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「捜し出すためのクリスマス」

「捜し出すためのクリスマス」
降誕祭礼拝式
2013年12月22日
テキスト ルカによる福音書第19章1節~10節
「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

降誕祭の礼拝式を捧げています。最初に、ご挨拶を申し上げたいと思います。クリスマス、おめでとうございます。クリスマスの救いと祝福は今、みなさまのものとなりました。ひとり一人の上に、実現しました。おめでとうございます。主イエスが2000年前にご降誕され、その降誕を祝い礼拝する私どものこの場所、この神の家に、まさに救いは訪れています。この家には、主イエスが、神の御子でいらっしゃるキリストがご臨在されています。私どもは今、キリストと共にこの場にいるのです。私どもはそのような究極の祝福へと今、招かれているのです。幸いなるかなとの主イエスの御声、父なる神の喜びがここにあります。本当に、おめでとうございます。そして、心から主の御名を賛美致します。

さて、今朝は、ルカによる福音書第19章を読みました。実は、今週もまた予告させていただいていた聖書の個所からではなく語らせていただきます。神が与えてくださったのは、ザアカイの物語です。極めて有名な物語です。子どもの教会で用いている教会学校教案誌では、おそらく2年に一度は取り上げる、それほど大切な個所です。しかし、今回調べてみましたが、このテキストそのものを礼拝式で扱ったことはなかったと思います。しかし、この物語は、まさにクリスマスメッセージそのものなのです。

さて、ユダヤにエリコという町があります。エルサレムの東20キロほどの場所にあります。そこに、ザアカイという一人の男がいました。彼は、多くの徴税人たちを束ねていたトップです。そもそも徴税人とはどのような職業だったのでしょうか。今で言う、税務署員、税務署長に相当するかもしれません。福音書の中では、しばしば「徴税人や罪人」という表現が出て来ます。罪人より先ず、徴税人が挙げられるほど、ユダヤ人には最悪、極悪の人間として忌み嫌われていました。何故なら、当時のユダヤはローマ帝国の言わば属国とされていました。自治はかろうじて認められていましたが、彼らは、直接税はもとより間接税など、ありとあらゆる営みに税金をかけられていました。この税金は、自分たちの国のために使われるものではありません。ローマ帝国は、まことに政治的な知恵がたけていました。この下級役人を、ユダヤ人から選んで、取り立てさせたのです。言わば、ユダヤ人を敵である自分たちに抱き込んで、統治したのです。それなら何故、ユダヤ人がそのような職業をあえて選んだのでしょうか。それは、この仕事は、自由に私腹を肥やすことができたからです。自分たちのさじ加減でどうにでもできたのです。ですから、ユダヤ人たちが、徴税人を神をもおそれぬ極悪人と批判したのも無理からぬことだったのです。その徴税人の中の頭であったのが、ザアカイでした。

彼の両親は、彼にザアカイと言う名をつけました。それは、「正」とか「潔」という意味です。「神の正義」という宗教的意味が込められていました。息子に、神を畏れ敬うよいユダヤ人、人間になって欲しいと願ってのことだったはずです。いったい何故、いったい何がこのザアカイに起こって、このような職業についてしまったのでしょうか。理由は、分かりません。ただ、想像することはできます。その手掛かりは、背の低さにあるかもしれません。彼は、少し背が低かったと言うのではありません。極端に背が低かったのだろうと思います。このどうすることもできない現実は、彼に相当の劣等感を与えたのかもしれません。もしかすると幼い頃から、友達からそのハンディを笑われたのかもしれません。こうして、彼の心はいじけてしまったのかもしれません。あるいは、彼は、ザアカイの名の通り、真実にユダヤ国家のために神の正義を実行しようと希望に燃え、理想に燃えて社会活動に勤しんでいたのかもしれません。当時のユダヤの指導者たち、つまり宗教家たちはローマ帝国の庇護に甘えて、独立のための運動に関心を示さず、自分たちの既得権益を守るためには、このローマの属国に甘んじていた方が得になると考えていました。建前は神を重んじつつ、本音は自分たちの立場や利益を重んじていました。ザアカイはそのような現実を見抜き、それだったら自分も、ローマの下級官吏の徴税人になって、彼らよりさらに権力や財力をもって、目に見えるもの、地上のことだけを追求しようと開き直ったのかもしれません。

さて、そのようなザアカイの住むにエリコの町に、主イエスが来られました。群衆はまるで映画スターのように主イエスを見つめました。主が進まれる道は、人だかりになっていたのです。おそらくザアカイは、興味本位もあったと思います。見てみたくなりました。あるいは彼は、このように心に思っていたかもしれません。「自分は、騙されない。結局、宗教家であろうが誰であろうが、どうせ、人間の本音、本心は暗闇だ。イエスとう男も、民衆の人気を集め、権力を持ち始めているかもしれない。しかし、この俺は、さらに何倍もその上を行く権力、財力を持っている。力のない民衆、貧しい者たちは、あの男に頼るしかないだろうが、俺は、違う。そして、俺の眼は欺けないぞ。」

