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「いのちの光」 燭火礼拝式

「いのちの光」
                 2013年12月23日(燭火礼拝式)
テキスト ヨハネによる福音書 第1章1節~5節・14節
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
9節 「この光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 
今、朗読しましたヨハネによる福音書の冒頭の個所には、同じ文字が7回も繰り返して記されています。漢字では、言と記されています。ことばと、振り仮名が記されていないと読めないと思います。おそらく著者は、この福音書の冒頭で言、言と7回も記すことによって、きっとものすごく大切な真理であり、強調したいのだろうなと思います。ただし、残念ながら、初めて読む人には、その言とは、いったい何のことだろうか、よく分からないという印象を与えることと思います。今晩、丁寧な説明は、はぶかせていただきます。この言、ことばこそ、クリスマスの主人公、イエスさまのことに他なりません。神の御子のことです。

さて、ヨハネによる福音書は告げます。この言でいらっしゃるイエスさまに、「神の御子の内にいのちがある」というのです。そして「このいのちは、人間を照らす光」だと言うのです。9節では、「まことの光」と紹介されます。なぜ、わざわざ「まことの光」と言うのでしょうか。それは、この光だけが、人間にいのちを与える光だからです。このひかりとは、太陽の光でも、電気の光でもありません。スポットライトを浴びて多くの人たちが称賛する声や拍手、そのような眼差しでもありません。この光は、神からの光であり、いのちのひかりであり、まことの光なのです。なぜ、そのようなあるいみではもったいぶった言い方をするのでしょうか。それは、この光だけが、私どもを救い、わたしどもにいのちを与えるまさに特別の、唯一のひかりだからです。

しかし、私たちは、いのちを与える光などと言われても、すぐに、ああそうですかと理解することは難しいと思います。何故なら、ただちに、「いやもう、自分にはいのちがある、生きているからいまここにいるのだ」こう、考えるからです。別に、イエスの内にひかりがあろうがなかろうが、自分とは直接には何の関係もないと思うからです。自分の内にはすでにいのちがあり、ひかりがあると考えているからです。

しかし、そのような私どもをまさに批判するかのように、いへ、「あなたは本当のところどうなのか」と深く問いかけてくるかのようにヨハネによる福音書はこう指摘します。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」このいのちの光は暗闇のなかで燦然と輝きを放っているしかし、暗闇はこの光の存在、輝きを理解できないままでいる、理解しようとしないでいるというのです。これは、もとより比喩です。誰でも、盲人の方以外であれば、光がそこに注がれたら光がそこに射していることは分かるはずです。ただし今もうしましたように盲人、盲目であれば話しは別です。そこでこそヨハネは、はっきりとこう言うのです。この世界とは、まさに盲目の人、盲人に等しいのだと言うのです。

今、世界中で歌われている有名な讃美歌に、「アメイジング・グレイス」「驚くばかりの恵み」があります。このような内容の詩です。

「かつてわたしは心に光がなかった、心が盲目であって暗闇であった。しかし、主イエスを知ったとき、そのとき、わたしの目は見えるようになった。神の光を浴びて見えるようになった」

この詩を書いた人は、ジョン・ニュートンという18世紀に活躍したイギリスの牧師です。彼は、キリスト者の家庭に生まれながら、神を信じることにまったく価値を認めませんでした。やがて成人すると彼は奴隷商船に携わるようになりました。そこで莫大な富を得たのです。しかし、彼は、拉致してきた黒人を動物のように扱いました。アメリカに船で運ぶその間に、あまりの非衛生な環境でしたから多くの奴隷のいのちが奪われました。そのような自分が、神の憐れみで、神の驚くばかりの恵みを受けて、牧師とされたこと、その神の恵みを歌ったのです。彼は、こう歌いました。「わたしはかつて失われていた。しかし、今は、神に見つけて頂いた。わたしはかつて目が見えなかった。しかし、今は見えるようになった。」彼は自分がしていたことがどんなに恐るべきことか、そのときには分からなかったのです。暗闇の中にいたからです。富を築くことの中に人生の価値と充実を求めていたのです。そして、自分がどれほど悪いことをしていたのかに気づけなかったのです。

