過去の投稿2014年1月13日

1月12日

☆   年末、年頭の説教テキストとして詩編第103編を学びました。改めて詩編の「言葉」の「質」について、豊かな恵みをわたし自身も受けました。今年も、主と共に、主の御言葉と共に歩んでまいりましょう。今週の祈祷会で、特にわたし自身が皆さまと分かち合いたかったのは、14節の「主は~わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。」でした。「神に甘えよう!」と呼びかけました。丁寧に語りえたとはまったく思いません。また、いつか掘り下げてお話できればと思います。神に甘えることを知らないキリスト者は、あまりにももったいない人生になってしまいます。今年、思いっきり神に甘える喜びを味わいながら、主の助けと憐れみを幼子のように求めましょう。そして、その喜びに生きて(分かち合って)まいりましょう。

★   先週に引き続いて20周年を迎える教会のための、牧師の祈りを列記します。
3、地域の子どもたちへの伝道です。
かつてビルの時代のように地域の子どもたちであふれかえるという状況は、はるか昔のことになっています。しかし、現状がどれほど厳しくとも、私どもの祈りの課題であり続けます。幸い、今年、「絵本の読み聞かせ」の集会が開催される予定です。奉仕者に加わって下さい。そして、お母さんとその子らに、子どもの教会、そして教会へと繋げられるようにお祈り下さい。

4、「キリストだけを主とする慰めの共同体の形成」です。
開拓時からの祈りであり、「教会のことば」においても告白されています。昨年は、ここで用いられている「慰め」というキリスト教的言葉を、別のことばで表現しました。「明るい教会」です。「祈りの空気(雰囲気)が充満する共同体」・「明るく歌う教会」と昨年の年報に記しました。福音が正しく語られ、聴かれるなら教会は必然的にそのようになるハズです。そのために、教会は主日礼拝式をすべての中心に整え、説教に集中してまいりました。さらに、その説教が正しく聴かれ、従われるために、「祈祷会」「読書会」「各会」を開催致しました。すべては、「福音」によって教会が建て上げられるためです。これは、教会のまさに基本中の基本、根幹です。霊的な交わりを建てるためには、「キリストの主権」を徹底的に貫くことです。そして、信仰の浅い方は、「キリストの主権」と言われると、どこか冷たい感じ、どこか息苦しい感じ、イメージを持たれることは仕方がありません。「主権」の語感、ニュアンスから来るものがあるからでしょう。しかし、「キリストの」主権です。主イエス・キリストがこの教会の中心でいらっしゃり、牧師も役員職務者も信徒職務者も誰ひとりの例外なく、この大牧者でいらっしゃるお方のご支配のなかでのみ、健やかに、喜びをもって、愛と力にあふれて生きることができます。このお方から離れてしまったら、そこには私どもの死、敗北しかないでしょう。イエスさまの教会として、愛と赦しの教会として、お互いが赦されていることを深く確信できる場所として、聖霊の息吹がさわやかにに吹く場所として、名古屋岩の上教会がいよいよ形成されますように。そのために、主日礼拝式を重んじ、祈祷会や諸集会を大切にしましょう。

5、「カンタービレする教会」です。
昨年末、聖歌隊が緩やかに組織され、燭火礼拝式とその直前、老人施設での奉仕がなされました。明るく歌う教会の確実な一歩となっていると、心から喜んでいます。「カンタービレする」とは、2008年の年報にも記した言葉でした。音楽用語です。「歌うように」表現しなさいという意味です。 例えば、指揮者(指導者)は、演奏家に「歌うように!カンタービレ!」と指示するようです。上述の「明るく歌う教会」とは、08年の「カンタービレする教会」と同じです。開拓20周年を振り返れば、どうしても神学的な堅固な基盤の構築が最優先されました。それは、決して間違ってはいません。しかも、そのための努力に終わりは決してありません。ただし20周年の教会の実力としては、聖歌隊は遅すぎ?くらいかもしれません。私どもには、実に4名もの奏楽者が備えられています。小さな教会としては、特別の祝福です。さらに、他の教会で奉仕するとき、私どもの賛美の歌声が、(ただ礼拝堂の効果だけではなく)高らかであることを改めて思わされます。 「わが魂よ、主をたたえよ」と年末に聴きました。私どもは、「名古屋岩の上教会よ、主をたたえよ!」と自らに命じ、鼓舞し、まことの希望にみちた明るい礼拝式における神賛美はもとより、現代社会、地域社会に響かせてゆきたいと心底願う者です。
「後の世代のために/このことは書き記されねばならない。【主を賛美するために民は創造された。】」(詩編第102編19節)