「聖霊によるキリストの証人」
2014年1月19日
テキスト 使徒言行録第1章6節~8節
【 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」】
1月もあっという間に中旬を迎えました。時の過ぎる早さを思います。いよいよ人生の時を大切に過ごしてまいりたいと願います。そして、人生の時を大切に過ごすという時に、必要不可欠になるのは、今がどのような時代であるのか、どのような時であるのかということです。キリスト者とは、今がどのような時、時代であるのかという人間にとって決定的に大切な情報を知らされた人間たちのことです。私どもが今生かされているこの時代がどのような時代なのかを知らされた、知ったからこそ、キリスト者の新しい人生が始まるとすら言えます。この時代にふさわしく生きる、それがキリスト者であり教会なのです。
私は、日本は今、新しい戦前の姿そのものがあらわとなっていると見ています。敗戦後の日本は、世界と近隣諸国、何より戦地に狩り出し、死に至らしめた国民に向かって「不戦の誓い」を表明しました。その最高の表現が、憲法9条だと思います。しかし、政府、自民党はもはや「不戦の誓い」を語らないことを方針としたという報道がなされました。明らかに、戦争できる、戦争する国家の体制を政府与党、さらに野党も含めて着実に推し進めています。次回の国政選挙がない間に、この体制を仕上げようと本気で、全力で進んでいます。このままでは、もはや誰も止められないと言うほどのおそろしい権力の暴走を起こしています。ところが、問題は、かつての戦前と似ていて、なお多くの人々は、自分たちに直接の害は及ばないだろうと、たかをくくっているようです。
その意味でも、私どもは聖書に向き合いましょう。先週は、キリスト者の魂の為、信仰の成長のために聖書に向き合うことを確認しましたが、私どもの社会に主の平和を実現するためにも聖書に向き合いましょう。聖書は、私どもに今がどのような時代なのか、その根本的な、決定的な情報を教えてくれます。これを、おかしな言い方ですが、まじめに受け止めましょう。この点で失敗すれば、何をやっても的外れを起こすしかありません。現代社会を真実に批判することなど、できなくなります。いわんや、ここで私どもが教会に生きる意味も、的外れなもの、空虚なものとなってしまいます。
さて、今、弟子たちは「時」について、これまでよりはるかに研ぎ澄まされた感覚を持っています。何故なら、主イエスが十字架についてご復活されたことを目撃し、体験しているからです。ご復活されたイエスさまは、40日もの間、彼らに現れ、地上を歩まれたときに心を込めて教え続けて下さった神の国の教えを、もう一度、教えて下さったからです。彼らの信仰の目は、いよいよ開かれ始めているのです。「ああそうだ、今、神はついに聖書で予告し、約束されたものすごいこと、救いの御業を目の前で行って下さっている」このような感動、驚き、感謝、言葉であらわせないほどのものすごい興奮の中にあったと思います。
それゆえに、この6節の質問が出て来たのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」これはおそらく、使徒の中の誰か一人の質問ではないと思います。皆で、旧約聖書を読み進め、言わば聖書研究をしているうちに、神からのメシアでいらっしゃるイエスさまが来られて、十字架についてご復活なさった以上、神の国は今まさに実現するのではないか、そういう思いが募ったのです。しかも彼らは、神の国とは、神のイスラエルの復興、再興を意味すること、地上のイスラエル、その民族、国家の復興に他ならないものであるという認識を全員が強く確信していただろうと思います。
実は、わたしが信徒の頃、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という質問した彼らに対して呆れるというか、軽蔑すると言うか、そのような理解を持っていました。つまり、この問いの中に、福音書のなかで示されていた、あの弟子たちどうしの愚かな争いのことと重ねて理解してしまったからです。つまり、イエスさまがイスラエルの王に即位されるときには、我こそ右大臣、左大臣にしてくださいと、互いにその地位や立場を競い合っていたあの弟子たちの姿です。ただし、そのような理解は、読み込みです。何故なら、旧約には、イスラエルという国が完成されることなしに、神の約束、神の真実が成就することはあり得ないとされているからです。旧約ばかりか新約でも、神の御心とは、神の完全なるご支配、神の王国が現実のこの地上に打ち建てられることこそあると告げているのです。この現実の世界に神の国が実現するところに人間の究極の救いがあり、その完成があるからです。