心を閉じて、光を拒絶していれば心は暗闇です。その心、その知性、その理性のままであれば、光でいらっしゃるイエスさまを理解できないのです。ニュートンは、確かにイエスさまのことは幼い時から、聞いて知ってはいました。教会に行ったこともあったはずです。しかし、彼は、結局、自分の価値観、自分の人生観、自分の生活や心の中に主イエスを受け入れなかったのです。つまり、本当のところは、イエスさまを知らなかったのです。出会っていなかったのです。主イエスを自分の心のなかに迎え入れないまま大人になってしまったのです。聖書は、まことの光でいらっしゃる主イエスに心を照らして頂かないその状態こそ、暗闇なのだと告げます。

しかし、光は光です。光が燦然と輝いているこの事実、この現実は、いかなる闇の現実よりも絶対的で、圧倒的で、現実そのものなのです。今、世界の、私たちの暗闇のなかでも燦然と輝いているのです。

天にいらっしゃる私どもの父なる神は、盲目になって生きているひとりひとりを憐れんでおられます。決して放ってはおけないお方でいらっしゃいます。旧約聖書のイザヤ書に、このような神の愛の御心、母親のような親心がほとばしり出ています。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」シオンとは神の民のことです。彼らが神の御言葉に背き、偶像礼拝の罪を犯したため、主なる神はもう、我々を見捨てられたのだ。我々は神の怒りと裁きを受けるばかりだ、そう嘆き、諦めてしまったとき、神はそれを否定されました。母親が自分のお腹を痛めて生んだ乳飲み子をどんな思いで見つめるだろうか。限りのない喜びと愛をもって覚えているだろう。どんなことがあってもこの子を守りたい、守ると母性本能が豊かにあふれ出るものだろう。いや、現実にはすべての母親がそうであることは限らない。しかし、このわたし、わたしこそがあなたがたにいのちを与えたまことの母なのだ。まことの親なのだ。だから、わたしがお前たちを忘れることはあり得ない。見てごらんなさい。今、あなたの目の前であなたの名前をわたしの手のひらに刻みつけるから。」これはものすごい神の愛の招きです。

手のひらに刻みつけるという表現をなさったとき、神ははっきりと血が流されると言うイメージを、私どもに明らかにされたと思います。私たちが、暗闇のなかでほんとうのいのちではない、単なる肉体のいのち、肉体的生命だけで生きていて、それ以外に、人間にはいのちなどないとまったくの思い違いをしているそのとき、神は、いのちのひかりを照らして下さるのです。このいのちのひかりは、赤々と燃えあがります。いのちの赤です。赤は、クリスマスカラーの一つです。礼拝堂の正面に掲げているこのクリスマスリースにも、また、説教卓の前の4本の長いローソクも赤です。この赤の色は、手のひらに刻みつけるそのときに流される血の色を指差しています。そして父なる神がご自身の手のひらにわたしのいのち、わたしという人間のすべてを刻むときの傷痕、それをはっきりと私どもは聖書によって見ることが出来ます。それは、神の皇太子、神の独り子でいらっしゃるイエスさまが、赤々とした血が通う人間となられたということです。そして、父なる神と共に天にいらっしゃった主イエス・キリストは、時至り、あのジョン・ニュートンのために、いへ、すべての闇を抱えた人間のその闇を追放するため、罪が支払うべき報酬の神の怒り、神の裁きとしての永遠の死、永遠の滅びをあのイエスさまが身代わりになって受けられたこと、十字架の上にかけられて御血を流されたことを、指差すのです。それが、クリスマスカラーの赤の意味です。

主イエスは、この地上に来られたご目的をたった一言でこう告げられました。「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」父なる神は、こう語られました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書第3章16節です。

人の子も独り子も、クリスマスに来られた主イエス・キリストのことです。父なる神は、この御子のいのちを私どもに与えられるのです。このお方こそ神のいのちそのものです。永遠のいのちそのものです。父なる神は、このいのちを与えたくて、与えたくて胃を痛めるように深く私どものことを思っていて下さいます。
もうすぐ80歳におなりになる詩人の工藤直子さんの詩に、「あいたくて」という詩があります。
あいたくて
         あいたくて
         だれかに あいたくて
         なにかに あいたくて
         生まれてきた──
         そんな気がするのだけれど

         それが だれなのか なになのか
         あえるのは いつなのか──
         おつかいの とちゅうで
         迷ってしまった子どもみたい
         とほうに くれている

         それでも 手のなかに
         みえないことづけを
         にぎりしめているような気がするから
         それを手わたさなくちゃ
         だから

