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「再臨を待つ者の生き方」第1章9節~11節

「再臨を待つ者の生き方」
                 2014年2月2日
テキスト 使徒言行録第1章9節~11節
【 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 
使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。】

主イエスが神の栄光に覆われ、雲に乗るようにして天に挙げられました時、弟子たちは主イエスが見えなくなるまで見上げていました。いへ、まったく見えなくなってなおしばし彼らは天を、空のはるかかなたを見つめていたのでした。やはり、人間的な意味での寂しさや不安というものがあったのだろうと思います。天の父なる神は、そして主イエスご自身もだと思いますが、ただちに、彼らのために天使を派遣されました。白い服を着たということで、聖書的な表現では、天使であることが示されています。この天使たちは、ルカによる福音書第24章のご復活の記事にも登場します。誰よりも早く主のご遺体を納めた墓にかけつけた婦人の弟子たちの前に、輝く衣を来た二人の天使がそばに来て、大切な伝言を彼女たちに告げたのでした。もしかすると、ここに遣わされた天使たちは、あの時の天使たちなのかもしれません。そしてここでも、大切なことを伝言してくれます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

ここでは、二つのことが言われていると思います。「何故、天を見上げて立っているのですか?もう良いでしょう。もう、十分でしょう。あなたがたの救い主のイエスさまが天に戻られたことの意味は、もう、十分に分かっているはずでしょう。さあ、今から、あなた方でしかできない仕事、今やらなければならない特別な仕事に取り掛かりなさい。」もう一つのことは、こうです。「イエスさまは、天に行かれたその同じお姿で、また、あなたがたのところに、地上においでになられます。」主イエスのご再臨の約束です。

このテキストで明らかにされた真理とは、主イエスの昇天と再臨でした。そして、ここでその真理が弟子たちに要求すること、責任、義務、使命がそこではっきりと示されるのです。人類は、とりわけ主の弟子たちは、この二つの出来事の狭間を生きるように定められたのです。新しい特別の時代が、今、始まったということです。私どもは、既にそれを、「教会の時代、聖霊の時代」だと学びました。そもそも、使徒言行録とは、主によって開幕した新しい時代のただ中で主の弟子たちは、何をなすべきか、そして何をしたのか、その途中経過を報告する書物なのです。

そもそも主の再臨とは、主イエスが再びこの地上に戻られる時、出来事のことです。再臨は、まさに私どもにとってのゴールそのものです。人生の究極の目的であり目的地点に他なりません。地上で生きる者、歴史を生きるすべての人間が目指して歩むべきゴールそのものです。人生の意味や目的を考えるなら再臨なしには何も成り立ちません。再臨のとき、何が起こるのでしょうか。そのとき、人類の救いの歴史は完成します。再臨とはその意味で、すべての歴史に意味や目的を与える出来事だと言えます。ことができる神の救いの完成の時です。
もし、人生の目的、目標、ゴールがどこにあるのか分からなければ、人の人生は、空しいはずです。それと同じように、もし、人類に再臨のときが来なければ、人間の歴史は空虚なものとなります。虚無の世界、暗闇に覆われてしまいます。もし、再臨のその日が来ない、その日がないと仮定するとどうなるでしょうか。まことに恐ろしくて、生きて行けません。

しかし、聖書を読んでいる者は、安心して生きて行くことができます。何故なら、この世界は、ちゃんと神さまのご支配の下にあって、最後には神さまがまさに全責任をおひとりでとられるようにして、この世界を救い、完成してくださるからです。新しい天と新しい地、最初の世界よりさらに美しい世界へとつくり変えて下さることを知っているからです。それは、イエスさまが来られるときに、神がなされる救いの御業です。そのとき、そしてそれを実現するために、すべての人間は、父なる神の御前に、主イエスさまの陪席のなかで、審判を受けます。神の正義と愛に基づく完璧な法廷において神による裁判を、一人ひとりが受けるのです。私共には、その裁判を受ける権利とまた義務があるのです。キリスト者にとっては、それはまさに希望の日、救いの時です。この最後の審判を経て、この世界からは争いはまったくなくなります。差別がなくなります。憎しみや妬みもなくなります。あるのは、神の愛と平和、神の正義と公平です。神の恵みのご支配、統治が樹立するのです。これこそ、私どもにとっての確実なゴールなのです。そのゴールは、日ごとに私どもに近づいています。ゴールの方が、私どもに近づいて来るのです。主イエスは、約束を守ってくださる契約の主です。その明らかな証拠がキリストの教会の存在です。イエスさまが教会によって、神の国を地上に始めておられる限り、神はご自身の国、主イエスの体なる教会を必ず完成し、こうして世界を完成されます。