さて、それなら主イエスはどのようにお答えになられるのでしょうか。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」ここで、明らかになるのは、主イエスは、決して、イスラエルの国の再興そのものを否定されていらっしゃらないということです。神の恵みと平和、愛と正義の支配する天国は、必ずこの地上に実現されるのです。そのために神の御子はこの地上に来られたのです。主イエスの御業は、成し遂げられたのです。ただし、主は「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」と明言されました。つまりその時は、父がご自身の権威をもって定めておられるということです。マタイによる福音書第24章で主イエスはこう語られています。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」その日、その時とは、主イエスが再びこの地上に到来する日のことです。彼らは今、まさにその日、その時が切迫していることを感じているのです。しかし主イエスは、あらためて「あなたがたの知るところではない。」とお告げになられます。要するに、信仰者には、神の御心のすべてが明らかにされる必要はないということです。それを敢えて知ろうとすることは、不信仰なのです。信仰者にとっては、この慎みは必須のものです。そしてまた、その知らされないというところに神の御心、それは、常に神の愛の御心、親心があるのです。そのことによってこそ、信仰者は正しく生きることへと促されるからなのです。
さて、ここでは、それよりさらに大切なこと、決定的に大切な真理が示されました。主がここでおっしゃった「イスラエルのために国を建て直」ということは、実は、旧約の理解を越えたもの、厳密に言えばそれを徹底したものとして示されているということです。一言で言えば、このイスラエルとは、他ならない私どものことを意味しているのです。つまり、キリストの教会のことです。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」とは、教会が世界中に建てあげられて行くこと、教会形成が始まるということを意味しているのです。使徒たちが考えていたように、神の国の地上における完成という神の救いの御心は、実は、主イエスの十字架とご復活の後いっきに実現するものではないということです。実は、その前に、もう一つ新しい段階があるのです。究極の完成の時代は、言わば、この新しい時代のなお次のときに完成されるということです。
ご復活された主イエスは、ご復活後、ただちにこの世界を完成させるのではないのです。その世界にさらに大勢の人々が招き入れられるために、さらに大勢の神の民、選びの民が救われるために、教会の時代が始まるのだということをここで示されたのです。そうです。今は、教会の時代が始まっている時代です。それは、終わりの時代と言い換えることができます。地上における神の国の究極の完成の前に、神は、この地上にイエス・キリストを頭とするキリストの体としての教会を起こされるのです。それは、マタイによる福音書第16章で予告されていたあの御言葉、「わたしはこの岩の上に教会を建てる」です。主イエスは、この岩の上にご自身の教会を建てあげるために、ご自身の尊いおいのちを十字架に捧げられたのです。主イエスが、三日目にお甦りになられ、天に昇られるのは、すべては、「この岩の上に教会を建てる」ためだったのです。そして、その主イエスの絶対的なご意志、いかなる障害をも打ち破って進み、実現なさるお力が、ここにいるおひとりお一人に働いて下さったのです。その結果、今朝、私どもは当たり前のようにここに座って、礼拝を捧げていますが、それは、イエスさまの御心の実現であり、イエスさまがご自身の聖霊によって私どもを呼び集め、救い出して下さったそのおかげなのです。
さて、主イエスは、この地上にご自身の教会を建てあげるために、使徒たちをして、どうしてもさせなければならないことがありました。その事が次の御言葉に示されています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
「わたしの証人となる。」ということです。キリストの証言者となることです。そのためには、どうすればよいのでしょうか。主は、約束されます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」地の果てに至るまでキリストの証人となることができるというのです。しかしそのためには、聖霊が降ることが必要であると明言なさったのです。つまり、使徒たちもそしてわたしども一人ひとりも、この聖霊によって力を受けることなしには、キリストの証人となれないということ、地の果てまで出かけて行くことができないということです。
