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「信仰の唯一の教師」

「信仰の唯一の教師」
               2012年7月8日
             マタイによる福音書 第23章1~12節①
「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


さて、今朝の説教は、一回で、学ぶ予定でした。しかし、途中で計画を変更しました。二回にわけて学びます。次回、看板に記してあります「仕える人になりなさい」という題で説教したいと思います。

先週は、主イエスご自身から、キリストとは誰か、あなたがたは救い主をどのように理解しているのか、そして、その出現を期待しているのかと尋ねられました。そのようにして彼らの間違ったキリスト理解を質そうとなさいました。

今朝の個所は、主イエスさまが、言わば新しい思いで、群衆と弟子たちに語り始められる個所です。この個所を深く味わうためには、マタイによる福音書のいわゆる「山上の説教」と言われる第5章から7章までを、ぜひ、読み直して下さるとよいと思います。すぐに、今朝の説教は、その山上の説教に対応していることに気づかれると思います。山上の説教では、「あなたがたは幸いです。」と呼びかけられました。しかし、ここでの説教では特に13節以降、「あなたがたは不幸だ」と繰り返し呼びかけられます。ファリサイ派の人々、そこから輩出された律法学者たちに対するまことに厳しい批判、叱責の言葉が続きます。

主イエスは、まさにこのような批判をまっすぐに語られたからこそ、彼らの憎しみ、妬みを買って、殺されます。しかし、主イエスは、いのちをかけてでも、彼らの過ちを明らかにしたかったのです。同時に、今日のキリストの教会に対しても、この過ちを絶対に繰り返してはならないとの厳しい思いをもって語られた説教なのだと思います。

さて、今朝の説教の題は、「信仰の唯一の教師」と致しました。主イエスがなさった、そもそものお話から、始めたいと思います。主イエスは、こう語られました。「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」いったい、なぜ、教会の中で、先生と呼ばれてはならないのでしょうか。実は、16世紀、ある教会は、自分たちには教師など必要ない、すべてが兄弟姉妹の団体である、これこそ、キリストの教会の本来の姿であるという主張をもって新しく始まったキリスト教があります。兄弟団と名乗られました。今日、キリストの教会には、さまざまな教派がありますが、99,9%以上の教会には、言わば信仰の指導者、教師がいるはずです。神父、牧師、司祭さまざまな呼び名があるわけですが、彼らは、言わば、信仰の先生です。教会の中で、教師の立場を拒否する人々の過ちについて語る暇はありません。

主イエスはここで、さらに、このようなことまでお命じになられたことを見ましょう。「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」皆さんの中で、この御言葉を根拠にして、わが子に向かって、「教会では、お父さんのことを、お父さんと呼んではダメですよ。イエスさまがそう仰っているのだから」と、教える親はいらっしゃるでしょうか。ローマカトリック教会では、教会の指導者、司祭のことを、通常、「神父さま」とお呼びします。教皇さまに対して、愛情や親しみを込めてポープ、つまり、お父さまと呼びます。先ほど、あげた教派の人々にとっては、当然、そのようなことも、このイエスさまの掟を真っ向から破る行為として理解するわけです。しかし、それは、まったく的外れの批判でしかありません。

それなら、主イエスは、何故、父と呼んではならないと命令なさったのでしょうか。
私どもは、先週の祈祷会で、先週の説教を掘り下げて学びました。まことのメシア、真実の救い主キリストとは誰であり、どのようなお方でいらっしゃるかを確認しました。私どもキリスト者とは、イエスさまを、しかも十字架につけられたイエスさまを、「生ける神の子、キリスト」と告白する者です。そして、そこで改めて確認したのです。いったい何故、私どもが十字架につけられたイエスさまを、救い主、キリストと告白できるのでしょうか。コリントの信徒への手紙Ⅰ第12章を学びました。そこで、改めて、聖霊によらなければ、聖霊を受けなければ、聖霊に導かれなければ、誰も、イエスを主と告白出来ないことを学びました。つまり、人間的な力、自分が生まれながら持っている力では、イエスさまを主、キリストと理解できず、告白できないのです。ただ聖霊なる神さまのお働きによってのみ、信仰を告白し、信仰の生活がなされるという福音の真理です。私どもが今、イエスさまを愛し、信じ、従う信仰に生きれるのは、ただ天の父なる神さまが、この真理を悟らせてくださったからです。

