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「上からの力で生きよう」第2章1節~4節

「上からの力で生きよう」
                 2014年2月16日
テキスト 使徒言行録第2章1節~4節
【 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。】

今朝の聖書個所は、教会生活を重ねている方にとっては、もしかすると毎年のように礼拝式で読む個所かもしれません。子どもの教会の教師方や子どもたちは、教会学校教案誌のカリキュラムでは、聖霊降臨祭、ペンテコステの時には、ほぼ毎年のようにこの個所がテキストとして取り上げられます。そもそも、キリスト教会の暦を織りなす大切な記念日は、三つあります。降誕祭と復活祭、そして、今朝あつかう聖霊降臨祭です。降誕祭と復活祭のための説教のテキストは何か所もあります。ですから、毎年、違う聖書の個所を学ぶことができます。しかし、聖霊降臨祭は、どうしてもこの個所が選ばれやすいと思います。この個所が歴史上のキリストの教会の出発に関して唯一の資料だからです。

さて、ついに今朝から私どもにとって特別の重みを持つであろう第2章に入ります。ただし、先週も学び、確認したことを今朝も覚えておきたいと思います。第2章こそ言わば本論であって、第1章は、序論に過ぎないと考えることの危険性です。教会は、突然、この地上に目に見える形で出発したわけではないということです。そもそも旧約のイスラエルの民が教会の基礎でした。そのことを、確認させる意味からも使徒たちは、イスカリオテのユダの死によって不在となった使徒職の務めをマティアという弟子を選び立てることによって12人としました。これは、メシア救い主が来られた時には、イスラエル12部族が再興されるという約束の成就という旧約の理解、詩編の理解に導かれて、なしたわけです。このように、教会は、古い神の民に根ざしながら、しかし、新しい神の民として今まさに地上に産声を上げようとしているわけです。つまり、使徒たちを中心にした120名の熱心な心を一つにした祈り、その中身は、神の御言葉の真剣な学び、協同の学びでした。そのような弟子たちの信仰を場として、教会は胎動していたわけです。そして、遂に、第2章、今朝の個所を迎えたのです。

ただし、今申しました、彼らの信仰を「母胎」としているというのは、あくまでも比喩です。つまり、信仰者のいかなる信仰や奉仕も、神の教会を産み落とすことはできません。彼らの信仰とは、そもそも、主イエスとその約束の御言葉が生み出したものに他なりません。弟子たちの信仰とは、御言葉への信頼のことなのです。

ルカは、弟子たちが熱心に待ち望んだ、主イエスの約束を三度、記しています。先ず、ルカによる福音書第24章49節です。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」次に、使徒言行録の第一章5節です。「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」三番目が8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。」です。つまり、教会を生んだのは、約束された聖霊なのです。聖霊の洗礼を受けるその時こそ、弟子たちが教会として産声を挙げる時となったのです。地上を旅する第一歩となったのです。今朝から学ぶ第2章とは、その日、その時がこのようにして成就したのですよと報告する物語です。

さて、その日は、ユダヤ人にとっては特別の日でした。そもそも、ユダヤ人の暦をつくるその中核となる祭りに、三つの祭りがあります。旧約において守ることが命じられている特別の日、聖なる祭りです。それは、第一に過ぎ越しの祭り、そして仮庵の祭り、そしてこの五旬節、ペンテコステ直訳すると50と言われる日の祭りです。これは、小麦の収穫を祝う祭りです。この五旬祭は、過ぎ越しの祭りの次の安息日を起点として50日目の祭りです。その日は、私どもにとっては主の日、ちょうど日曜日に当たります。この五旬祭の日、エルサレムは神殿に詣でる人々で大変なにぎわいであっただろうと想像されます。

さて、ここで、120人という弟子たちの人数について、少し考えてみたいと思います。この人数が多いのか少ないのか、です。世界の救い、人類の救いをもたらす福音の証人、主イエスのご復活の証人の数としては、言うまでもなくまったく少数だと思います。砂浜の砂を全部運ばなければならないのに、今はほんの一握の砂しか手にしていないという感じがします。

