過去の投稿2014年5月5日

5月3日

★   先週、開催された第一回の学び会のタイトルは、「教会で使う言葉や事柄を学ぶ会」です。30分の短い時間の中で、定例読書会とは異なったコンセプトをもって、始められました。第一回の集いに出席できなかったのは残念でしたが、下記のレポートを拝見し、出席者の声も伺って、よい交わりと学びへの導入がなされたことが分かり、感謝致しました。これからも、継続されることを願います。私どもは、礼拝式後に小さな集会を持ってまいりました。なかなか、きちんと行えない状況もありますが、確認しておきます。第一主日は、「讃美歌練習」、第二主日は「説教の分かち合い」第三主日も基本は「分かち合い」第四主日は「隣の方との短い祈祷会」そして「読書会」です。礼拝式後のわずかの時間でこれらを続けることが、大切かと思います。「分かち合い」は、30分をはるかに越えて続けられるグループもありますが、出来る限り30分以内で閉じられるとよいと思います。今回の学び会もまた、「ひとりでも多くの会員と共に学びと交わりの≪楽しい≫ときを共有したい」という願いがあっての企画、開催と思います。企画者からは、今回の「賛美歌」を一回で終わらせるにはもったいないし、同時にまだまだ多くのテーマがあるので次に進みたいしという嬉しいジレンマを抱えておられるようです。いずれにしろ、礼拝式後の小さな集いをこれからも大切にしてまいりましょう。
      (詳細な報告が既に整えられています。この欄には、前半のレポートのみ掲載し、参加者の声を含め次回、【月報】には、掲載されるとのこと、お楽しみに。)

★★  教会で使う言葉や事柄を学ぶ会報告 第1回「賛美歌」 報告者:○○兄
    
レポート   4月27日の礼拝後の12時10~45分、参加者20名で最初の学びの時を過ごせました。誠に感謝です。○○兄による聖書朗読、祈祷の後、今回のテーマ「賛美歌」について学びました。
・「どうして教会では賛美歌を歌うのか」という疑問については、改革派教会 教会規程 第三部 礼拝指針第8章 第23条に「キリスト者は、公的礼拝において、詩編歌や讃美歌その他、礼拝にふさわしい歌を歌うことをもって神を賛美する」とあり、日本語による150のジュネーブ詩編歌のまえがきには「イスラエルの民も詩編を歌い、教会の長い歴史において礼拝の中で歌われ」と記されています。讃美歌21にも『主を讃美するために民は創造された。(詩編102:19)』とあり、歌による賛美は旧約の時代から受け継がれてきた様式であることがわかりました。

・続いて、日本の賛美歌の歴史を概観しました。まず戦国、安土桃山時代にローマ・カトリックにより讃美歌がもたらされ、禁教の時代を経て、明治期以降にプロテスタント各教派により讃美歌が翻訳されたこと、その後、教派を越えた讃美歌集が作られたが、第二次大戦中には戦意高揚的な讃美歌(興亜讃美歌等)が編まれていたことを学びました。戦後すぐ(1945年)古いものを暫定的に手直しして用いつつ、1954年にはその後長く親しまれた『讃美歌』が刊行され、1997年に『讃美歌21』が送り出され現在に至っているとのことでした。ジュネーブ詩編歌については、簡易的な15編、36編のものが用いられてきましたが、2006年に現在の立派な150編の冊子が出版され用いられています。

☆   主日朝の祈祷会のことも、あらためて記載します。牧師室での子どもの教会の「分級」が終わった、10時10分頃~20分頃まで行っています。水曜祈祷会に出席がかなわない方のために、ほんの短く、その週に取り扱った「礼拝指針」のエッセンスを学び、一言の祈りを捧げます。礼拝指針を学ぶことが、信仰生活の基礎を整える上で、これほど重要になるかと、ある驚きをもって続けています。先週は、「結婚」について学びました。これらの知識(解説)を会員全員と共有できないことは、極めて残念です。(わたしが解説の文章を整えればよいのですが…)朝と夜とで解説のポイントがずいぶん違ってくるのも、私しか知らない事実です…。

★   先週の午後、教会に、最初に名を名乗らない数人の方々が、教会に関心のある様子で、会員にキリスト教についての質問を始められたとのこと。その正体は、「日蓮正宗」の信者さんでした。キリスト教が如何に間違っているのかを説得しに来られたとのことです。パンフを拝見して、本当に驚かされます。妙法の信仰をたもつことにより①「ご本尊に祈念する願いや希望が必ず叶えられる。」とあります。露骨なまでにご利益信仰、功徳信心を主張しておられます。まさに、ここに彼らの「正体・本質」が見事に現わされているだろうと思います。彼らは、3:11大震災において自分たちの信徒が被災しなかったことを、日蓮正宗の正当性、妥当性の根拠にして、主張されたようです。そこまで行きますと、もはやまともな議論をする気にもならないと、私は思わざるを得ません。もとより、それがこの宗教団体の公式見解であるのかどうかは、分かりません。おそらくそうではないはずです。万が一にも、そのようなことを主張するなら、この「日蓮正宗」なる宗教は、宗教そのものの本来的な深みを、持ち合わせてないということになるはずです。一方で、キリスト教「信仰」の「超越」の次元、(神を信じれば自分の願いが実現されるという、人間的なまさに人間的、地上の宗教的なまさに宗教的なあり方を根底から否定するのが聖書の信仰です。)が、このような宗教をこそ正しい宗教とする人々が少なくない日本において、多くの人々の心を打つということは、まさに、神の恵みなしには不可能です。キリスト教信仰の真理性は、しかし、このような方々との出会いによって、逆にはっきりと知らされることにもなります。