★ (先回からの続き)伝道するのは、誰でしょうか。礼拝指針は、「教会と教会員である。」と明快です。先ず、教会とされていることは大切です。何故ならそもそも、伝道とは、「教会を形成すること」と離れては目的を見失ってしまうからです。福音伝道は、教会の活動であり、それによって教会は自らを維持し、成長させるのです。主イエスが、福音伝道を委託されたのは使徒たちであり、教会でした。教会の交わり(拘束)から離れたところで自由に伝道する・・・。それは、言葉の矛盾です。使徒以降の私どもにとって、福音伝道に派遣されるとは、主イエス・キリストから直接ではなく、主イエスが教会を通してなす業なのです。伝道は、教会共同体の責任であり活動なのです。ですから、小会は伝道活動を指導する責任を負っているのです。
★ 6月は伝道月間です。15日は、講壇交換として橋谷牧師、22日と29日はわたしが伝道説教を担います。これは、まさに教会の伝道です。伝道新聞が発行され、新聞折り込みと手配りをします。これからは、教会による伝道活動を推進する担い手として「委員会」が立ちあげられて行きます。この委員会は、小会(牧師)の監督(指導)の下、細部まで責任をもって企画し、実行します。
☆ しかし、そのような教会を挙げての伝道集会の成否のカギを握っているのは、まさに、「教会員」に他なりません。チラシをまいて待っていても新来者は来られません。105条の第2項は、「教会員一人ひとりは家族・学校・職場・地域社会などの人間関係においてキリストを証するように導かれ、福音伝道の任務を実行する。」とされています。つまり、主日礼拝式で御言葉を聴いて、心に受入れ、その御言葉を携えて、御言葉と共に、それぞれの「現場」に派遣されるのです。説教の実りは、一人ひとりが御言葉を「現場」(生活)に携え、御言葉を生きることにあります。それを、「証」と言います。その意味で、証とは伝道よりキリスト者の本質的な働き、その存在の本質をさらに根源的な意味で明らかにするあり方、言葉と言えるでしょう。 (次回へ)
★☆★ 先週、福井地裁で、大飯原発3.4号機の再稼働差し止めの画期的判決が出ました。まったく期待しておりませんでした。関電は、再稼働が「国策」であることに鑑み、絶対的な勝訴を確信していたのか、この裁判に真剣に関わっていなかったという情報もあります。福井地裁は、この傲慢な関電に対して、ひいては、政府に対して、決定的な「否」をつきつけました。判決本文の末尾の文章(下記参照)は、まことに「まっとうな」ものです。関電は、原発が「環境」に利するものだと主張しますが、「はなはだしい筋違い」(!!)と一刀両断です。当たり前です。裁判の判決要旨前文に、「人格権」が指摘されています。憲法が保障する国民の最低限の権利であり、原発は、これを侵害するとの判決です。「健康に暮らしたい・・・。生まれ育った村で平凡に生きたい・・・」原発事故はそれをねこそぎ奪いました。人が、生存する権利を持つのは、当たり前のことです。 しかし、原発(事故)はそれを許しません。ちなみに、東芝のホームページでは、我が、「星の王子さま」が環境によい原発を推進する旗振り役を担わされています!衝撃的でした。関係者にメール抗議した翌日のこの判決だけに、本当に嬉しくなりました。東芝さんもまた、「筋違いも甚だしい」と言われるべきでしょう。
【9 被告のその余の主張について
他方,被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性,コストの低減につながると主張するが(第3 の5) ,当裁判所は,極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり,その議論の当否を判断すること自体,法的には許されないことであると考えている。我が国における原子力発電への依存率等に照らすと,本件原発の稼動停止によって電力供給が停止し,これに伴なって人の生命,身体が危険にさらされるという因果の流れはこれを考慮する必要のない状況であるといえる。被告の主張においても,本件原発の稼動停止による不都合は電力供給の安定性,コストの問題にとどまっている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが,たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても,これを国富の流出や喪失というべきではなく,豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。また,被告は,原子力発電所の稼動がC 02 (二酸化炭素)排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが(第3 の6) ,原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって,福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害,環境汚染であることに照らすと,環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。】
★ 原発問題を学ぶことは、戦争責任を担う教会を目指している私どもにとって、必須であり、本質を突くものとなるはずです・・・。