました。「怖がる必要なんかありませんよ。その正反対だからね。民全体、人類に与えられる大きな喜びを、神さまは先ず、あなたがたにお伝えするのです。」

天使は、クリスマスの知らせを告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」羊飼いたちは、この大きな喜びに全人類を代表して、また一番に与えられるのです。さらに天使の歌声で「地には平和、御心に適う人にあれ。」と言われたのです。つまり、この大きな喜びとは、私たちの世界に平和をもたらすものだということです。この大きな喜びと平和とは、深く繋がっていることが分かります。

だったら、この喜び、この平和とは何かを学びましょう。これがクリスマスのメッセージです。大きな喜びと平和とは切り離して考えることができません。深く結ばれています。
皆さんは、子どもの教会で放蕩息子の譬え話を聞いたことあると思います。とても有名なイエスさまの譬え話です。実は、この譬え話の前に二つの譬え話があります。最初は、羊飼いのお話でした。自分の100匹の羊の群れから一匹が迷いだしてしまったとき、99匹を野原に残してそのたった一匹を、見つかるまで探し続けて、ついに捜し出したときの羊飼いの喜びのお話です。そのとき、羊飼いは友達や近所の人々を呼び集めてこう言いました。「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」もう、ものすごい喜びようだったのです。そこで、イエスさまは教えて下さいました。「みなさん、このように神さまのもとに立ち帰って来たたったひとりの罪人のために、大きな喜びが天のお父さまにはあるのです」

二番目の譬えは、ひとりの女性のお話でした。この女性は、10枚の銀貨を持っていましたが、それは、ネックレスでもあったのですが、糸が切れてしまったのでしょう。一枚が無くなってしまいます。この女性は、絶対に捜し出す、見つけ出すと覚悟を決めて探し続けます。そして、見つけます。そのとき、友達や近所の人たちを呼び集めて「皆さん、一緒に喜んでください」と言いました。そこで、イエスさまは教えて下さいました。「みなさん、このように神さまのもとに立ち帰って来たたったひとりの罪人のために、大きな喜びが天のお父さまにはあるのです」
そして最後の三番目の譬え話が有名な放蕩息子の譬え話です。今日は、くわしくお話する時間がありません。これは、父親のお話です。お父さんには、二人の息子がいたのですが、弟が、自分勝手な罪の思いで、家出をしたのです。お父さんのことを死んだことにして、財産をもらって、遠いところに出かけて行きました。しかし、彼は、ついに自分がどんな人間であるのか、あったのかに気づいて、お父さんの家、自分の本当の故郷に戻ろうとしました。お父さんにどんなに叱られるかな、怒られるかなと心配しながら、家に近づくと、なんと、お父さんが向うの方から駆け付けてくるのです。そして、首を抱いて、抱きしめました。そして、こう言いました。「この息子は死んでいたのに、生き返った。こんなに嬉しい事はない。これまでに最大のお祝いをしよう。いっしょに喜んで下さい」
つまり、クリスマスの夜に天使が告げた大きな喜びとは、天のお父さまの喜びです。天の喜びのことなのです。もっとはっきりと言いましょう。この大きな喜びとは、失われていたもの、つまり、天国から離れていた人たち、つまり、神さまから遠く離れていた人たちが、神さまのもとに帰って来て、天のお父さまが僕たち私たちをしっかりと抱きしめる、その時に神さまが味わわれる喜びなのです。

それを、私たちから言えば、天国に入る喜びと言えるでしょう。天国、神の国とは、神さまと私たちがなんのわだかまりもなく、神さまに愛され、神さまを愛し、自分を愛し、まわりの人たちを愛するそのような喜びと平和の国のことです。神の喜びにあずかることができたらそこに神の平和があり、それを神の国と言うのです。
つまり、クリスマスとは、この世界に神の平和の国、神の国、天国が始まったことです。イエスさまは、この世界に天国を実現するために、来られたのです。そして、その天国に、すべての人が招かれています。あの羊飼いさんたちこそ、最初に招かれたのです。

さて、皆さんは自分のことをどんな人間と考えているでしょうか。自分のことを御心に適った人と考えていますか。すると、おそらく大人の人たちから始めて多くの人たちが言うかもしれません。「御心に適った人だと、決して考えられません。わたしは、御心に適った生き方ができていません。まだまだ、不十分です。」このような大人の人たちは、おそらく真面目な方々です。しかし、本当の所、深いところでは、もしかしたら、真面目とは言えないのかもしれません。何故でしょうか。天のお父さまが、あの寒い夜に野宿をしながら羊の番をしていた人たちのことを「御心に適う人たち!」と呼びかけ、彼らに喜びを与えて下さったからです。