         あいたくて

 いったい誰に、何に会いたいのでしょうか。もっと言えば、人間は、誰に会うために、何に会うために生まれて来たのでしょうか。
そもそも、私たちのいのちは、母親から受けたものだと言えると思います。もとより、父親の存在が不可欠ですが、しかし、やはり母親がわたしをお腹の中で育ててくれたのです。彼女を通し、栄養が注がれ、私どもは生まれたのです。ヘソの緒を見れば、わたしと母親とのいのちの絆ははっきり見えます。たといへその緒がどこかにいってしまっても、自分のおへそをみれば、じぶんが母といのちのきずなで結ばれ、育まれたことは疑えません。しかし、人間は、そこで止まってはならないのです。生まれて来たのは、いよいよ「おつかい」が始まったということなのです。

手のひらに握りしめられた、「みえないことづけ」を手渡さなければならないのです。いったい、誰がその見えないことづけを手のひらに握らせて下さったのでしょうか。イザヤは告げました。私どもの神は、母のように私どもを忘れず、ご自身の手のひらにわたしの名前つまりわたしの存在を刻み込まれたのです。愛を込めて書きつけられています。そうであれば、その神によって父と母を通して生まれて来た私たちは、みえないことづけを神に告げたいし、神にこそ告げるべきではないでしょうか。会いたいと本当に、心の底の底からわき上がる思いは、結局、母でも恋人でもなく、このお方、私どものまことの親でいらっしゃる神ご自身です。

そして、告げたいし、告げるべきです。あなたがわたしの光です。あなたがわたしのいのちです。わたしはあなたに愛され、あなたに会うために生まれて来たのです。そして、そのために、あなたは、クリスマスの日、わたしに会うために、わたしをいのちの光を注ぐために、いのちの光でいらっしゃるイエスさまを遣わしてくださったのです。これこそが、「会いたくて」という、私たちの心の願い、憧れをかなえるお方なのです。

今、私どもの上にいのちの光がさしています。どうぞ、今晩、あなたも心の扉を開いて、この光を浴びて下さい。光でいらっしゃるイエスさまを見て下さい。それは、聖書の言葉、神からの語りかけを信じることです。主イエスはいのちの言です。父なる神の愛そのもの、母親以上の愛をもって、私どもに出会いに来て下さり、捜しに来て下さった主イエスを仰ぎ見て下さい。心を高く挙げてください。

今晩は、特別に賛美を歌って下さいました。賛美を歌われた方々は、言ってみれば、かつては、まさに盲人だった方々です。闇の中を歩んでおられたのです。かつては、「おつかいの とちゅうで 迷ってしまった子どもみたい          とほうに くれている」
そのような歩みをしておられたのです。しかし、今は違います。今は、クリスマスの光を浴びておられます。キリストのいのちのひかりが彼らに射しこんだのです。彼らには、光が見えているのです。その光の中で、自分のもっとも深い部分、そこにある暗闇を知らされました。しかし同時に、暗闇を照らしていただいたのです。つまり、暗闇が追い出されてしまったのです。確かに、私ども自身は光を放つことはできません。けれども、光を浴びることができます。そのとき、私どもも光ります。わたしどもも光となっているのです。私どもが変化したからというわけではありません。今ここで神のいのちを受けているということだけです。そして、光の中を歩んでいるなら、生き方や考え方までも確かに変わって来てしまう事実があります。

聖書によれば、実はこの世界は、人間の心の闇によってまさに闇の世界になってしまったと教えています。その通りです。しかし、2000年前に、この世界にいのちのひかりが来たのです。輝いているのです。闇は理解しなくても、もう始まっているのです。そのことを、今晩、心から感謝いたしましょう。そして、光を浴びて、いのちの光に向かって、賛美の歌をうたいましょう。それは、手のひらに、にぎりしめているそのことづけを、ちゃんと、言うべきお方に告げることなのです。それが、賛美歌です。

祈祷
いのちの光なる主イエスよ。今、私どもの心を暖かく照らしてください。私どもにいのちの光、あなたのいのちそのものをもって、私どもを励まし、支えてください。あなたに愛されるために、あなたに出会うために生まれて来た私どもが、今、あなたにそのもっとも大切な一言を、お伝えさせて下さい。私どものあなたへの愛と感謝の歌声を、受け入れて下さい。アーメン。