愛知県立芸術大学音楽学1年
神の愛の深さと私の無知
――降誕祭礼拝式を経て――
2013年12月22日日曜日、私はわくわくしながら目が覚めた。今日は降誕祭礼拝式である。キリスト教の祭事の中で最も重要な降誕祭に触れることができる。実を言うと、一週間ほど前からカレンダーを見てはまだかまだかと心待ちにしている自分がいた。自分でも、自分がなぜこんなにも楽しみにしているのか不思議だった。初めて教会を訪れる日の朝はとても緊張したし(それも着いてからは教会の方々の優しさですぐに和らいだのだが)、その後も、心待ちにすることはあったが、ここまでではなかったからである。もちろん、毎回授業とは違った新しい発見を与えてくださる先生の説教を聴くことや、訪れるたびにあたたかく迎えてくださる教会の方たちの笑顔にまた会えることがとても待ち遠しかった。しかしそれだけではなく、自分の理解を超えたところで、降誕祭礼拝式に参加できることの喜びを感じている自分がいて不思議だった。だが、そのわけは後に分かることになる。
説教の内容は「捜し出すためのクリスマス」であった。私はこのタイトルを読んで、最初、私たちがキリストや父なる神、または彼らが与えてくださる愛を捜し出すのだと思っていた。しかし、実際はその真逆であった。
ユダヤ人から忌み嫌われているザアカイの家に、イエス様はなんと泊まると言われる。私にとってはそれだけで驚きだったのに、なんとここでいう「泊まる」とは、「一蓮托生、運命を共にするという関係にあることを表明する行為」 を意味するというではないか。イエス様は、ザアカイは、今まで数えきれない程の罪を犯してきているのに、ユダヤ人から忌み嫌われているのに、そのザアカイの家に泊まることで幾人ものユダヤ人がイエス様から離れていってしまうのに、それでもザアカイの家に泊まることを選ばれる。そしてザアカイを一人の人間として受け入れられ、さらには、今までの罪を認め、愛に生きるようになろうと述べたザアカイの心に救いが訪れたと宣言した。なんという愛だろう。ザアカイを心から大切に思うからこそ、イエス様はザアカイのそばにおられた。それはすなわち、イエス様がそばにいることでザアカイはもう救われる、ということを意味している。
この礼拝式の後、相馬先生とお話しして、教会に来るのは、自分がイエス様を捜し出すからではなく、イエス様がそばにいようとして、私の気づかないうちからずっと呼びかけてくださっているからだ、ということを教えていただいた。そうして私はようやく、なぜ私がこの日を待ち望んでいたのかが分かったのである。聖霊を通じてイエス様のそばへ来られるよう呼びかけてくださっていた父なる神が、私が教会へ来ることを喜んでくださっていたのだ。気づいた瞬間、温かい感謝の思いで私の胸はいっぱいになった。そして、それほどの深い愛に今まで気づきすらしていなかった自分を恥じた。捜し出してくださったのは父なる神であったのだ。