そもそも、私たちがこうして生まれて来たこと、それが御心に適ったことの出発地点です。原点です。そして、神さまの御言葉を聴いて、クリスマスのことを教えてもらいました。あの羊飼いと同じです。そして、あの羊飼いたちは、こう言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行っ」たのです。これは、重要です。これなしには、クリスマスの喜びが実現しないからです。もし、あなたが、クリスマスを確かめようとしないなら、「わたしは神さまの御心に適った人ではありません」と言えるかもしれません。クリスマスなんて、必要ないと言い張るなら、死ぬまで言い張ってしまうなら、そうかもしれません。しかし、私たちは、今、ここで礼拝を捧げています。確かめに来たのです。そして、ああほんとうに、イエスさまは、私たちのところに来ていて下さる。イエスさまが一緒におられる。私たちは、今、天のお父さまのところに戻って来て、お父さまに抱きしめられている。そう信じるなら、もう、神さまの御心に適った人です。もう、神の喜びにあずかっているはずです。神さまとの間に平和があり、天国はその人のものとなっているのです。

確かに、私たちの世界は、喜びばかりではありません。むしろ今、悲しいことばかりが起こっています。人生は、嬉しい事ばかりではありません。むしろ、悲しい事の方が多いのかもしれません。しかし、騙されてはなりません。大きな喜びがもう、わたしたちのところにやってきました。与えられました。神さまは、私たちがここに集まって礼拝していることを、先生はどう説明したらよいのか、もう言葉がありません。天のお父さまは、私たちが教会で神さまを神さまとして礼拝するとき、神さまを賛美するとき、天において喜びを爆発してくださっています。

しかし同時に、この世界には、悲しい涙を流し、恐怖や諦め、憤りの悔し涙を流している人々はたくさんいるのです。天のお父さまは、その悲しみを全部、担われています。何よりも、あのイエスさまの十字架の苦しみ、父なる神さまの悲しみはどれほどのものだったのでしょうか。しかし、天のお父さまは、悲しみに負けられません。この大きな喜びの中で、その悲しみを受けとめ、慰めを与えて下さるのです。もし、私たちが、そのことがわかって来ると、この地上で悲しみがまったくなくなるまで、天の喜び、神さまの喜びにあずかることでできないと考えることが間違っていることが分かります。騙されてはなりません。この大きな喜びを知っているなら、もうどんな大きな悲しみが起こっても、襲ってきても、その悲しみで押しつぶされてしまうことはありません。この世界には、そして誰でもない私たちには、天国の喜びがここに始まっているからです。その最大のものが、礼拝の喜びです。神さまに抱かれている喜びです。神さまが、わたしを喜んでおられるその喜びの中で、小さな悲しみを乗り越えて行くのです。

そのためには信仰の秘訣があります。悲しい事、汚いこと、悪い事が次から次に起こって来ても、騙されないことです。天のお父さまは、既にクリスマスを、大きな喜びを与えて下さったのですから、小さな喜びもたくさん与えて下さいました。そこに、目を注ぎましょう。
皆さんに、お父さんやお母さんがいること、そのお母さんやお父さんが、教会に来ることを反対していないこと、連れて来てくれる親であること。友達に優しくされたこと。みんな天国の喜びを映し出してくれています。みんなで、悲しみの中にしかし既に始まっている天国の喜びを、一つでも多く見つけたいと思います。
今日の午後2時、先生は、あの羊飼いのように、イエスさまを信じていない300人の人たちの前でお話します。そこには、平和を守りたいと願っている人たちが集います。ここにも神さまは天国の喜びを始めて下さっているのです。私たちは、クリスマスのこの時、この大きな喜び、神さまの平和を誰か一人に告げたい、そしていっしょに神さまの喜びを喜びたいと願います。

祈祷
天のお父さま、僕たち私たちのためにひとり子でいらっしゃるイエスさまを送って下さいましたことを感謝致します。天国の喜び、天国の平和が、イエスさまによってこの地上に実現しています。今、僕たち私たちは、この礼拝式でこの喜びを受けています。どうぞ、このクリスマスの喜びを、今週、誰かに伝えることが出来ますように。アーメン