こうして、彼はイエスを見ようとします。ところが、エリコの町の人々は、いつものお返しをザアカイにします。道を開けませんでした。彼は、ここでも自分の背の低さを突き付けられ、プライドを傷つけられたのです。しかし、ここで、とても不思議に思いますが、彼は、それでもイエスに関心を持ち続けます。遂に、大人としては恥ずかしい行動に出ます。イチジクの木の上に登ったのです。

こうして、ザアカイは木の上から主イエスを遠く見ました。するとどうでしょうか。主イエスが、まっすぐ彼のもとに近づかれるのです。そして、木の下に来ると、ぴたりと歩みを止めて、ザアカイを見上げました。そして、こう仰いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」これはもう命令のような響きがあります。しかし、ザアカイは叱られたとは感じません。「ザアカイよ、あなたは本来、わたしのひざ元にひれ伏して、礼拝すべきではありませんか。頭が高い、ひかえなさい」という意味でないことは、主イエスの眼差しで分かったはずです。そして、主は、驚くべきことを仰ったのです。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」もしかすると彼は、驚きのあまり木から転げ落ちてしまったのではないかとすら思います。その驚きの理由は、一つには、確かに、ザアカイの名はエリコでは有名だったことでしょう。しかし、町の人間ではないイエスが自分の名を知っていたという驚きです。そして、彼は、自分の名前ばかりか自分の職業まで知っているということを、ただちに理解したと思います。その上で、この人は、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言うのです。彼の家には、部下である徴税人たちは泊ったことがあったかもしれません。奴隷たちは何人も抱えていたことでしょう。彼の家は、まさに豪邸なのです。ただし、その家に近づくユダヤ人は誰もいません。家の中に入ることはおろか宿泊などすれば、律法の掟に基づいて、ザアカイの罪が自分にも及ぶと考えられていたからです。

ところが、今、よりによって律法の教師として期待され、評価されていたイエスさまが彼の家に泊まりたいと願っているのです。主は、「泊らせてもらえませんか」と質問されたのではありません。まるで永遠の初めから、わたしはあなたの客になる、あなたの家に泊まることにしていたというようなニュアンスです。

ザアカイの驚きはどれほどのものだったでしょうか。彼は、何の迷いもなく、ただちに降りました。彼は、主イエスの眼差しの中に、これまで見たこともない優しさ、美しさを見たのです。主イエスは、降りて来なさいとお命じになられましたが、それは決して、上から目線の語り方ではなかったのです。むしろ、ザアカイは、これまで上から目線で見られたり、接しられたら怒りと憎しみで倍に返したくなる性格でした。しかし今、そのような突っ張って生きて来たことが恥ずかしくなったかもしれません。主イエスは、自分のような者すら人として尊敬し、重んじていてくれる、そのように感じたのです。彼は、喜んで、嬉しくなって飛び降ります。そして、自分の家に喜んで主イエスを迎え入れるのです。

さて、実は、この主イエスの行為を驚いたのはひとりザアカイだけではありません。むしろ群衆の方が、もっと驚いたのです。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかしこの驚きは、ザアカイの驚きとは正反対のものです。彼らは、「ああ、騙された」と思ったのです。「裏切られた」と思いました。イエスは、今の今まで、ローマの権力におもねり、金持ちとなって、自分たちを苦しめる神も人をも恐れぬ罪人の頭である徴税人に、神の正義の怒り、裁きが下ることを警告してくださるに違いない。彼らの犯罪、神に対する罪を糾弾してくださると期待していたからです。ところがなんと、そのイエスさまが彼の家に泊まりたいというのです。家に泊まるというのは、一晩、お世話になると言うような意味ではありません。当時の慣習では、それはザアカイの仲間になる、連帯保証人になる、つまりザアカイと一蓮托生、運命を共にするという関係にあることを表明する行為なのです。したがって、このときから多くのユダヤ人は、主イエスから離れるようになってしまったのです。