さて、天使の伝言を受けた弟子たちはどうしたのでしょうか。彼らは、これまでの姿とは、見違えるような行動を起こします。私どもは、ご復活のイエスさまが40日にも渡って、弟子たちを訓練してくださったことを学びました。そして、主イエスが、彼らの訓練が十分であると御認めになられた故に、天に昇って行かれたことを確認しました。そして、そのご判断が正しかったことを、彼らは今ここで証明してみせてくれたと言ってもよいと思います。つまり、天使の言葉によって、彼らはあれこれ議論することなどなしに、ただちに主イエスがお命じになられた通り、エルサレムに戻っているからです。主イエスは「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられていました。ですから、彼らはただちに従ったのです。この小高い山、オリーブ畑と呼ばれる山から降りて、エルサレムに戻ります。そして、エルサレムにある家の二階の部屋に上がりました。

私は、この時の弟子たちは、もう、昔の弟子とは顔つきも違っていたのではないかと思います。それは、主イエスの福音の真理がよく分かっていたからです。人間的に言えば、腹が据わって、前進するのです。腰が据わって、仕事に打ち込むのです。もはや、おそれるものもない、そのような信仰の思い、覚悟が定まっているようです。ルカは、彼ら11人の弟子たちのことを、「使徒」と呼んでいます。弟子たちとは別格です。もとより、彼らも主の弟子です。しかし、主イエスから特別に選ばれ、使命を与えられた者たち、ミッションを受けた者たちなのです。

使徒たちは、そこで何をしたのでしょうか。待つことです。約束の聖霊を注がれるのを待つのです。もう、新しい時代が胎動を始めています。厳密に言えば、新しい時代は、この直後の聖霊の降臨から始まります。しかしもう、言わば、お腹のなかにこの新しい時代が身ごもられているのです。言わば、もう陣痛が始まっているような感じがします。

次に、ここに11人の使徒たちの名前が記されています。ルカによる福音書第6章14節には、既に12弟子のリストが記されています。主イエスが、弟子たちの中から特別に選びだされたのです。ここでは少し、順番が違っています。後で確認されたらと思います。何故、わざわざ、ルカは福音書に既に記しておきながら、使徒言行録でも名前を数えたのでしょうか。それは、おそらく復活前の主イエスさまの御業が、ご復活の後も継承されていること、連続した御業であることを、読者と共にはっきりと確認しておきたかったからだと思います。

さて、ここで私どもが注目すべきは、使徒たちだけがこの約束を信じ、待っていたのではないということです。確かに、主イエスの昇天を目撃したのは、11人の使徒たちだけだったように思います。しかし、この家には、婦人の弟子たちもいました。イエスさまのご復活の最初の証人となった女弟子、あの婦人たちです。つまり、教会の歴史のまさに最初から女性が重要な役割を果たしていたということの証拠がここにあるだろうと思います。つまり、使徒たちだけがキリストの証人となったのではないのです。2000年前、女性の地位だとか権利だとか、まったく顧みられることもなかった社会の中で、キリストの教会においては、すでに女性の働きが不可欠なものと理解されているということが分かります。