しかし、一方で120人もの兄弟たちが心を合わせることができた、それは、もう既に奇跡が起こったと言っても良いかもしれません。確かに、政治の世界などでは、ある一つのことだけを争点にして、人々の心をぐっと掴むということがあります。何よりも、この世界はある一つのことだけでも利害関係において強く繋がる、団結するということが基本のこととして動いていると思います。しかし、それは、結局、当事者同士の利害の一致でしかありません。オリンピックで日本人選手を応援するのは、多くの人々がごく自然にそのような感情になります。しかし、応援する人々のその一人一人の心が通い合ったり、心まで一つに合うなどということはまったくあり得ないことです。しかし、今、120名の人たちは、心を合わせ、まるで一人の人のようになっているのです。しかも、その心が合うというのは、他ならない神さまの御心にピタッと合わせているということにおいて、心が合っているのです。一つになっているのです。信仰者、教会の一致ということは、これ以外のものではありません。教会もこの世の組織、一つの宗教団体として見られることもあり、しかも、残念ながら、そのような共同体になってしまうことも実際には起こりえます。教会が、この1節に示されているように「一同が一つになって集まっている」ということは、神の御心、-もっとはっきりと言った方が良いと思います-、神の約束の御言葉を信じ、その御言葉、御心に一つになっているということです。ここに、教会の胎動があるのです。既に、聖霊のお働きがあると言って良いのです。

さて、その日、その事件は、「突然」起こりました。これは、まことに驚くべき現象でした。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」いわゆる超常現象のような不思議なことが起こったというのです。ゴォーという突風のような音が響き渡ったというのです。その音は、天から、神から聞こえたというのです。さらには、人間の赤い舌が、しかし炎のように赤々と燃えあがっているように見えたのです。しかも、その舌が、一人一人の頭の上にとどまったというのです。

これは、一般の方々にとっては元より私どもにとっても不思議な、驚くべき現象です。ただし、この聖霊降臨における空前絶後の不思議な出来事について、きちんと受け止めたいと思います。教会の中で、しばしば混乱が起こったからです。20世紀には、この出来事を特別に強調する教派が起こりました。そして今も、世界中で大きな影響を及ぼしています。詳しくお話する必要は、ありません。しかし、私どもにとっても重要な点があると思います。

それは、要するに聖霊が注がれること、聖霊のお働きとは、このような不思議なしるしが伴うという、言わば、おかしな期待感、危険な期待感を持つことがあるということです。極端な場合は、そのような不思議な現象を自ら起こして、聖霊が注がれた徴のように主張することもあり得るのです。

このような神の目に見える著しい働きについて、たとえば、列王記上第18章や19章を読んで見られると良いと思います。時間の関係で、くわしくお話できません。後で、御自分で読んでください。預言者エリヤは、バアルの預言者たちと戦って、神が天からの火をもって、彼の祈りに応えて勝利しました。しかしその直後、言わば、燃え尽き症候群のような精神的な疲れに襲われてしまいます。そこで、主なる神は、非常に激しい風を起こし山を裂き、岩を砕かれました。ところが、その風の中に主なる神はおられませんでした。さらに、地震を起こされました。ところが、その地震の中にも主はおられませんでした。次にm火が起こりました。ところが、そこにも主はおられませんでした。そして遂に、火の後に、静かにささやく声が聞こえます。耳をそばだてなければ聴き取れないその声こそ、神の御声だと聖書は告げるのです。聖書は、基本的に、神の御業を、そのような不思議な自然現象の中にではなく、目に見えず、手で触れることもできない、まさに霊の働きとして信仰によってのみ了解できる御業として、与えられます。

それにもかかわらずこの五旬祭のとき、音を聴き、目で見ることができる空前絶後の現象が起こされました。つまり、それは、神がこの120人ほどの小さな群れを激励するための御業なのです。このような自然現象は、特別なことなのだということを、敢えて確認しておくことは、教会にとっても一人の信仰者にとっても大切なことです。

