★ 今年も、主に結ばれ、共に祈りと奉仕を束にし、志を高くして、大胆に、忠実に、いよいよ霊に燃え、主とご自身の教会に仕えてまいりましょう。今年も、拙い者ですが、なにとぞ、よろしくお願いいたします。
☆ 今春、3月16日には、教会設立式を控えています。わたしは、早くこの日を迎え、次の「大いなる一歩」を踏みしめたい!と、率直に思っています。本来なら、小会設立の2年目となるべき年でした。しかし、矢を遠くへ放つために、弓をぎりぎりまで引くような昨年であったかと思います。それだけに、今年、「大きなこと」を主に期待しています。何よりも、本年は、開拓開始20周年記念の年です。まさに、「記念イヤー」として覚えて歩みたいと願っています。教会設立を終えての第20周年。まさに新しい一歩です。私どもの「小さな祈り」を主が打ち崩して下さり、志を高くして祈りたいものです。ただし、記念イヤーと言いつつも、実は、わたしの心にある思いは、基本的にはこれまでと変わりがありません・・・。 下記、列記させていただきます。
1、現住陪餐会員の家族の救いです。
家族への伝道がどれほど困難であるのか、痛いほど分かります。義父は、洗礼を受けずに召されました。しかし教会で葬儀を執行し、主にあって葬られました。主の御許へと召されたことを信じています。未受洗の葬儀・・・。早すぎる死と共に計り知れない悲しみでした。どうぞ、決して諦めることなく祈りを重ねましょう。苦しいでしょう・・・。いつまでも祈りがきかれない・・・という悲しみに、ときに、不信仰にすら陥ることもあると思います。そこでこそ主の御心を確信しましょう。なによりも、約束の御言葉を信じましょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録第16章31節)
私は、家族の初穂でした。しかし、既に召された父、そして母と兄とその家族はみな、主にある民となりました。洗礼を受けた二十歳の時、家族は誰も立ち合っていません。牧師が洗礼前に家を訪ねて下さいました。母に挨拶するためです。(先生への感謝の念が深まります。)母は、おそらく「すぐに熱が冷める・・・」というようなことを語ったと思われます。しかし今、高齢の母は、信仰生活の幸いをしみじみ語ります。主に救われたことの恵みの大きさに、心から御名を賛美する者です。今年も、祈り続けましょう。まさに、「叫び」求めるべき祝福・約束の課題です。
2、契約の子らの信仰告白です。
私どもの子どもの教会には多くの教師、教師補助者が与えられています。これは、(他の教会とくらべれば)特筆すべきことです。毎主日、熱心な祈りと準備が捧げられ、礼拝式と分級が営まれています。また、第三主日の教師会は、教会学校教案誌を読み、さまざまな打ち合わせを熱心に致します。いつも閉会を目指す3時を大幅に越えています。それだけ熱い思いが込められているのです。(教師(補助者)だけではなく、どなたでも陪席して頂ければ、こんなにうれしいことはありません!)
一方で、中学生以上の契約の子らの「信仰告白」は、なかなか困難です。思春期の子どもたちは、親を乗り越えるために「反抗」する時が必要です。しかしなお、私どもが決して譲れないことがあります。それは、教会や信仰のことを「好きなようにしなさい・・・」と、彼らの「その時の思い」や「自由」に任せてしまうことです。他教派の方や自分自身が大人になって信仰に導かれた方の中で、時に、このように仰る方がいます。「私は、子どもに信仰を強制しません。本人が来たいと思ったとき、それが一番です。それまで待っています。時には、教会に誘いますが・・・」これは、幼児洗礼を授け、「契約の子」という特別な言葉を用いて、子どもたちを未陪餐「会員」として受入れている私どもの教会では、あり得ない、考え方のはずです。
しかし何を隠そう、わたし自身も、牧師になってから「幼児洗礼」が必須であることを悟ったのでした。幼児洗礼否定の教派的枠組みの中で育っていたからです。最初から、筋道たてて教理を学んでいれば、そのような思いにならなかったはずです。私は第一世代です。まさに「劇的回心」を経ての洗礼でした。しかし、この体験を絶対化してはなりません。自分のような信仰体験を子どもたちに待つ、-それが第二世代の子らにはほとんどあり得ないことなのに-ことの弊害を思います。
子どもたちの信仰の成長には、子ども同士の交わりがどれほど力があるのか、これは世界中どこでも同じです。若い世代の仲間たちが一堂に会して、礼拝、学び、遊びをする(キャンプ!!)ことによって、信仰が強められます。中部中会、大会のキャンプや学生会に何としても送り出したいものです。