ルカによる福音書の結びの第24章には、このような主イエスの御言葉が記されています。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
高い所からの力、それこそが聖霊なる神ご自身のことです。ここで敢えて確認しますが、この力とは聖霊のことですが、聖霊は神の力のことではありません。聖霊なる神は、三位一体の神の第三位格なるご存在です。神ご自身です。
主イエスは、父がお約束してくださったように、弟子たちが、神の聖霊、キリストの霊に覆われるまで都に留まれと仰いました。ここで、「覆われる」という表現は大切です。覆われるとは頭の先から足の先まですっぽり入ってしまうというイメージです。先週は聖霊の洗礼ということを学びました。洗礼は、ギリシャ語では浸すという意味があります。水の中に浸されるということです。洗礼という言葉のイメージには水で浸されるというものがあるわけです。しかし、それは単に水で浸されるだけなら、お風呂に入ることと同じです。その洗礼は、キリストと一つに結ばれることを意味しています。そしてそれは、言い換えれば、聖霊なる神に覆われるということに他ならないのです。聖霊に浸されるのです。そして、何故、覆われるという表現が大切になるかと申しますと、新しい時代、教会による神の国を拡大するためには、人間の力によってはまったく達成できないということなのです。だから先走って出発してはならない。留まれ!とお命じになられたのです。つまり、主イエスの御霊によって力を受けない限りは、主のお働き、つまり私どもの奉仕は、まったく担えないのです。イエスさまの御業を継承すること、さらに豊かに広く展開するためには、まさに人間の業では足りないのです。実に、教会を建てあげるということは、人間の能力によってこれを推し進め、完成させることなどできないということをはっきりとお示しになられたわけです。
ここに始まった新しい、教会の時代、それは、言葉を換えれば、聖霊の豊かに働かれる時代、つまり聖霊なる神の時代なのです。積極的に申しますと、地上に神の国が教会によって拡大するというイエスさまのビジョン、神のご計画は、聖霊によって必ず実現するということです。絶対に、計画倒れにならないということです。神が神ご自身の霊の力によって、新しい時代の中で、地上にキリストの教会が広がって行くのです。それは、まさに誰も止めることはできません。まさに、主イエスがマタイによる福音書大16章で宣言された通り、死の力、陰府の力も対抗できないのです。
さてそれなら、その力とは、いかなるものなのでしょうか。「そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」「証人」です。わたし自身、使徒言行録を学ぶことに対しての大きな期待があるのは、この証人、証し人という言葉の持つ意味を皆さんと深く学べるだろうということです。
私どもは既に2006年から「ディアコニアに生きる教会」を標榜して歩み続けてまいりました。私どもは、既にディアコニア、奉仕とは、教会にとってまさにその本質的なあり方であり、ディアコニアに生きることは教会としての不可欠なあり方そのものだと確信しています。主イエスが、「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためである」と仰ったように、このお方を頭とする教会として、その意味でのキリストの体である教会としてもしも仕える者たちの共同体としてその姿を示さない限り、頭と体がちぐはぐなものとなるだろうと思います。
そして、2011年の東日本大震災において、日本の教会は「ディアコニア」という言葉を、教会の形成において用いはじめるようになってきました。ただし、それによって日本の諸教会がディアコニアを教会の存在にとって必須のことだと深い認識と実践を始めているかどうかは、なお、途上にあるあろうと思います。しかし、これまでの多くの教会は、伝道、福音の宣教こそは、教会の第一の務めであると考えて来たと思います。私どももまた、伝道こそ教会の存在理由そのものであるとも学び、確信しています。伝道を止めれば教会であることを止めているわけです。さて、そこでいわゆる教会の中に、言わば伝道至上主義のあり方が出てまいります。その方々は、教会がなすべきことは伝道のみ、御言葉を宣べ伝えて、魂を獲得してキリスト者にするそれこそが、滅びゆくこの時代の中で、教会だけがなしうることであるし、なすべきこと、そのために聖霊の力が必要だし、聖霊こそ神の言葉を語らせる力だと理解するわけです。こうして、教会が時間や財を伝道以外に用いるのは、むしろ主に対する背反行為だという強い主張まであります。この立場の方々は、被災地に赴いても、被災直後でも御言葉の宣教を伴わない支援活動はしないという立場です。