その意味で、私どもがここできちんとわきまえておくべきことがあります。その音においては風の音、その映像においては舌であったことの意味です。聖書によれば聖霊は、いくつもの自然現象にたとえられます。水であったり、風であったり、火であったりです。ここでは、何よりも風です。聖霊は風のように目に見えないお方、霊なるお方でいらっしゃいます。しかし、風が吹けば、木が揺れるように、その働きの結果、実りは確実に分かるものです。「風立ちぬ」と言えば、今は、宮崎監督の映画を思い浮かべる人が多くなっていると思いますが、もとは、堀辰雄の小説のタイトルで有名です。高校1年生のとき、「風立ちぬ、いざ、生きめやも」というポール・バレリーの詩の引用に、意味が分からないままに、しかし、美しい言葉として覚えていました。そして、数年後、キリスト者になって、「ああ、風が吹くとは、神の風、つまり聖霊に吹かれると、人は生きるのだな」と理解しました。

五旬祭の日、天からの風、つまり神の息が120人を満たします。創世記によれば、そもそも人が生きるのは、単に肉体の生命のことだけが言われているのではなく、神の息が吹きいれられたときだと言います。つまり、人間とは、神の息つまり神のいのちが吹きいれられるそのときに、まことの意味で生きた者、人間になるということが聖書の基本的な人間理解です。それは、肉体の生死を分けるのも息をしているか息がとまったか、この一点が分かれ目ですが、それと同じように、神の息を吹きいれられるかどうか、それは、決定的なことを意味するわけです。実に、この日、このとき、神ご自身の息が、突風のような轟音を伴って響き渡って、神のいのちが彼らひとり一人に著しく注がれたのです。彼らは、約束された聖霊を受けたのです。こうして、彼らはまさに生きる者、神と共に生きる者、神に向いて生きる者として回復されたのです。言わば、本来の人間、救われた人間の姿のモデルとされたのです。

次に、炎のような舌です。この炎のような舌とは、洗礼者ヨハネによって予告された「火による洗礼」をあらわしているはずです。たしかに火でしたが、単なる火ではありませんでした。焼き尽くす火、精錬する火、そのような意味を含むかもしれません。しかしここで大切なことはむしろ、赤い「舌」でした。舌とは何を意味するのでしょうか。それは、言葉です。聖霊は、言葉をもたらすお方だということです。

実は、私は今回初めて、このテキストとヨハネによる福音書の第一章の有名な御言葉との関係について示されました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」14節では、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。主イエスは、肉を取られた言葉、受肉された言葉でいらっしゃいます。この言なる神が、人となられました。それは、私どもの救いを実現するために十字架について死んで、三日目にご復活されるためでした。この主が天に戻られ、そこからご自身の代理として、聖霊なる神を注いで下さったのです。そして、著者のルカは、言います。この聖霊なる神ご自身も又、実に、言葉と密接に関わられるお方に他ならないと言うのです。聖霊こそが、主イエスの御言葉を理解させ、語らせて下さるお方なのです。つまり、聖書が明らかにする神とは、どこまでも人間に「語られる」神だということです。ですから、私どもは、今朝も2000年前と同じように、ここで神の御言葉である聖書朗読とその説教を聴くのです。

さて、炎のような舌、火のような舌が120人全員に与えられたことに注目しましょう。ここが特別に肝心な点です。男も女も、使徒たちだけではなくすべての弟子たちが同じ霊を受けたのです。一人の聖霊なる神に、ひとり一人全員が満たされたのです。こうして、教会は地上において出発させられたのです。これは確かに、突然のことでした。しかし、神の突然です。つまり、神さまの側では永遠のご計画のもとにあったのです。そして、ついにその時が整ったのです。私どもはここからも教会の本質について確認することができます。確かに教会は、120人がいなければ出発できませんでした。つまり、キリストの教会とは、当然ながら、人間がそこで決定的に重要となります。信徒であるキリスト者がいなければ教会は成り立ちません。確かに徹底的に神の教会であり、キリストご自身の教会です。しかし教会は、絶対に人が必要なのです。その意味で、教会とは徹底的に聖なる教会、神的な側面と同時に、人間的な側面があるわけです。教会を正しく考え、そこに生きるとき、決定的に大切なことは、聖霊が決定的な主導権を持って、人間を用いる関係、聖霊と人間とのただしい相互関係をわきまえるということです。