さて、ザアカイは主イエスと自分の家に歩いて行くその道すがら、何を思っていたのでしょうか。いったい、イエスさまとどんな会話をしたのでしょうか。おそらくザアカイは、イエスさまのことをもっと知りたいと思ったはずです。「どうして、こんなわたしの家に泊まろうと考えられたのですか。」そして、ザアカイじしんもまた、自分の歩みを振り返りながら、どうして徴税人になったのか、その理由や世間に対する恨みつらみなど、いろいろ話しをしたかもしれません。主イエスは、おそらく黙って聞きながら歩かれたと思います。この物語で、とても不思議で、そして大切な事があります。主イエスは、ザアカイに神の御言葉、福音の教えを何一つお語りなっておられません。しかし、無言のうちに、ザアカイには主イエスのお心ははっきりと通じたのです。分かったのです。「ああ、この人は、わたしを一人の人間として見てくれている。この人は、ユダヤ人から罪人の頭とけなされ見下されている自分を、あるがままで受入れ、接していてくださる。わたしは、この聖なる人に、愛されている。この人こそ、まことの神の人だ。」

ザアカイは、家について、主イエスをお通しします。その家の中で、彼は、はっきり気づいてしまいます。その部屋は、イエスさまが一度も見たことのなかった立派な調度品で飾られていました。ローマ式のランプ、シャンデリア、銀や金の器もあったでしょう。大理石の床やテーブルもあったでしょう。私どもでも、驚くような高価な調度品で溢れていただろうと思います。ところが今、その品々は、もはや光輝くものとは思えなかったのです。むしろ、自分の悪事を証する証拠の品のように見えたのです。そして、この質素なみなりのイエスさまの内にこそ美しさ、清らかさ、本当の人間の姿を見たのです。それに比べて、自分の心の中の汚さは、まさに部屋を飾る高価な調度品のようなものでした。つまり、うわべを飾っても、本当のところは薄汚れていると思ったでしょう。彼は、これまで、「神だとか、道徳だとか、現実の社会は、人生は、そんなきれいごとでは済まされない。自分こそが勝ち組だ。自分のように権力を手にし、金もうけができないものたちが、宗教だとか、なんだとか言って逃げているのだ」そのように確信していたのです。しかし今、それは、まったくの間違いだと、ついに気づいたのです。このイエスさまを前にして、初めて思ったのです。

主イエスは、確かに言葉で福音を語られなかったのですが、こんな自分を愛し、自分の仲間となってくださったそのせいで、大勢の人々から、批判されたこのイエスさまの中に、本当の愛、神の愛を悟ったのです。同時に、これまでの見栄を張って生きて来た愚かさ、世間の者たちへの対抗心、憎しみで負けまいと虚勢を張って生きて来たことがなんと愚かで悲しいものだと理解したのです。

彼は、今、分かりました。そしてただちに「立ちあがり」ます。決断するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」彼は、心の底から、人はお金で生きるものではない。権力で幸福なれるものでもない。競争して勝つことによって自分の価値を高めて行くものでもない。と分かりました。そして、自分が本当に願っていたことが分かったのです。それは、なんと、ザアカイの名の通り、正義を愛し、清く生きることだったのです。確かに、そのような生き方は、まったくできていませんでした。これからもできないかもしれません。しかし、このイエスさまのように、愛に生きる人になりたいと思ったのです。彼が、財産の半分を貧しい人に施すと言ったのは、そうしないと、救われないからと言われたからではありません。罪滅ぼしのためでもありません。赦されようが赦されまいが、もう、これまでのような生き方が空しいこと、価値がないこと、愚かな事だと分かったのです。分かって実行しようとしたのです。ただし、ザアカイは、あの主イエスの弟子となった徴税人マタイのようにはできません。主に従うために、すべてを捨てるとは言えません。徴税人を辞めるとまでは言いません。それが、今のザアカイです。しかし、主イエスは、ザアカイに悔い改めの心が神から与えられたことを心からお喜びになられました。彼は、少なくともお金だとかメンツだとか競争だとか、うわべの世界で生きることを止めるのです。彼は、主イエスに受け入れられたとき、神の愛を確信し、心に喜びが溢れだしたからです。

さて、これに対し、主イエスは、ものすごいことを宣言されるのです。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ザアカイは、いよいよ驚いたはずです。主イエスは、この人もアブラハムの子なのだと宣言されます。アブラハムの子とは、神がアブラハムと結ばれた救いの契約、約束にあずかる者、つまり、正真正銘、神に愛されている子どもだと宣言されたのです。主は、「今日、救いがこの家を訪れた。」と表現されました。救いがザアカイの家に訪れるという、この表現で明らかにされることがあります。救いとは、つまり、イエスさまご自身の事だと言うことです。主イエスが、その場に共にいてくだされば、誰でも救われる、救われているということです。

この家とは、単にザアカイの住居のことを意味したのではありません。ザアカイ自身の心をも意味しています。ザアカイの汚れた心、憎しみの心、虚勢を張って生きて来たその心、汚い心の中に、聖なる主イエスは訪れて下さったのです。そのとき、ザアカイは救われたのです。そのようにして、アブラハムの子どもとなるのです。いや、もともと彼もアブラハムの子なのですから、主イエスを宿すことによってアブラハムの子であることが現実のものとなるという意味です。