一方で、これと反対に、被災地では特に、絶対に福音を直に語らないこと、それこそが教会らしいあり方だと主張する立場もあります。人の弱みに付け込んで、福音を強制するような仕方は伝道ではない。伝道とは、生き方そのものであって、その生き方によってキリストを伝えるものだ、むしろ言葉はいらない。この二つの立場はいずれも極端です。また、伝道とは個人の魂に対するものだという立場と伝道とは単に個人ではなく社会や国家の体制そのものに対してこそなさなければならないというものもあります。これも、極端で聖書の理解とはかけ離れています。このようなそれぞれの主張の中で、キリストの教会やひとりひとりのキリスト者たちが理解し合えず、協力できなくなるという問題が現実に起こります。いったいどうすればよいのでしょうか。そのとき、きわめて当然ですが、聖書から学ぶ以外にありません。聖書からと言っても聖書全体からです。聖書の教えの全体、教えの体系からです。改革派教会とは、まさにそこで主張するのです。私どもはどこか独特な教派的な主張をしようとするものではありません。むしろ徹底的に聖書の教えの全体、福音を包括的に学び、教え、実践するのです。そこで、私ども名古屋岩の上教会が、少しずつ学びとっていることこそディアコニア、奉仕です。
マタイによる福音書の大宣教命令では、主の教えを告げ、洗礼を施すべきことが命じられています。ルカによる福音書そして、使徒言行録でもまた、主の御言葉、福音がエルサレムから地の果てにまで宣べ伝えられて行くさまが描き出されます。その意味から言えば、伝道に生きる教会の祝福された姿が現わされています。ただし、その伝道とは、狭い意味での伝道ではないはずです。魂を獲得し、単に洗礼者をたくさん起こして行く活動ではありません。そのような教会であれば、結局、それは神の国にならないのです。それは、歴史の上ですでにはっきり示されていることです。いわゆるキリスト教人口が多い世界が、正義と公平の社会とならない現実があるわけです。まことのキリストの教会でなければ、神の国を地上に映し出すことができないからです。
神の国の福音とは、まさにこの地上において神の国の生き方をする者を起こす力ある知らせです。それなら神の国の生き方とはどのようなものなのでしょうか。それは、簡単に言えば、この世のあり方の正反対の方向を進むことです。偉い人とは、仕える人なのだと主イエスが教え、それを実践なさったのその姿、生き方に見ることができます。
主イエスは、ここで「わたしの証人となる。」と予告され、命じられました。キリスト者とは証人だということです。自分自身に関心を持つのではなく、証言されるご自身、キリストご自身に関心を持つのです。このことが明瞭になると、教会が律法主義から解放されて行きます。律法主義の教会は、あの人はキリスト者らしくない、証人として生きていないと、その人じしんの言動に目が向きます。そして、結局、批判される人は苦しむばかりか本人も偽善的になって、苦しんでしまうのです。キリストの証人は、あくまで「わき役」であることを心得たらよいのです。救いの御業を広め、神の国を拡大する圧倒的な主役は、キリストご自身、主イエスの御霊ご自身に他なりません。
さて、その上で、今、日本に、そしてあの被災地においてこそ必要とされるのがキリストの証人ではないでしょうか。言葉と行いをもってキリストを指差し、キリストに代わって、キリストと共にそこで生きる、隣人となって、彼らに仕える、そのような証人が求められています。そして、私どもは既にその証人とされているのです。決してこれから証人になろうとするわけではありません。確かになお拙い証人かもしれません。時に、自らキリストの栄光を損なうこともある現実があります。しかし、それにもかかわらず、証人として召され、救われ、今こうして生かされてあることを深く自覚したいのです。それだけに、ただひたすら上からの力、聖霊に覆われ、包まれ生きることをのみ求めるのです。
既に新しい時代が始まっています。ここにも、キリストの教会が存在しています。私どもは、この教会を建てあげる働きへと今年もそれぞれに奉仕に勤しみましょう。教会のディアコニアを担ってまいりましょう。そのようにして、新しい時代の到来、始まりをすべての人々に告げ知らせるのです。
祈祷
教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、今や、ユダヤ人のみならずすべての人々が神の国の現れである教会の中へ招かれています。新しい教会の時代、聖霊の時代が始まっています。その中で、私どもも今神の平和の支配、天国の中に招き入れられ、救われた人生を歩んでいます。どうぞ、この驚くべき恵みの時代の始まりとそれをもたらして下さった主イエス・キリストの証人として、今のこのときをふさわしく生きることができるように、聖霊をいよいよ私どもに、ひとり一人に注いでください。聖霊で覆ってください。あなたの愛で満たしてください。隣人となるために。奉仕するために。アーメン。