主イエスは、ここで、同じ真理を明らかにされたのです。神を父と及びできるのは、聖霊のお働きによるのだということです。もう一か所、ローマの信徒への手紙第8章14節に聴きたいと思います。 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」つまり、聖霊に導かれた人、聖霊を受けた人だけが、神をアッバ、つまり、「お父さま」と呼べるわけです。それ以外の人は、真実に、神をお父さんとは、呼べないのです。神の子とされていないからです。つまり、もしも誰かが教会のなかで、この私どもの父なる神さま以外のものに向かって、「父よ」と呼ぶ者がいれば、それは、偶像礼拝者になるはずです。だから、「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」と命じられるのです。あなた方のなかで、偶像礼拝者はいないはずだし、いてはならないということです。

そう致しますと、ここで、主イエスがおっしゃった御言葉の意味は何でしょうか。本意は、どこにあるのでしょうか。それは、「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」また、「あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」にあります。あなた方の先生はただ一人。あなたがたの先生は、キリストお一人。つまり、他ならない、ご自身についての宣言なのです。イエスさまご自身こそ、信仰の唯一の教師であり、模範でいらっしゃることを高らかに宣言なさったわけです。

さて、そこで、この教師の意味についてこそ、掘り下げて考えてみなければなりません。ヨハネによる福音書の中に、人々からラビと呼ばれていた律法学者がイエスさまをラビと呼んでいる場面があります。ここで、主イエスが、先生と呼ばれてはならないと仰ったときの先生とは、ラビという言葉が用いられています。これは明らかに、当時の律法学者たちがラビと呼ばれていたことへの真正面からの批判です。ギリシャ語では、通常、教師とか先生は、ディダスカロスが用いられます。ところが、ご自身を唯一の教師と宣言されたときの言葉は、実は、新約の中で、ここでしか使われないギリシャ語です。

たとえば、皆さんの中で、時に、使徒パウロのことを、パウロ先生と呼ぶことがあるかもしれません。パウロは、信仰の教師だからです。彼は、教会に対して、特別の位置、立場を持ちます。彼の教えは、決定的な権威をもちます。聖書において彼が語っている言葉は、神の言葉と私どもは信じているのです。何故なら、聖霊が完全に、完璧に導かれたと聖書が証しているからです。そして、その使徒パウロは、会員に、しばしば、こう勧めていることを、私どもは読んでいます。「わたしに倣う者になりなさい」です。それを、丁寧に言えば、「わたしがキリストに倣うように、このわたしにも倣いなさい」と言う意味です。

そこで考えてみましょう。いったい、この信仰の偉大な教師である使徒パウロと、信仰の唯一の教師イエスさまとは、どこが、どのように違うのでしょうか。

使徒パウロが、ここで「倣う」という福音の真理、聖書の真理について、学びましょう。わたしは、「主の祈り」の学びのなかで、いつも語っていることですが、ここでもご紹介したいと思います。それは、主の祈りは、祈りの模範であると同時に、祈りの原型だと言うことです。主の祈りを祈るとき、主イエスと結ばれて祈っていることが、他のどの祈りを捧げるときより、分かります。何故なら、これは、主イエス・キリストご自身が捧げられた祈りだからです。その祈りを祈るとは、真似ることです。口真似です。しかし、それは、祈っておられる主イエスに結ばれる方法です。カセーゲーテースと言います。主イエスは、まさにご自身を、通常の教師、先生とは、質が違う、特別な、まさに唯一の存在として描き出された、自己紹介なさったのです。

ここで少し、聖書全体の教え、教理を抑えなければなりません。先週は、私どもは、聖餐の礼典を祝いました。主イエス・キリストが、教会にお与えくださった恵みの手段の一つである礼典とは、主イエス・キリストと結ばれるためのものです。それは、洗礼と聖餐の二つです。そして、主イエス・キリストと深く結ばれる恵みの手段には、その他に、神の御言葉とお祈りがあります。今朝は、その中でも、主の祈りについて、おさらいしたいと思います。
昨年の降誕祭に洗礼を受けられた姉妹とも、今も、個人的な学び会を重ねています。そして、ついに最後になりました。ここで洗礼を受けた方は必ず、「子どもカテキズム」をテキストにして学んでいただきます。その問77にこうあります。「御言葉の中にあるお祈りのお手本は、何ですか。」答えはこうです。前半をお読みします。「イエスさまが「こう祈りなさい」と お命じくださった、主イエスの祈りです。「主の祈り」を祈るとき、 イエスさまが共におられることが分かります。なぜなら、イエスさまのお祈りをなぞることだから です。私たちをイエスさまと一つに結んでくださる祈りです。」

