☆ 名古屋岩の上教会の歴史にとって「読書会」の占める位置は、まさに特別なものがあると思います。その時々の教会の歩みにとって決定的に重要な学びを重ねて来ました。そして今は、やはり、教会設立の仕上げの段階として、まさに「おさらい」を繰り返しています。しかし、一方で、洗礼を受けたばかりの方々(受洗後、3年未満の方々を想定)には、初めての学びとなります。先週の朝の祈祷会でも、基本を繰り返して学びました。教会生活が3年経てば、自動的に、その生活の基本が身につけられるということにはなりません。やはり、自ら進んで、学びの場所、読書会や、祈祷会への出席が必須です。どうしても水曜祈祷会に出席できない方は、是非、主日朝に!
(もとより、礼拝説教においても、「学び」や「教育」としての要素があります。重要な部分です。しかし、説教とは、講演ではありません。福音の宣言、神の言葉の説き明かし、悔い改めと信仰への招き、生ける神の声を聴いて、臨在する神に会いまみえることです・・・。したがって、その日の説教原稿を説教前に配ることは、本来あり得ないことなのです。私どもの教会は、子育て中の方々が、説教に集中できないとき、つまり、退席後、どこの話をしているのかついて来て頂けるようにとの願いから、完全原稿を配布してきました。また、後日、掘り下げて読んで欲しとの願いからも、印刷配布しています。また、その日の体調によっても、聴き逃す言葉や事柄があります。さらに、福音の真理と論理にその場では、ついて行けない場合もあるからです・・・。他教会では、ほとんど考えられない牧師のサービス・・・なのです。)
◆◆下記、納得ゆくまで読みなおしてくださいませ!◆◆
★ 教会にとって、何故、「法」と「政治」が不可欠なのでしょうか。これは、何も仰々しく語ることはありません。むしろ、「何故、必要なの?」という問いには、一つの前提、もしくは先入観があるのではないでしょか。つまり、教会とは、この世とは異なった世界であり、共同体なのだから、政治とか法という「世俗」の制度、システムはそぐわないのではないかという問いです。
確かに、この議論には真理契機があります。教会とこの世界とは、異質、異なる価値観に生きているという真理が鮮やかに示されている点です。Ⅱコリ6:14以下に、「光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。」とあります。ただし、これを、地上の教会を考える上での議論に当てはめることはできません。
人間が二人いれば、そこにはなんらかの意味での「法」(=約束事)、政治(=意見の調整方法)があるのではないでしょうか。それが、大きくなればなるにつれ、複雑になるのは当然ではないでしょうか。非営利集団であろうと相互の利益のための集団であろうと、法と政治は不可欠だと思います。それがなければ、力のある者の絶対的、恣意的な支配になって行くでしょう。人間の共同体には、いかなる意味でも、法と政治が不可欠となります。(しかし、実にしばしば、世俗の法と政治が権力者の都合の良い方向に運用されているのは、明らかです。)
☆ 教会には決定的な「法(掟)」が与えられています。旧約と新約の聖書です。その掟の真髄は、先週学んだ、神と隣人を自分のように愛するという「愛の掟」です。加えて、うっそうたるジャングルに比される聖書の豊かな世界を導くガイド、その教えを要約し、解釈する基準として「信条」を制定します。そして、だれが、この御言葉を今ここで、語るのかと言う切実な必要性の中から、教会職務制度、「教会政治」が整えられます。教会の法と政治とは、ひとへにキリストの支配、神の支配を確立するためです。もし、これがなければ、結局、教会は、人間の支配に転落します。ですから、歴史的教会は、一つの例外もなく、法と政治(霊的制度)を整頓したのです。
★ 各個教会においてキリストの支配【統治】に奉仕するための長老たちの会議のことを「小会」と言います。小会が存在しない教会である私どもは、教会の霊的権能、法治権をただひとり、牧師だけが執行することになります。それが、どれほど、本来の長老主義政治からかけ離れているのかは、明らか過ぎることと思います。言わば、伝道所の牧師は、「監督」に限りなく近いわけです。伝道所がなお、教会として存立しうるのは、中会という地域教会の集合体の交わりの内にあるからです。つまり、「中会なくして教会なし」なのです。一日も早く、小会組織、つまり自治組織を備えることが求められています。それは、キリストの支配に服し、会員が霊的な養い、牧会を受ける道を整頓するためなのです。