ここで、私どもが徹底的に、確認したいのは、結局、教会を起こしたもうのは神ご自身に他ならないということです。つまり、使徒たちを中心にした120人が、寄り集まって、会議を開いて、「さあ、いよいよ時が来ました。イエスさまの教会として旗揚げしましょう。私たちは12使徒で、あなたは議長で、あなたは書記で、会計はあなたです。あなたとあなたは、律法学者やファリサイ派担当の伝道、あなた方は、市民担当。」つまり、キリスト者たちが、組織化し効率化を図って、私どもで言えば、年間計画や予算を立てて出発したわけではまったくないのです。その意味で、教会は、この世のいかなる宗教組織、団体ともその目的もその起源も、まったく異質なものなのです。それが、教会の原点なのです。

教会は、上からの力で出発したのです。そして、常に、上からの力に覆われて歩むことができるのです。逆に、上から力、聖霊を失ったなら、死んでしまいます。たとい組織と制度があっても、命に満たされたまことの教会の姿は無くなってしまうのです。ですから、教会は、常に、聖霊の力溢れる共同体であるべきであり、それを求め続けるのです。確かに経済力も人材も必要でしょう。しかし、私どもに必須なのは、聖霊なる神ご自身でいらっしゃいます。

そして、今や聖霊は、エリヤのような特別の人に注がれるだけではありません。御言葉を信じて、待ち望む人は誰にでも注がれるのです。確かに、この聖霊降臨の出来事は、歴史上ただ一度限りで、繰り返しようがありません。しかし、聖霊が信じる者を起こし、信じる者に満ちて彼を覆うことは、この後の2000年の歴史の中で、キリスト者の数だけ起こり続けたと言うべきです。わたしにも起こりました。皆様にも起こりました。しかもそれは、かつて一度起こってそれで終わるものでも決してありません。大切なのは、この上からの力を日々、経験し続けることです。毎日、上からの力に満たされ、導かれて歩むことです。

キリスト者として生きるということは、自分の内なる信仰心、敬虔な思い、体験、賜物の量とか深さなど、つまり、自分の内側の力、人間的な能力に頼らないということです。
私どもは今、現住陪餐会員35名というごく小さな群れです。しかし、もし、この35名が心一つに祈るならば、世界は変わるのではないでしょうか。どんなに小さく見積もっても、この名古屋、この町が変わる、そう信じることは誇大妄想ではないはずです。たった120名が世界を動かし変革させたからです。

聖霊こそ、私どものいのちです。聖霊なる神ご自身が私どものいのちです。その聖霊は、この出来事から後、エルサレムばかりか、ユダヤの地でも、サマリアでも地の果てでも注がれることになったのです。そして20年前、この町にもそれが起こりました。日本には500年以上前に教会が誕生し、私どもの直接のルーツにある教会も150年前に出発しているのです。上から力で生きてまいりましょう。普通なら、「自分は、口下手です」としり込みする人もいたはずです。しかし、自分は口下手であろうが、口が達者であろうが、関係ないのです。炎のような舌が、神ご自身が語らせられたからです。私どもは、この出来事を、歴史上の特別の出来事にしまいこんではならないと思います。あるいは、歴史上の傑出したキリスト者だけの賜物だと思いこんでもならないのです。誰でも、神の舌、神の口になれるし、ならせられるのです。今日で言えば、足でも手でもかまいません。舌に限定する必要もありません。しかし、大切なこと、本質は、神のいのちに満たされて、生かされて歩むことです。自分に頼らず、自分の可能性の中で、教会と神を考えずに、上からの力で生きることです。

祈祷
私どもの教会の母であるエルサレムの最初の教会も、そして私どもの小さな教会も、ただあなたからの、上からの力で生かされ、育まれています。私どものこの教会もまた聖なる、あなたの生み出して下さった教会です。そして、その教会の中で、私どもを信仰と救いに導かれました。教会で洗礼を施され、聖餐にあずかりました。このようにして、最初から最後まで、あなたこそが、私どもを支え、生かし、導いて下さいます。どうぞ、愚かにもそれを忘れ、肉の力、自分の力を頼りに人生をつくろうとする不信仰な私どもを憐れんで下さい。常に、心を高く挙げ、上からの力、あなたの力で歩む者としてください。無限の力を注がれ、疲れを知らない者のように歩む奇跡を味あわせて下さい。