 ここでは、今朝もご一緒に祈りました、「主の祈り」ですが、何故、世界中のキリスト教会では、礼拝式の中で必ずこの祈りを祈るのかと申しますと、決定的な理由の一つは、この祈りを祈るときこそ、主イエスさまが、まさにこの場所の真ん中に、聖霊によってご臨在していてくださることが、よくわかるからです。イエスさまが私どもと共におられことを、主の祈りでこそ、深く、確かめることができるからです。私どもは、主イエスがこう祈りなさいとお命じくださったこの主の祈りを祈るとき、まさに、主イエスと一つに結びあわされている自分を発見できるのです。
子どもカテキズムでは、それを、主イエスの祈りを「なぞる」と表現しました。なぞるとは、文字を特に習字などを習うときに、必ずつかわれる言葉であり、方法だと思います。お手本の上に書くことです。お手本の文字にじぶんなりに上書きしてみることです。

主イエスの祈りを、私どもがなぞるわけです。そしてこの祈りは、単なるコトバ、たんなる文字ではありません。主イエスの祈りを祈るということは、主イエスという全存在に私どもの存在を重ねて頂くようなものです。主イエスに自分の存在を上書きするようなものです。

そして、まるでこの祈りを自分が祈ったかのように、自分の祈りであるかのように、天の父なる神さまが受け入れて下さるのです。それも、イエスさまをなぞったおかげです。イエスさまと結ばれているおかげです。それだからこそ、主の祈りは、特別な祈りなのです。

さて、このなぞるというイメージを、ここで思い起こしたいのは、イエスさまが、独特の教師でいらっしゃるからです。ユニークな、唯一無二の教師だからです。ヘブライの信徒への手紙第12章1節以下にこうあります。「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」口語訳聖書は、こう訳しました。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」

 この教師は、まことに、不思議な信仰の教師、神の御言葉の教師でいらっしゃいます。信仰の創始者でいらっしゃいます。言葉を換えると、信仰の導き手でいらっしゃいます。救い主、そして主でいらっしゃるイエスさまが、私どもの信仰を始めてくださり、そして保ってくださり、ついには死のときに、再臨のときに完成してくださるのです。その意味では、このお方は、単なる模範なのではありません。

習字を習いたてで、筆の使い方もまったくおぼつかない私どもの手を、この教師は、後ろからそっと握り締めて、模範的な文字を書かせて下さる、そのような教師なのです。しかも、そのすばらしい文字を、わたし自身が書いたもののように、喜び、褒めて下さるのです。そのような教師、信仰の模範であり、そして原型なのです。信仰の源泉なのです。信仰の原動力なのです。私どもが、このイエスさまの御言葉に聞き従うとき、このお方ご自身が、聞き従う力をも備えて下さるのです。

どうぞ、今、信仰を求めておられる方は、このお方、イエスさまの言葉にかけて下さい。信じて下さい。ただそれだけで、救われるからです。神の子とされ、聖霊に導かれて行くからです。イエスさまご自身が、育んで下さるからです。このお方が、信仰を起こして下さい、あるいは与えて下さり、信仰を育んでくださり、ついには、完成してくださるからです。まことに不思議な教師でいらっしゃるからです。

 横道にそれるかもしれませんが、私たちは、例えば、この人の言うことだった信じてみようと思うことがあると思います。何かの高額の商品を買う時、このセールスマンさんだから買おうということがあると思います。そのとき、商品についての知識より、セールスマンへの信頼や好感が決め手になることもあると思います。しかし、今朝、学んだのは、そのようなこととはまったく次元が違います。

