過去の投稿2014年4月20日

4月20日

★  先週は、月曜日から土曜日まで、まさに一週間連続の受難週祈祷会を開催いたしました。出席者は少なかったのですが、しかし、このような集いだから出席できた兄弟方がいらっしゃったことは、開催の大きな目的であっただけに、本当にうれしく思いました。

☆  ハイデルベルク信仰問答は、神が主イエス・キリストにおいて成し遂げて下さった救いの御業は、すべてわたしどもの「利益」のためであることを強調します。しかし、言うまでもなく、キリスト教信仰は、「ご利益信仰」の対極にあります。人間中心ではなく、神中心のはずです。

★  先週、イザヤ書第43章が受難週祈祷会で読まれました。7節には、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。」とあります。全被造物、宇宙と地球とその最高傑作である人間も、すべては、ご自身の栄光のために神に向けて創造されたものです。21節ではこう語られています。「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」私どもの人生の主な目的は、ウェストミンスター小教理問答、子どもカテキズムにある通り、「神を喜び、神の栄光を賛美し、あらわす」ことにあるとするのは、当然のことです。 

ところが、イザヤは、告げます。22・23節「しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。」つまり、そのような人間であるにもかかわらず、神に感謝し、礼拝し、賛美するどころが、反抗し、反逆しているのです。

ところがなんと、神は、25節でこのように宣言されます。「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。」
わたし自身の「ために」、つまり、神のためにです。私どもは、受難週においていよいよ、キリストの御苦しみが「この罪人の頭であるわたしのため」だとの黙想を深めました。しかし、そこでさらに掘り下げるべきは、究極においては、神ご自身の「ため」であることを悟ることです。だから、私どもの罪の赦しは完ぺきなのです。揺るがないのです。神が、神の栄光のために、私どもをお救い下さったのです。ここに、私どもの人生の根拠を置きましょう。そのとき、私どもも、聖霊に導かれて「おのずと」神の栄光と隣人の幸へと動かされてゆきます。究極のご利益が私どもにもたらされたのです。

☆  ハイデルベルク信仰問答問45は、主のご復活が私どもにもたらす「利益」を三つ数えています。
1、復活によって死に打ち勝ち、その死によって獲得された義にあずからせて下さること。
つまり、主のご復活を信じる者は、罪赦され、義と認められ、聖なる者とされたことが確定されたということです。父なる神は、御子を甦らせることによって、私たちの救いを揺るぎなきもの、撤回不能なもの、公的なものとして宣言してくださいました。逆に、もし復活の事実がなければ、私どもの信仰は空虚です。復活の事実は、私どもの救いの確かさそのものとなります。「キリストはまさに復活された!」と告げることは、「あなたの罪もわたしの罪も赦された!」と告げることと一つとなるのです。

2、主の復活の力によって、信じる者もまた新しいいのちに生き返らされていること。
復活は、ギリシャ語で「アナスタシス」と言い、語源は「立ち上がる、起き上がる」ことです。つまり、信じる私たちが、新しい命、神のいのちを注がれて、新しく生まれることです。それは単に再び生まれるのではありません。死が生み出すもろもろの力に勝利する人間として生き返らされるのです。したがって、復活の証人とは、単に主のご復活の目撃証人だけを意味していません。自分自身に注がれた新しい命を自覚して生きる者、つまりキリスト者の存在と生き方にかかってきます。

3、わたしたちの体の復活の確かな保証となったこと。
つまり、私たちもやがて必ず肉体の死を経験します。しかし、希望と勝利の内に死ぬことができるようになったのです。また、すべての人間は、主イエスの再臨の日、審判されるために肉体において復活させられます。信じる者は主の十字架の故に罪赦されたのですから、永遠の祝福である三一の神とキリストにある兄弟姉妹との交わりを楽しみます。したがって、主のご復活を信じるか否かで、永遠は決定してしまいます。何の疑問も覚えずに復活を信じることのできる人は、例外でしょう。愛を込め、キリストが私たちの祝福のために救われた事実を説得しましょう。