★ 先週の祈祷会での礼拝指針の学びは、「葬儀諸式」についてでした。私は、葬儀とは、「前夜式と葬儀式」の最低二回の式が必要であると、当然のこととして考え、執り行ってまいりました。会員の葬儀の場合は、火葬場まで共に行き、骨壷に収めるところまで共におりました。しかしながら、最近、先輩教師のなかで葬儀は一回のみとしておられる方が複数いることを知りました。大変、驚かされました。しかし、今回、改めて指針を読み、「遺族の要望によって、複数の諸式を執り行うことができる」とされていることを確認しました。 何故、一回なのか・・・。確かに、葬儀は、突然のことで、説教者にとって、二つの説教を故人にふさわしく準備することは、容易なことではありません。それも理由の一つなのでしょうか。これまで、私自身、式次第の作成、印刷、ご遺族や葬儀社との折衝等、まさに「家内工業」のようにしていました。このように記すからと言って、私自身は、葬儀は一回のみ・・・ということを望んでいるわけでは、まったくありません。むしろ、キリスト者の葬儀は、地上における生涯の完成を意味しますから、まさに全力で取り組むべき、牧師のつとめであると考えています。
☆ ただし、それは、葬儀式に集中する状況が伴ってはじめて可能です。既にかつての伝道所委員会では、逝去(病院)から火葬場(八事)までの段取りのマニュアル作成が決議されています。(しかしその後、感謝なことに!葬儀の執行はありません・・・。)また、それにさかのぼる数年前には、「葬儀のアンケート」を行いました。こちらも、その主旨に沿えば、何年か後には、更新することも大切かもしれません。
★ このような学びによって、私どもが、今日このときも、当たり前のように生かされていることの「幸い」を深く思わされます。もとよりキリスト者には、死に対する勝利が与えられています。しかし、主が許して下さるならば、出来る限り、平和の内に、長く、地上の旅路が守られることを願います。日々、教会員とそのご家族ひとり一人が、今日も、当たり前の日常生活を営めるようにと、祈っています。もとより、自分自身を含めてですが、その当たり前の幸福に感謝できる信仰のセンスを、いよいよ磨き、深めて頂けますようにとも祈ります。
☆ かつて、日本人の葬儀、葬式についての歴史的な考察の文章を読んだ記憶があります。書籍購入は、必要最低限・・・としていた極めて貧しい書斎には、その書物はありません。日本において、いわゆる庶民の葬儀が行われるようになったのは、近代に入ってからだと言われています。「寺請制度」が確立するときです。つまり、キリシタン迫害、弾圧政策のいったんとして、仏式、寺での葬儀がキリシタンではないことを証明する手段とされることによって、広まったのです。しかし、その引き金になったのは、キリシタンの葬儀を見たからだとも言われます。キリシタンは、同じ宗教を持っているかいないかにかかわらず、人間自身とその全体(肉体)を神から授かった尊いものとして意識を持ち始めたのです。何より、宣教師たちが貧しい信徒の遺体を丁重に葬る姿を見た時、感動と感銘が広がり、キリシタン布教の大成功の理由の一つとされています。キリスト教こそ、葬儀に力を入れたわけです。葬式仏教・・・・。宗教において、もっとも嫌悪すべきあり方だと思います。しかし、キリスト教こそ正しい意味での葬式において、他宗教と鮮やかな対比を示すこととなったのです。
★ 今日、日本の社会では、「無縁社会」が浸透しています。「孤独死」される方が増加の一途をたどっています。また、貧困のゆえに、お寺での葬式(多額の戒名代金!)ができない世帯もあります。何より、既に葬儀会社が安い料金の「個人葬」を提供し、急速に受け入れられつつあります。名古屋市でも「福祉葬」があります。宗教者のボランティアが求められているという葉書をずいぶん前にいただいた記憶があります。ここにも教会のディアコニアとして、真剣に考えるべき課題があるように思います。
☆ このように考えるとき、私どもにとって、お墓の問題がどれほど重要な位置を占めるかは、明らかです。墓地取得のための熱心な祈りを、いよいよ、皆さまと集めたいと心から願います。
☆☆☆ 第13回被災地支援ディアコニア報告 ○○室長 ☆☆☆
【GWの渋滞が予想されましたが、スムーズに往復することができました。
相馬市・山元町の仮設住宅集会場でのカフェは、皆さんが楽しみに待っていてくださり、たくさんの手作りお菓子を囲んでアットホームな雰囲気で開催されました。
プリザーブドフラワーは女性に大変好評で、お持ち帰りいただいても長く楽しめることが良かったと思います。医療相談・本の朗読・包丁研ぎなどは奉仕者の賜物が生かされ、それぞれが被災地の方々との出会いが与えられました。皆様のお祈りと支えに心より感謝いたします。】