 また、このようなこともあわせて考えてみることも、無駄ではないと思い舞す。気がつけば、ここには教育関係者、元教師や現役の教師の方もおられます。学校の教師、先生は、本当に大変な環境のなかで、務めを担っておられると思います。教会は、特に、彼らのためにも、祈らなければならないのだと思います。ただし、どの時代でも、教師の務めは、固有の困難さがあると思います。生徒さんたちが、実際に教師の言うとおりに、学び、勉強してくれないと、どうすることもできないと思うからです。もとより、勉強への動機づけの力もまた、教師の力量でしょう。しかし、最後に、おそらくどの先生も例外なしに、最後の責任を負うことはできないと思うのです。つまり本人が、実際に努力して、教師にくらいついて勉強してくれないと結果がでないと思うのです。つまり、いかなる地上の教師も、わたしにまかせない、絶対に、100%、目標を突破させてあげると断言できないと思うのです。いわんや、信仰の教師の目標は、天国です。救いです。「俺について来い、俺だけを見ろ、絶対に天国へ連れて行ってやる」これは、言えないのです。

しかし、御言葉と信仰の唯一の教師イエスさまは違います。このお方の御言葉を聞いて、信じて従えば、このお方が信仰を始めさせて下さいます。十字架についてくださったイエスさまを、救い主、キリストと信じるなら、このイエスさまだけを唯一の主と信じ、すがって生きるなら、まさに通常は、言い切れないこと、仕えないこの言葉をここで大胆に使うことができるのです。それは、絶対に大丈夫ということです。このイエスさまをキリストと告白し、信じるなら、そして教師として信じ、従うなら、この教師が信仰を起こし、支え、完成してくださいます。

その限り、信仰の教師としてのわたしにも、出番があります。イエスさまを信じるなら、絶対に大丈夫、イエスさまだけについて行けば、見つめて行けば、絶対に天国に入れる、導かれる、救われる、助けられる、大丈夫と宣言することです。これが、牧師の務めです。そしてまた、キリスト者の務めでもあります。教会の外にいらっしゃる方々には、キリスト者ひとりひとりが、イエスさまを信じれば、大丈夫です、救われます、罪赦されますと宣言する責任と使命が与えられています。そして、今朝学んだことを当てはめるなら、伝道し、証をするキリスト者自身が、その愛する相手の信仰を起こすことはできません。しかし、主イエスご自身が、聖霊なる神ご自身が、父なる神ご自身が、信仰へと導かれるのです。それを、信じることが、私どもの伝道奉仕の出発点です。
どうぞ、改めて呼びかけます。まだ聖餐の礼典にあずかれない方々は、今朝、イエスさまをキリストと信じて下さい。そして、洗礼を受けることを求めて下さい。

最後に、既に、キリスト者、会員の皆さまにも呼び掛けます。もし、このもっとも単純で、基本の福音の真理が不明瞭になっている兄弟姉妹がいれば、聖書の言葉をそのまま信じなさいと命じます。イエスさまの御言葉に対して、ああだこうだと、議論する余地はありません。分からないとかつまらないとか、そのように評論する余地はありません。聖書の御言葉を信じるか、信じないかです。実行するか、しないかです。信じて従うときに、神の言葉が、私どもの内に働き、動き、私どもを聖書に記され、約束された信仰の恵みに満たされて行くのです。私どもの人間的な覚悟とか自信が求められているわけではまったくありません。私どもの人間的な考えや体験が、むしろ、それこそ、邪魔をするのです。ただ、信仰の唯一の教師を見つめることです。導き手を信じることです。創始者であり、完成者でいらっしゃる主イエス・キリストに頼ることです。どうぞ、この唯一の教師イエスさまを信頼し、志新たに、このイエスさまを仰ぎ見続けてまいりましょう。

祈祷
私どもの信仰の唯一の教師でいらっしゃるキリスト・イエスの父なる御神、それゆえに私どもの天の父よ、あなたの御霊を注がれて、今、私どもは、十字架につけられたイエスさまをキリストと告白することができました。そして、キリストの教えを、あなたの教えとして信じ、信頼し、従う者とされました。そして、理解すること、さらに、実行することができるようにも造り変えられました。もとより、まだまだ始まったばかりです。何度、失敗し、時に挫折して立ち止まることもありました。しかし、あなたは、お見捨てにならずに、何度も、御言葉の説教によって、聖餐の礼典によって、祈りによって、主イエス・キリストと一つに結び合わせ、私どもを救いの喜びと感謝に導いて下さいます。どうぞ、これからも、死に至るまで、御子、主イエス・キリストを信仰の教師として信頼し、その御言葉に生きる者とならせてください。そして、私どもの伝道、証によって、罪の赦し、救いへと招かれ、導かれる方々を起こして下さい。私どももまた、小さな信仰の教師として、教会において、教会の外において、豊かに用いて下さい。アーメン。