さて、実は、わたし自身、今回の説教準備の中で、改めて気づかされ、驚かされたことがあります。ルカは、はっきりと報告します。「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」つまり、いわゆる「聖家族」、イエスさまの肉の母、弟や妹たちが突然、登場するのです。ルカによる福音書の冒頭に、母マリアのことが出てまいります。有名な、受胎告知の場面をルカは報告しています。マリアの賛歌もルカによる福音書にだけ収められています。兄弟たちのことは、第8章19節で登場します。しかし、そこではっきり分かることは、兄弟たちは、主イエスの弟子に、なっていないと言うことです。ヨハネによる福音書では、そのあたりのことを明瞭に語っています。弟たちはイエスさまに、「エルサレムに行って仮庵祭りに集まる大勢の人々に自分の存在をもっと公に知らしめるべきです」とアドバイスしたのです。ヨハネによる福音書は第7章5節でこう断言します。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」つまり、主イエスは、十字架以前には、母はおろか兄弟たちの一人も、弟子にすることができなかったわけです。あるいは、救いに導けなかったとすら言うことができるかもしれません。しかし今、母マリアをはじめ兄弟たちも使徒たちと一緒に集まっているのです。つまり、はっきりと主イエスの家族は、イエスさまを主、キリスト、神として信じたということです。おそらくイエスさまは、ご復活後に彼らにそのお姿を特別にお示しになられたのだろうと思います。あるいは、確かな事として母マリアは、ヨハネによる福音書によれば、十字架につけられる息子イエスを見あげていました。あのとき母マリアは、十字架のイエスさまの中に、まさに神の御子のお姿を認めたのかもしれません。そして、遂に、ご復活のイエスさまにお会いして決定的に、主の筆頭弟子のひとりになったのだと思います。そして、もしかすると、他の息子や娘たちにも、お兄さんのイエスさまのことを伝え、証したのかもしれません。そして、ご復活されたイエスさまご自身も又、兄弟たちに直接に伝道したのかもしれません。いずれにしろ、イエスさまは、ご自身に肉の家族の救いをどれほど深く、強く願っておられたのか、それが良く分かります。こうして主イエスの家族の救いは見事に実現したのです。私どもは、このことからも、神が、そして主イエスが人間の血肉の救い、家族の救いを大切にしておられるかを確信することができるはずです。確かに、ルカによる福音書第8章で、イエスさまはこう仰っています。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」これは、確かに、私どもにとっては恵みと慰め、祝福と感謝に満ちた救いの言葉です。私どもは、主イエスの家族として受け入れられ、主にある兄弟とされています。しかし、主イエスは、肉の家族を決して軽んじておられたわけではなかったのです。どれほど愛しておられたことでしょうか。どれほど救われて欲しいと願っておられたのでしょうか。ですから、今年もまた、家族の救いのために、真剣に祈り続けてまいりましょう。

さて、最後に、待っていた彼らがエルサレムの二階の部屋でしていたのは、何だったのでしょうか。祈りです。「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。「心を合わせる」という言葉は、使徒言行録にこれからしばしば出てまいります。心、思い、感情を一つにするという意味です。まったく別個の人間の心、思い、感情を合致させるのです。容易なことではありません。しかし、それをしたのです。次に「熱心」です。もとの意味は「執着する」です。祈りにこだわったのです。祈りにしがみついたのです。彼らはひたすらに祈って、待っていたのです。祈って祈って祈り続けました。待って待って待ち続けました。主イエスのお約束の成就、父なる神の約束の成就を祈り待ちのぞんだのです。新しい時代が動きだすために不可欠の聖霊の降臨を待ったのです。そして、第2章は、彼らの信仰、待つ信仰、祈りが聞かれたことを報告しています。聖霊が注がれて、彼らは約束通り、力を受けたのです。キリストの証人とされる力を受けたのです。 
 
さて、今まで学んできたことは、確かに過去の出来事です。しかし、それは、過去に一度だけ起こったことの単なる報告ではありません。後の教会のあり方、姿勢の模範となっているのです。モデルとなっているのです。
今私どもは、昇天後の時代を生きています。また、聖霊降臨後の時代を生きています。教会時代に突入しているのです。そして、後残るのは、ただ一つのことだけとなりました。それが再臨です。再臨を待ち望むのです。待ち望む私ども教会は、どうすればよいのでしょうか。使徒たちの真似をすべきです。「心を合わせて熱心に祈」ることです。「心を合わせる」ことです。「熱心」になることです。そして、共に祈るのです。祈りに執着し、神の約束の成就にこだわるのです。しがみつくのです。祈って祈って祈って、待って待って待ち続けることです。それが、聖霊の時代、教会の時代を生きる者たちの基本の構えです。祈って、神の霊の力に満たされ、聖霊の力に溢れて、キリストを証するのです。愛の奉仕に励むのです。

