過去の投稿2014年1月20日

1月19日

☆   今年も、通信を丁寧にお読みくださいと、「報告」に記しました。この通信欄は、わたしにとって、とても大切に考えてまいりました。おそらく週報に、この文字数で牧師の言葉を記載する教会は、ないのではないかと思います。まさに例外的な事なのだと思います。
しかし、そもそも私どもはここに開拓伝道をして出発したのでした。「教会の開拓」にとって会員教育・信徒教育は、その土台つくりの生命線です。
 そしてそれは、開拓伝道者、牧師が何を考え、何を目指しているのかを共有することをも含んでいます。牧師が何を考え、目指しているのか、牧師のビジョン、志、神学、方向性を鮮明にすることなしに、志を一つにして、教会形成に献身することはできません。そのような指導性なしには、教会の開拓も教会・小会設立もかなわなかったのではないか・・・、そう率直に思います。それほどまでに、この日本、この名古屋での伝道、教会形成は容易なことではないのだと思っています。
  また何より、神の教会の形成とは、「牧師と会員」そして「会員同士」が「信仰の言葉」を通じさせることなしには実現できません。およそ人間どうしの出会い、交わりのためには、言葉が不可欠です。いわんやキリスト者の交わりにとって、「ことば」は決定的な意味を持ちます。信仰の言葉がお互いに通じ合わなければ、教会で何が行われているのか、何がなされるのか・・・、チンプンカンプンです。
初めて教会に来られた方、初めて聖書を開かれた方々は、まさにその未知の言葉、世界に戸惑われることは当然のことです。確かに、すべて自分たちの世界で通じる言葉や内容が語られているとすれば、「入りやすい」でしょう。しかし、そもそも「入った」ことにはならないはずです。この世界の縮図のようなキリスト教会など、神の前にも、また人の前にも何の意味があるというのでしょうか。教会は、この世のいかなる共同体とも異なるものです。その「異質さ」にこそ、神のかけがえのない真理があるのです。(ただし、教会は神の普遍的な教会ですから、まことの教会がこの世の常識=理性や知性を裏切らせるようなやり方が行われることは、ほとんどあり得ないはずです。)
 教会の言葉、言い換えれば信仰に基づく言葉とは、結局、聖書の言葉が生み出すものであり、教会の教えによってつくりだされる言葉です。その源泉は、記された神の御言葉、文書啓示としての聖書にあります。教会の交わりに加えられる人とは、かけがえのないいくつかの言葉に通じていることが必要となります。必要十分となるのは、あるいはその要になるのは、私どもで言えば、「ニカヤ信条」です。そしてこのニカヤ信条によって言いあらわされた神賛美、信仰告白を共有するところに堅固な教会の土台、岩がすわります。

★   今年、主日午後にあたらしい学びの集会が始まります。この集会は、そもそも「男性の会」における交わりが発端です。「今さら聞くのは少し抵抗がある・・・、しかし、事柄を厳密に把握するために、教会で用いられることば、教会用語について率直に牧師に尋ねることができるような場所、時が持てれば・・・」というものです。先週、わずかながら打ち合わせを行いました。どのような集会になるか、するか、先ず、とにかく集まって、始めてみましょうということになりました。どのような内容にするのかも含めて、そこで相談することになるかと思います。
  お話を伺っている中で、ひとりの兄弟が、このような主旨のことを仰いました。「自分の信仰を友人知人に説明することが難しい。けれども、それが大切だと思う。そのために、自分自身が信じている内容をきちんと認識する必要がある。それが、なかなかできない・・・、だから、先ず自分のためにも始めたい・・・。」わたしは、伺いながら、一ペトロ第3章15節そのものだと思っていました。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」ここでの希望とは、私どもの信仰のことです。いつでも、どこでも弁明、説明する準備が求められているのです。楽しい、信仰の交わりと学びの時となればと願います。

☆  先週の昼食の折、ラーメンの話題で盛り上がりました。緑区の有名な家系ラーメン屋さんの話です。何年か前に食べました。しかし、その話題によって脳裏にしまわれていたコッテリのラーメンの誘惑がおそって来て、伝道所委員会の後、家内と行きました。なんと、休業日!頭の中は、ラーメンの思いがぬぐえず、その週に再び訪ね、堪能しました。話しは変わりますが、その時の何気ない「うどん」も、教会でしか頂けないおいしさでした。教会の食事のレベルの高さ!