最後に、この物語は、この一言で結ばれます。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」人の子とは、主イエスのことです。旧約に約束された救い主という意味です。主イエスは、救い主であるこのわたしは、「失われたものを捜して救うために来たのである。」と、この地上に来臨された目的をずばり明らかにされたのです。これこそ、クリスマスの目的に他なりません。あの2000年前、主イエスは、何故、この地上に来られたのか、何故、よりによって馬小屋でお生まれになられたのか。それは、すでにこの世界そのものが言わば馬小屋のように汚れたものだったからです。そして、その汚れは、私どもの心の中にあるものが外に現れされたものでしかないのです。むしろ、私どもの心こそが、臭いのする馬小屋なのです。しかし、主イエスは事実、この馬小屋のような世界に、馬小屋のようになってしまった私どもの心に宿るために来られたのです。

主イエスは、ここで、「失われた者」と仰いました。これは、聖書にしかない独特の表現です。聖書は、人間とは失われている存在だと言うのです。これは、人間である私が何か大切なものを失っている、そのような意味ではありません。私たちが失っているのではなく、神が失っているのです。神と人間との不澤いい、本来の関係が壊れているということです。神とのあるべき正常な関わりを失っているのです。それを罪と言います。じつは、ザアカイはこの罪の故に、人の道をも踏み外して生きていたのです。そして、それは、ひとりザアカイだけの問題ではありません。まさに、今日の私ども全員の現実なのです。しかし、もう大丈夫です。主イエスは、この地上に生まれてくださったからです。主イエスは、私どもを捜し出すためにこの地上に来て下さったからです。

確かにあの日、ザアカイはイエスさまを見たいと思いました。しかし、本当は、イエスさまの方こそザアカイに出会いたかったのです。彼を探しにエリコの町に来られたのです。そして、ザアカイに本当のザアカイとなって欲しかったのです。アブラハムの子として生きる喜びにあずからせたかったのです。

さて、皆さんは、今、教会にいます。もしかすると、まだ皆さんはイエスさまを見るために、イエスを知ろうとして来られたと思っていらっしゃる方もおられるでしょう。しかし、本当はそうではありません。主イエスこそが永遠の初めから、あなたの家に泊まることにしていると今朝、招いておられます。主イエスは宣言されます。「あなたはアブラハムの子、神の子なのだ。けれどもあなたは自分でそれを知らないでいる、つまり父なる神から失われてしまっている。しかし、わたしは今朝、あなたを捜して見つけ出している。それが、クリスマスの意味であり、目的なのだ。」

したがって、私どもが、正しく、ふさわしくクリスマスをお祝いするとは、どのようにすればよいのでしょうか。それは、ザアカイが聞いたあの御言葉を自分じしんへの言葉として聴きとることです。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」そうであれば、私どもは、「ありがとうございます」と言って、感謝すべきです。ここに喜びがあります。この救いの喜びを与えるために、主イエスは来られたのです。そして、何よりも、失われたものが神の子として父なる神のもとに立ち返ることを喜ばれる父なる神の喜びを満たすために、神の独り子は、この地に来られたのです。

今、すぐに聖餐の食卓を祝います。これこそ、失われた私どもが、主イエスのおかげで、天のお父さまのところに立ち返ることができたことを喜ばれる神の喜びが満ち満ちるときなのです。そして、私どもにとっても喜びです。救われた私自身の喜びです。今、救いは教会に来ています。主イエスは、聖餐の礼典を祝うこの場所に臨在しておられます。どうぞ、洗礼を受けていない方は、一日も早く洗礼を受けて、この天国の食卓にあずかって下さい。そのとき、クリスマスの意味、その目的があなたに実現します。キリスト者は、この聖餐によって主の来臨を感謝し、再び来られる主イエスを待ち望む信仰をいよいよ整えて頂きましょう。

祈祷
失われた私どもを捜し出して救ってくださるために、この地上にお生まれになられた御子、主イエス・キリストよ。今、私どもはあなたのおかげで、十字架とご復活のおかげで、罪が赦されました。父なる神よ、あなたが罪人の頭である私どもを救うために、御子イエスさまを十字架にお与え下さり、私どもを神の子として取り戻してくださいました。あなたの愛の故に、わたしどもは今神の子とされています。クリスマスの目的が私どもにおいて成就しました。心から感謝いたします。どうぞ、私どももザアカイのように、偽りの生き方を止めて、本当の心の願いのままに生きて行けますように。神の子の喜びと自由をもって、あなたに喜ばれる歩みを始められますように。  アーメン。