そうなると、ここでわたしどもが深くわきまえるべき真理が見えて来るだろうと思います。新しい時代は、聖霊によって始められます。つまり、それはついに人間が主役になる新しい時代の始まりということではないということです。聖霊なる神が主役となるのです。これを間違えてはなりません。私どもの力が問われるのではないということです。上からの力が勝負です。上からの、神からの、聖霊なる神の力にすべてはかかっているということです。同時に、この聖霊は常に、信じる人間、教会を用いること、それが一方の真理です。

使徒たちは、腹を据えて祈りに打ち込みました。教会とキリスト者の働き、地の果てまで主の証人として生きること、伝道するその働きの最後は、主イエスが仕上げて下さることを、信じているからです。主の勝利を信じる故に、教会の勝利をも信じることができたのです。この信仰によって、彼らの腹が据わり、腰を据えたのです。弟子たちは、もう、振り返ることはなかったはずです。こんな自分たちでは、出来ないなどと、自分を見つめることも止めています。心を高く挙げ、心を合わせて熱心に神に祈り求めたのです。私どももまた、同じように励みましょう。私どものエルサレムの二階の部屋は、この礼拝堂です。ここで礼拝を捧げ、祈るのです。そして、ここから出かけて行くのです。

説教の後、ただちに聖餐の礼典を祝います。牧師が司式を執り行います。しかし、いうまでもなく私はわき役です。主役は、聖霊によってここにご臨在してくださるイエス・キリストです。天に戻られ、父の右に座しておられるイエスさまが、聖霊によって共におられるからです。そして、ご自身が成し遂げて下さった十字架とご復活の御業、それによって獲得された救いと霊的な祝福のすべてを、信じて食べ、飲むものに、豊かにふるまって下さいます。私どもの信仰を養って下さるのです。私どもが、腹を据えて、主の業に、教会奉仕に専心できるようにして下さいます。私どもが、腰を据えて地上の歩みを進むことができるように、安心と勝利、勇気と愛を与えて下さいます。信仰に基づいて聖餐の品にあずかった者は、ひとりももれなく主イエスのご再臨の準備が整えられています。ここでお会いし、ここで聖餐を通して交わるイエスさまが、再び来られる主だからです。

さあ、たった一度限りのこの地上の生涯です。そして、救われている人生です。ひとりひとりの人生は、再臨のイエスさまによって完全にされます。確かに失敗することもあるでしょう。挫折してしまうこともあるでしょう。後退してしまうこともあるでしょう。けれども、何もしないで終わる人生より、主にある冒険に生きる方が、どれほど幸いなことでしょうか。あるいは、人生の意味を履き違え、間違ったゴールを目指して一生懸命に生きている人たちと同じ歩みをしてはなりません。救われた私どもが、もし大胆な生き方をここから始められないのなら、再臨を信じていないことと変わりありません。私どもは、私どもの人生も教会も主イエスによって仕上げられることを信じます。永遠に残るのは、主に祈って、主の力によって生きた私どもの存在です。信仰に生きる生涯です。勇気を出して、主の勝利を信じて、信仰の戦いを重ねてまいりましょう。

祈祷
父なる御神、聖書を通し、主イエスによって人生の目的を知らしめ、人生のゴールを見ながら歩む者として下さいましたことを感謝致します。主イエスが再び地上に帰って来られる日の約束を待ち望む私どもは、今この時を、キリストの証言者として召されていることを覚えます。私どもに御霊を豊かに注いで、あなたの御業にふさわしく仕えさせて下さい。約束を待つ者とは、何もしないでいるのではなく、主イエスが家族を導かれたように、私どもも肉の家族の救い、子どもたちの救いを信じ、心を合わせ熱心に祈る者とならせて下さい。