過去の投稿2014年6月1日

6月1日

 
★   (先回からの続き③最後)     伝道には、神の言葉が必須です。御言葉なしに、主イエスの「御名」を明らかにできません。今ここに生きて働いておられる主イエスをご紹介できません。しかし、たといどれほど、言葉で御名を紹介しても、聞く相手が聞く耳を持っていなければ、つまり、真剣さや、開かれた心なしには、「豚に真珠」(「馬の耳に念仏」)です。それなら、どうやって、その耳や心を開くことができるのでしょうか。もとよりそれは、ただ聖霊の力であり御業です。さらに言えば、神の選びです。しかし、伝道の結実の少なさを「神のせい」にすることは許されません。相手の心を開き、溶かす力は、キリスト者の存在つまり「証」にあります。そしてそこに、「教会(共同体)のディアコニア」との切り離せない繋がり、相互関係があります。神を愛するとは、隣人を愛すること、「隣人に仕えることつまり隣人となること」と、分離できません。証とは、徹底的に主イエス・キリストを「指さす」ことです。「イエスさまを見なさい!」とはっきりと示す(言葉で提示)ことです。しかし、そのことと、「わたし(たち)を見なさい」と宣言することとは、決して矛盾しないのです。むしろ、私たちを見なさいと言うことなしに、今、どうやってキリストを見せることができるでしょうか。使徒ペトロとヨハネとが、「私たちを見なさい」と語ったとき、彼らは、自分たちがどれほど罪深く、信仰が弱く、使徒と呼ばれる値打ちのないものであることを自覚していたはずです。二か月前の「裏切り」を忘れて、いきなり高慢な思いになったはずがありません。彼らは、あるがままの自分、ありのままの自分たちの中に働くキリストご自身とその力を確信したのです。今日の私どもは、生まれながらの足の不自由な人を立ち上がらせる奇跡を行うことができません。しかし、生まれながら罪の縄目に縛られ、死と滅びの中に、暗黒の中にいる方を起こすことはできます。何より自分自身が立ち上がらされた者です。そのキリストを証することができます。

☆   被災地ディアコニアの経験から既にたくさんのことを学ばされてまいりました。前々回、フクシマで、聖書の話は禁じられていたはずの仮設集会室で「アーメンの意味は何ですか」と質問されました。質問やリクエストがあれば、つまり、信頼関係が構築できれば、話ができる可能性が開かれます。山元町でのコンサートと聖書のお話も、リクエストを頂いたからこそ、可能とされたのでした。被災地ディアコニアは、直接的な伝道のために始められたものでは、決してありません。困窮者の隣人となるディアコニア、被災者ディアコニアは、教会の責任であり、主要な務め、働きだからです。支援活動は、伝道活動の「えさ」ではありません。もとより、ディアコニアの「段階」に伴って、私どもが御言葉を「後回し」にしてしまうことも、不自然なことです。私どもの奉仕による「証」によって、被災された方の心が私どもに、そして神に開かれることを祈り求めること、これが、私どものまさに執り成しの祈りです。

★   被災地での体験を、私どものこの町、そして日常生活の現場でも担わなければなりません。「教会員一人ひとりは家族・学校・職場・地域社会などの人間関係においてキリストを証するように導かれ、福音伝道の任務を実行する。」(礼拝指針)のです。そうなれば、伝道の王道とは、伝道のテクニックを磨くことより、よい人間となること、私どもが御言葉に従って、よいキリスト者として成長、成熟することにこそあることが分かります。キリスト者の成長、学びとは、人間としての成長そのものであり、そのための学びなのです。その為に、教会は「キリストの学校」「学びの家」として、キリスト者を養育し訓練するのです。そして、それは、結局、相手を真実に、キリストの愛をもって愛することを目標にするものです。自分を低くして、相手のニーズ、必要に寄り添うことが必要です。あの40年間の足の不自由な人は、「お金」だけを求めていました。使徒たちは、そのような人に先ず、寄り添うことから始めました。しかも、そこで終わらず、つまり、彼らに「同調せず」、主の御名を紹介するのです。それが、伝道です。